第2279話
「レイ、またすぐに戻ってくるのか?」
「そうしたいとは思っている」
紅茶を飲みつつ、焼き菓子や新鮮な果実、干した果実といった諸々を味わいつつ、レイはそうエレーナに言葉を返す。
最初に少しだけ……本当に少しだけ微妙な雰囲気にはなったが、十分程話していれば、その微妙な雰囲気も解決している。
今はレイとエレーナの二人で、ゆっくりとした雰囲気のまま話していた。
尚、アーラは用事があるからと既に居間から出て行った。
それが本当に何らかの用事があってのことなのか、それともあくまでもそういう建前にして、レイとエレーナを二人きりにさせる為なのか。
その辺は、レイにも分からない。
分からないが、今こうしてエレーナと二人だけの時間をすごしているのは、間違いのない事実だった。
「危険はありそうだが、向こうの世界も十分に面白そうだな。……私も一度は行ってみたいのだが」
「今は無理でも、もう少し時間が経てば出来るようになるんじゃないか? 楽観的な予想でしかないけど」
「面会を希望する者がいなければ、一日や二日……あるいはもう少しいなくても、問題はないのだが」
そう告げるエレーナは、残念そうな様子を隠さない。
まさか、面会を希望する者を全て却下する……などという手段を取る訳にはいかない。
顔を覚えて貰うという目的の面会が多いのだが、中には貴族としての相談を持ってくる者もいる。
……正直なところ、エレーナは貴族の悩みに対して特に何かが出来る訳ではない。
それでも、深刻な様子で相談に来る相手がいるのなら、それをどうにかしてやりたいとは思ってしまう。
勿論、本当にどうしようもない相談を持ってくる者もいるので、その場合はどうにもならないのだが。
「何だか、疲れてないか?」
何人かの貴族からの相談を思い出していたエレーナは、レイの言葉で我に返る。
愛する男と一緒にいるのに、それを忘れて自分の考えに没頭してしまうとは。
そう思いつつ、首を横に振る。
「いや、そうでもない。……違うな。ヴィヘラの一件で少し疲れてはいるかもしれないが、あくまでも少しだけだ」
そう告げるエレーナの様子に、レイはそうなのか? と疑問を抱く。
エレーナは、顔に疲れが出る程に疲れている訳ではない。
例えば、憔悴しているとか、目の下に隈があるとか、そのような分かりやすい疲れ方ではなかった。
だが、雰囲気が……そう、エレーナの身に纏う雰囲気が、どこか疲れているようにレイには見えたのだ。
あくまでもそうレイに見えたというだけで、実際にどうなのかは分からなかったが、話した感じでは間違いないように思えた。
「ともあれ、だ。……レイは今日はどうするか決まっているのか? 泊まっていくのか、それとも向こうに戻るのか」
「悪いけど、向こうに戻るよ。ヴィヘラがいれば、戦力的には心配ないだろうけど、一度に多数のドラゴニアスがやってくれば、ヴィへラだと厳しいだろうし」
それは、ヴィヘラがドラゴニアスに負けると言っている訳ではない。
ヴィヘラであれば、百匹……それ以上のドラゴニアスを相手にしても、間違いなく勝てるだろう。
だが、ヴィヘラの戦闘スタイルはあくまでも対個人に特化している。
百匹を超えるドラゴニアスと戦う際には、例えばレイが使うような広範囲殲滅魔法……とまではいかなくても、ある程度纏めて攻撃出来るスキルや魔法の類を持ってはいない。
結果として、ドラゴニアスと戦う時は、単純に考えて一対一を百回繰り返す必要がある。
……実際には、一撃によって二匹から三匹の敵に攻撃を当てるといったような真似が出来るので、それを考えればもっと戦いの回数は減らせるだろうが。
ただし、そうして少数と戦うとなると、当然のように戦闘時間は普通よりも長くなってしまう。
その結果として、まだ戦闘していないドラゴニアスはケンタウロスの集落に向かうという可能性は否定出来なかった。
何しろ、ドラゴニアスは飢えに支配されているのだ。
幾らヴィヘラが柔らかそうな肉を持っているとはいえ、他のドラゴニアスに襲われているのを考えれば、自分のいる場所までは回ってこないという可能性が高い。
だからこそ、近くにある集落を襲ってそちらで飢えを満たす。
そのように考える者が出て来ないとも限らなかった。
(つまり、周囲に集落とかがない場所……草原のど真ん中とかでヴィヘラがドラゴニアスの群れと遭遇した場合は、全く問題なく倒せるんだろうけど。例え金の鱗を持つドラゴニアスと遭遇したところで、浸魔掌があれば問題ないだろうし)
レイの放った黄昏の槍の一撃すら、鱗にダメージを受けながらではあるが、受け流した金の鱗を持つドラゴニアス。
だが、幾ら強力な防御力があったとしても、その防御力を無効化できるのであれば、それは意味がない。
そしてヴィヘラの浸魔掌はそれが可能なのだ。
「そうか。……向こうの世界に行くのか」
レイの言葉に、エレーナの口からは残念そうな声が漏れる。
エレーナとしても、出来ればレイと一緒に向こうの世界に行きたいと、そう思っているのだろう。
だが、今の状況を思えば、そのような真似はまず出来ない。
「悪い。ただ、アナスタシアとファナを見つける為には、向こうの世界に行く必要があるんだよ」
「分かってはいる……のだが、な」
ふぅ、と。
小さく息を吐くエレーナ。
本人にその気はないのだろうが、今の様子は見る者の目を惹き付けるだけの強烈な魅力に満ちていた。
「今回の件が片付いたら、どこかに遊びに行きたいな」
「遊びにか。今の状況を考えれば、それは少し難しいな」
元々、遊びに行けるだけの余裕があるのなら、それこそ今の状況でケンタウロスのいる世界に向かえるのだ。
その後、少し話をし……話題はマリーナに向けられる。
「それで、これから向こうの世界に行くのなら、マリーナには会っていかないのか?」
「いや、戻る前に診療所にちょっと寄っていくつもりだよ。……ここにいれば、話は別だったんだけどな」
「それはないだろう」
レイの言葉に対し、即座に告げるエレーナ。
もっとも、レイもまたそんなエレーナの言葉にはすぐに納得する思いがあるのは間違いなかった。
増築工事を行っている関係上、どうしてもそこには怪我をする者が出て来る。
もしくは、増築工事をしている者の中には気の短い者もおり、そのような者達が意見の相違といった理由から喧嘩をして怪我をするといったことも多い。
ましてや、増築工事に参加している者の数は数千……もしくは数万に達する。
当然のように、診療所というのは大忙しなのは間違いないし、何よりレイも今まで何度か診療所に寄ったことがあり、怪我人が行列を作っているのを見たことがある。
(たまに……本当にたまに、怪我人が殆どいないような時もあったけど、それは本当に珍しいことだったんだろうしな。そうなると、診療所に寄ってみて人が少なければ顔を出すって事でいいか。スラム街の方は……そんな時間はないか)
時間はないかと自分に納得させるように考えたレイだったが、実際にはレイが以前スラム街で多くの組織を殲滅してから、結構な時間が経っている。
時間がなくて襲撃出来なかった組織も、恐らくはもうスラム街……いや、ギルムから撤退した可能性が高いのは間違いなかった。
あるいは……本当に万が一の可能性ではあるが、何かを勘違いし、レイが自分達には手を出せないと考えて残っている可能性は否定出来ないのだが、本当にそのようなことになるかと言われれば、レイとしては素直に頷く訳にいかないのは間違いのない事実だった。
「ともあれ、診療所の方は忙しいかもしれないけど、取りあえず顔を出してみるよ」
スラム街については一旦置いておき、そう告げる。
診療所によるというレイの言葉に、エレーナもその方がいいと頷く。
自分と同じレイを愛する女として、久しぶりにレイが戻ってきたのだから、そんなレイに会えないとなれば、マリーナも非常に残念がる筈だ。
そうして少し話をし……少し早めにマリーナに会いに行った方がいいとエレーナに言われたレイは、座っていた椅子から立ち上がるのだった。
「グルゥ……」
街中を歩くセトは、珍しく残念そうに喉を鳴らしていた。
いつもなら、レイと一緒にいるだけで嬉しそうにしているのだが。
この辺りの違いは、やはりイエロと思う存分遊べなかったからだろう。
セトがイエロと会ったのは、随分と久しぶりだった。
だからこそ、セトとしてはもっとゆっくりイエロと遊びたかったのだろう。
とはいえ、レイとしてはエレーナから暗に早く自分だけではなくマリーナにも会いに行けと、そう示されており、そうした方が正しいと思えた以上、それに従わないという選択肢は存在しなかった。
「今回の一件が片付いたら、またゆっくりイエロと遊べるようになると思うから、もう少し我慢してくれ。な?」
「……グルルルゥ」
レイの言葉に、セトは仕方がないと喉を鳴らす。
そんなセトをなだめながら、レイは診療所に向かい……
「運がいいな」
診療所の前に怪我人の列が出来ていないのを見ると、そう呟く。
この様子を見る限りなら、今日の診療所は暇……とは言わないまでも、そこまで忙しくはないのだろうと。
「セトは……」
「グルゥ」
まだ完全に機嫌は治っていないのか、セトはレイが何かを言うよりも前に少し拗ねた様子で診療所から離れた場所に行く。
(俺が診療所に入ってる間、セトはこうして寝転がってるだけだしな。セトが拗ねるのも仕方がないか)
とはいえ、マリーナに会って話をしたら、レイはそのままトレントの森に……そして、異世界に向かう。
そうである以上、セトをマリーナの家に置いてくるという訳にはいかなかった。
イエロを連れてくればよかったか? そんなセトを見て一瞬そう思ったレイだったが、すぐにその考えを否定する。
イエロは黒竜だが、まだ子供でしかない。
子供としては考えられない程に強力な防御力を持っていたり、姿を消すといった能力もあるが、ここはギルムだ。
辺境故に腕利きの冒険者が多くいて、その中には金の為なら何でもやると考えるような者も少なくない。
イエロが姫将軍の異名を持つエレーナの使い魔だと知っていれば、迂闊に手を出すような真似をしないだろうが、それを知らない者……もしくは、知っていても金の為なら平気で手を出す者といった者は相応にいる。
そのような者がいる以上、イエロをギルムで自由にさせる訳にはいかなかった。
イエロは高い知能を持っているが、それでもまだ子供なのは間違いない。
つまり、子供らしいミスで捕まってしまうという可能性は決して否定出来ないのだ。
だからこそ、レイはイエロを連れてくるべきだったかという考えを、すぐに否定したのだった。
「じゃあ、これでも食べて少し待っててくれ」
レイがセトの前に出したのは、焼き菓子だ。
それもその辺の店で売ってる焼き菓子ではなく、アーラが自慢していて、レイやエレーナも美味いと思った焼き菓子。
レイ達がそれを食べている時、セトとイエロは一緒に遊んでいたので焼き菓子を食べてはいない。
それだけに、セトはレイが置いた皿の上にある焼き菓子を興味深そうに眺めていた。
レイはそんなセトを軽く撫でると、診療所に向かう。
そして扉を開けると……
(うん、やっぱり今日は当たりだったな)
診療所の中には怪我人がいて手当を受けてはいるが、その怪我人の数はそう多くはない。
診療所の中を見回すと、マリーナの姿はすぐに見つかった。
当然だろう。診療所で働いている者は、基本的に動きやすい服装をしている。
そんな中でパーティドレスを着ている女がいれば、それが目につかない訳がない。
ましてや、圧倒的な女の艶を放つ美貌を持つダークエルフの女ともなれば、それで人目を惹くなという方が無理な話だ。
そして、当然のようにマリーナも診療所に入ってきた人物が誰なのかに気が付く。
「あら、レイ。……久しぶりね」
笑みを浮かべてそう告げてくるマリーナだったが、こちらもまたエレーナが見せたのと同じように、何かを含んだ笑みだ。
そして笑みの中に何が含まれているのかというのは、レイもまた当然のように知っていた。
「久しぶりだな。元気だったか?」
「ええ。レイがいないから寂しかったけどね」
ざわり、と。
レイとマリーナの声が聞こえた周囲の者達がざわめく。
以前にもレイがマリーナに会いに来たのを知ってるので、ここで働いている者の中には驚いている者は少ない。
怪我人の中には、以前からギルムにいた冒険者もいるので、そのような者もレイとマリーナの関係を知ってるので、驚くようなことはない。
だが……その辺りの事情を知らない、最近ギルムにやって来た者……特にマリーナの美貌に魂を奪われた者は、マリーナの言葉にただ驚くのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます