第2227話

「なぁ、昨日の戦いって何だったんだろうな」


 いつもより少し遅めの朝食を食べながら、レイは隣にいる騎士に尋ねる。

 尋ねてはいるが、レイの視線はリザードマンの子供達と遊んでいる水狼の姿がある。

 とてもではないが、昨夜死闘を繰り広げた相手とは思えない、そんな光景。

 その光景を見れば、本当に昨夜の戦いは一体何だったのかと、そのような疑問を抱いてもおかしくはなかった。

 レイに声を掛けられた騎士はといえば、上に……ダスカーに提出する報告書の内容に頭を捻らせていた。

 当然だろう。

 まさか湖に自分達と意思疎通出来て、その上で友好的な関係を築ける相手がいるとは、思っていなかったのだ。

 その上で、水狼と交渉したのはダスカーでもなく、この場の責任者たる騎士でもなく、レイ。

 水狼が交渉相手としてレイを選んだ以上、それに応じない訳にはいかなかったのだが、それだけに報告書の内容には気を遣う必要があった。

 ……もっとも、ダスカーもレイのことは深く信頼している。

 これまで幾つもの仕事を頼み、その仕事の全てを完全にこなしてきたことで信頼が積み重なった関係だろう。


「昨日の戦いがあったから、水狼もこっちを信じてもいいと思ったんだろう? なら、そこまで問題はないと思うが?」


 報告書の内容に悩みながらも、騎士はレイにそう答える。

 こうしてあっさりと水狼との友好的な関係を築けるのなら、昨日の戦いはいらなかったのではないか。

 そう思うのは、決してレイの考えすぎという訳ではないだろう。


「あの様子を見れば、昨日の戦いがなくてもある程度どうにかなったと思うんだけどな。違うか?」

「どうだろうな。その辺りは、それこそ戦ってみないと何とも言えないだろうし。あの戦いがあったからこそ、水狼はこっちを認めたとも考えられる」


 本当か? と、そんな騎士の言葉に考えるレイだったが、取りあえずそう言うのであればひとまず信じることにしておく。

 今の状況で何かを言っても、それこそ今更の話だろうと思って。


「レイ、そろそろ行きたいんだけど」


 騎士と話していたレイに、アナスタシアがそう声を掛けてくる。

 アナスタシアにしてみれば、水狼の生態やどれだけの知能を持っているのかといったことにも興味を抱くが、やはりそれ以上に強い興味を持つのは、ウィスプだった。

 リザードマンの子供達や水狼、そして生誕の塔や湖を異世界からこの世界に転移させたのは、間違いなくトレントの森の中央にある地下空間に存在するウィスプなのだから。

 それを考えると、やはり大元のウィスプに一番強い興味を抱くのは、学者としては当然だった。

 アナスタシアの隣では、ファナもいつもの仮面をつけたままレイの様子を見ている。

 アナスタシアの暴走を止めるのがファナの役目ではあるが、ファナにとっても出来れば早くウィスプのいる地下空間に向かいたいのだろう。


「分かった。……取りあえず、俺がここにいてもあまり役に立つとは思えないし、行っても構わないよな?」

「いや、役に立たないってことはないだろう。というか、レイがいないと水狼とまともに交渉出来る相手がいないんだ。それは困るぞ」


 報告書の内容に頭を悩ませていた騎士は、レイに向かってそう告げる。

 実際、その言葉はそう間違っている訳ではない。

 水狼はこの場所にいる者達に対して友好的に接しているが、それはあくまでもここにいるのがレイの仲間だから。

 それは話し合いの相手としてレイ以外の存在を認めないといった様子を水狼が見せたのを考えれば、明らかだろう。

 だからこそ、騎士にしてみればレイがこの場にいないというのは不安でもある。


「出来れば、その二人を送っていったら、またすぐここに戻ってきて欲しいんだが……構わないか?」

「俺には俺で、色々とやるべきことがあったんだけど……この場合は仕方がないか」


 本来なら、まだスラム街に残っている組織を今日で潰すつもりだった。

 だが、自分を狙っている暗殺者を擁する組織を潰すのと、湖の中でも強い影響力を持っているだろう水狼のどちらを優先するのかと言われれば、レイとしても後者を優先させざるをえない。


「悪いな」

「ああ。……けど、今回の一件を考えるとしょうがないだろ。ただ、樵が伐採した木を運ぶ必要があるから、午後にはそっちに行かせて貰うぞ」

「それは構わない。ギルムの増築工事は少しでも早く進めたいしな。……その辺りのことを考えると、寧ろ頼むと言いたいくらいだ」


 レイはその言葉に、そこまで気にするなといったように首を横に振る。

 水狼との一件は、レイにとっても非常に興味深い存在なのは間違いない。

 であれば、ここで無理を言うようなことはない。


「レイ」


 早くして、と。

 そうアナスタシアがレイに視線を向けてくる。

 その手の趣味の者であれば、背筋を震わせて嬉しく思うような、そんな視線。

 だが、生憎とレイはその手の趣味を持っている訳ではないので、特に気にした様子もなくセトを呼ぶ。


「セト、そろそろ行くから、来てくれ!」

「グルゥ!」


 レイの言葉に、セトは鳴き声を上げて近付いてくる。

 ……リザードマンの子供達と遊んでいた水狼が、そんなセトの姿を見て少しだけ興味深そうにしていたのだが……セトはそれに気が付いているのか、いないのか。

 ともあれ、水狼の方を向いたりはせずにレイの下にやってくる。


「グルゥ!」


 準備万端だよ! と鳴き声を上げるセト。

 レイはそんなセトの頭を撫でると、アナスタシアとファナの二人に視線を向ける。


「じゃあ、行くか」


 二人は、そんなレイの言葉に頷くのだった。






「ゴブリンの数が結構多いのは面倒ね」


 地下空間に続く道が隠されている場所に到着すると、アナスタシアは嫌そうに言う。

 ファナも仮面をつけているので表情は分からないが、頷くことでアナスタシアの意見に賛成していた。

 もっとも、レイもそんなアナスタシアやファナの気持ちは分からないではない。

 一匹一匹は弱く、頭も悪い。

 だが、頭が悪いからこそ、セトを前にしても逃げ出すようなことはせず、襲い掛かってくる。

 もっとも、当然のようにセトが実力を見せれば逃げ出すのだが、その実力を見せるというので幾らか時間が取られてしまい、レイにとってはそれが面倒なのだ。

 ……アナスタシアやファナにしてみれば、それ以外にも自分の身体を狙って――性的な意味で――くるのだから、余計にゴブリンに強い嫌悪感を抱くのは当然だろう。

 そんなゴブリンが、今日に限ってトレントの森にかなりの数いたのだ。

 何故今日に限ってここまでゴブリンがいるのかは、レイにも分からない。

 分からないが、それでもいる以上はこのままにしておく訳にもいかなかった。


(取りあえず、ゴブリンの数を減らす必要があるな。……ゴブリンの繁殖速度は異常だから、可能な限りどうにかしたい)


 そう考えるも、ゴブリンは繁殖力が強いが、その代わり弱い。

 それこそ、他のモンスターにもあっさりと殺されたり、場合によっては餌にされたりもする。

 ゴブリンの肉は臭くて食えないというのが一般的な評価だったが、モンスターの中にはそんなゴブリンの肉を好んで食べるような者もいる。

 レイとしては、そういう物好きなモンスターがいてくれればなと思いつつ、セトに周辺の警戒を頼んで、アナスタシアとファナの二人と共に地下空間に向かう。


「アナスタシア、今日はもしかしたら迎えに来るのが遅くなるかもしれないが……まぁ、アナスタシアの場合はそれはそれで構わないか」


 アナスタシアの性格上、レイが迎えに来るのが遅ければ、それだけウィスプを研究する時間が増えると、寧ろ喜ぶだろう。

 だからこそ、それで構わないか? ではなく、それで構わないかと断定した形で話し掛けたのだが。

 そんなレイの言葉に、アナスタシアは当然といったように頷く。


「ええ、それで構わないわ。どうせなら、もっとゆっくりとしてきてもいいのよ?」


 ぶんぶんと、アナスタシアの側で話を聞いていたファナが首を横に振ってアナスタシアの言葉を否定する。

 アナスタシアの助手……正確には面倒を見ているファナにしてみれば、アナスタシアの面倒を見る時間が増えるのは出来れば止めて欲しいというのが正直なところだった。

 レイも、ファナだけにアナスタシアの面倒を押しつけるつもりはないので、ファナの懇願の雰囲気に頷きを返す。


「ちょっと、二人ともどういうつもり?」


 レイとファナのやり取りに気が付いたアナスタシアが、不満そうに呟く。

 だが、レイとファナの二人は、そんなアナスタシアの様子に構わずにそれぞれに行動を始める。

 ファナは昨日ここに置いていった実験用の器具の確認を。

 レイは地下空間の中に何か異常がないか。……正確には、グリムが隠すように置いてあるマジックアイテムに何か異変がないか。

 昨日ここを出る時に、グリムにアナスタシアの研究資料を見てもいいと言って、それに了承の返事――空中から手を出して振ってきただけだが――をしたことから、何らかの進展があったのでは? という思いがあったのだが、レイが見ている限りでは特に何か変わっているようには思えない。

 マジックアイテムの場所が幾つか変わっているが、それだけだ。


(グリムにとっても、このウィスプについて調べることは出来ないのか。……それもおかしくはないか)


 目の前に存在するウィスプは、異世界から色々な者や物を転移してこの世界に持ってくることが出来るという能力を持っている。

 それは明らかに普通の能力ではない。

 それこそ、この世界の歴史で見ても非常に稀な存在だろう。

 そうである以上、幾らグリムが優れた研究者であってもそう簡単にどうにか出来る訳がなかった。

 今のところ、レイとして出来るのはアナスタシアでもグリムでもいいから、出来るだけ早くウィスプについての研究を進めて欲しいということだ。


(将来的に異世界に行けるようになる可能性もあるし)


 レイの目的としては、やはり元の世界……地球への帰還だ。

 いや、この世界に骨を埋める覚悟は出来ているので、正確には帰還ではなく少し用事をすませに行ってくるという表現の方が正しい。

 地球の日本でなければ買えない物を買い、それ以外にも様々な知識――とくに料理関係――を集めたり、本を買ったりといったようなことをしたかった。

 また、向こうの世界に置いてきた家族や友人に会いたいという思いもある。

 ……もっとも、佐伯玲二と今のレイは外見からして大きく違う。

 とてもではないが、見ただけでレイを玲二だと理解出来る者はいないだろう。


「レイ? どうしたの?」

「いや、あのウィスプは一体どういう奴なんだろうって、改めて考えていてな。……どう思う?」

「どうって言われても……私から言えるのは、非常に興味深い存在であるというだけよ」


 きっぱりとそう告げる様子に、レイはそうかと返すだけだった。

 実際に今回の一件においてはアナスタシアが頼りになる存在である以上、ここで妙なことを言って機嫌を損なうのは止めた方がいいと判断したためだ。


「そうか。なら、ウィスプの件は任せる。……さて、俺はそろそろ戻るから、こっちの件についてはよろしく頼むな」


 出来るだけ早く湖に戻った方がいいだろうと判断し、レイはそう言って地下空間から出る。


「グルゥ!」


 そんなレイの姿を見て、周囲を警戒していたセトは嬉しそうに鳴き声を上げつつ近付いてくる。

 そんなセトを撫でながら、レイは周囲の様子を確認し……十匹以上のゴブリンの死体が転がっていることに気が付き、嫌そうな表情を浮かべる。


(やっぱりゴブリンが増えてきてるな。……一度大規模にゴブリン狩りをした方がいいんだろうけど……人手がな)


 ゴブリンは出来るだけ処理したい。

 だが、以前ならともかく、生誕の塔や湖が転移してきてしまった以上、容易に他の人手を使ったりといった真似は出来ない。

 ましてや、水狼の一件も考えれば余計に秘密を守る必要があるだろう。

 そうなると、事情を知っている者だけでということになるのだが、そうなればなったで人数が少ない。


「まぁ、その辺のことはお偉いさんが考えればいいか。俺は取りあえず、ゴブリンが増えてるって件を知らせておけば、それでいいだろ」


 方針を決めると、レイはセトに乗ってその場を後にする。

 そうしてトレントの森の中を駆け抜けるのだが、その途中でやはり何度かゴブリンの群れに襲われ、その度にゴブリンを吹き飛ばしては、湖に向かう。


(俺が思っていた以上にゴブリンが多くなってないか? これは……正直なところ、厄介すぎるな)


 そんな風に考えつつ、レイは遠くに見えたゴブリンに向かって黄昏の槍を投擲するのだった。

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