第2226話
「おい、レイ! 起きてるか、レイ!」
その声が聞こえた瞬間、レイは半ば反射的に飛び起きる。
これが何らかの依頼の最中というのではなく、それこそ宿やマリーナの家で寝ている時であれば、ここまですぐに目を覚ますようなことはなかっただろう。
だが、今は依頼の最中であるということもあり、マジックテントの中にあるベッドで寝ていたレイは外から掛けられた声にすぐに反応し、何が起きてもいいように周囲の様子を確認する。
だが、周囲には特に敵がいるような気配は存在しない。
マジックテントの外で何か騒いでいるような声は聞こえてくるが、それも特に戦いの騒ぎという訳ではない。
「おい、レイ! 入るぞ」
その言葉と共に、冒険者の一人がマジックテントの中に入ってくる。
レイは素早く身支度を整えながら、その冒険者に尋ねる。
「何があったんだ?」
「水狼だよ、水狼。さっきまた水狼が現れた」
「……攻撃してきたのか? いや、違うな。ああ、そう言えば昨夜はまた今日になったら来てくれって言ったな」
本来なら、昨日……昨夜のうちにしっかりと水狼と話をすればよかったのだろうが、昨夜のレイはかなり疲れていた。
ギルムのスラム街にある裏組織を複数滅ぼし、ここに戻ってきてからはガガと武器を持たない素手での模擬戦を行い、その上でいきなり水狼の襲撃だ。
体力に自信のあるレイであっても、それで疲れるなという方が無理だった。
結局、昨夜は水狼と停戦――という表現が相応しいのかどうかはレイには分からなかったが――した後は、精神的にも体力的にも疲れていたことがあってすぐ眠ってしまい、こうして声を掛けられるまでぐっすりと眠っていたのだ。
幸いにして、ゆっくりと眠ることが出来た為に、現在レイの頭はすっきりとしていて、身体に昨夜の疲れが残っているといったこともない。
「水狼が。……そう言えば、昨夜はまた今日来るように言ってたけど、随分と……」
そこで思い直し、ミスティリングの中からミスリルの懐中時計を取りだして時間を確認する。
午前七時すぎ。
時間としては、レイが言う程に早い時間ではない。
いや、普通に働いている者にしてみれば、まだ十分早い時間かもしれないが、冒険者にしてみれば寧ろ遅いと言ってもいいだろう。
ギルムは午前六時に門が開くのだが、その時にはもう門の側で仕事の依頼を受けた冒険者がいるのは珍しい話ではないのだから。
「単純に俺が寝坊しただけか。他の連中は?」
「皆、昨日の件もあって結構寝坊した奴が多かったな。朝食は保存食とかで適当にすませた奴も多い。……中には魚を獲って焼いてる奴もいたけど」
「よくもまぁ」
感心と呆れが混ざった様子で、レイが呟く。
湖の魚が普通に食べられるのは、今までの経験から理解している。
だが、それはすぐ身体に影響を及ぼさないというだけかもしれないし、それよりも昨夜の水狼の一件があったのに、よく湖から魚を獲ろうと思ったという意味もあった。
もしかしたら、その魚を獲ることによって水狼を怒らせるかもしれないと考えなかったのか、と。
もっとも、レイが昨日接した水狼は最初はともかくしっかりと話の分かる相手だった。
それを思えば、魚を獲ったくらいで水狼が怒るといったことはないだろうというのが、レイの予想だった。
……そもそも、魚を獲るという点ではかなり前から魚を獲っていたのだから、今更の話だろう。
「それで? 俺を起こしに来たのはもうこんな時間だったからか?」
「いや、違う。さっきも言った通り、水狼が来てる」
「そう言えばそんなことを言ってたな。俺を起こす為の悪質な冗談かと思ったけど」
「こんな状況で、俺が冗談を言うと思うか?」
冒険者のその言葉には、レイも納得するしかない。
この生誕の塔の護衛の依頼を受けるまでは、顔を見たことがあるような者が殆どで、初めて顔を見るような者もいた。
そんな者達ではあったが、それでも何日も一緒に寝泊まりし、食事を共にしていれば、当然のように会話をするようになるし、打ち解けもする。
そしてレイを起こしに来た冒険者は、レイが知る限りでは下らない嘘を吐くような相手ではない。
……それ以前に、ここにいる冒険者はギルドから実力も人格も優秀だと認められて派遣されてきたのだから、意味のない嘘を吐くような者ではなかったが。
「その割には静かだな」
昨日の今日である以上、水狼を見れば皆が警戒してもおかしくはない。
だというのに、今こうしてレイの前にいる冒険者は特に焦っている様子はない。
驚きはしているが、そこまで動揺しているといった感じではないのだ。
「ああ。水狼は昨日と違ってそこまで大きくない状態で姿を現してくれたからな。……最初は警戒したんだが、水狼は近くまで来てもこっちに攻撃をしてくる様子はなかったし」
「それは……なるほど」
昨日の件から、水狼は決してゴブリンのように本能に任せて暴れるだけではなく、高い知性を持つ存在であるというのはレイも知っている。
また、水狼が穏やかな性格をしているかどうかというのは、レイにもまだ分からない。
昨日は積極的に攻撃してきたが、それはあくまでもレイとガガの戦いに反応してのものの筈だった。……正確には、しっかりと話を聞いた訳ではなかったが、話の流れからそれで間違いではないとレイには思えた。
「分かった。なら、取りあえず様子を見てみるか。……出来れば、水狼とは友好的にやっていければいいんだけどな」
転移してきた湖は、この世界の者にとっては未知の存在だ。
それこそ、巨大なスライムの件を考えても、何があってもおかしくはない。
それだけに意思疎通が出来て、更にはこの世界の者にとって友好的な存在というのは非常に貴重だ。
だからこそ、可能であれば友好的な存在となって欲しいという思いが強いのだ。
「その辺はレイの説得次第……と言いたいところだけど、多分大丈夫じゃないか?」
何故か楽観的な様子を見せる冒険者に疑問を抱きながらも、レイはマジックテントの外に出る。
するとすぐにセトが近づき、朝の挨拶として顔を擦りつけてくる。
「ああ、おはよう。セトは今日も元気そうで何よりだ」
セトの頭を撫でながら、レイは周囲を見回し……少し離れた場所に、リザードマンと冒険者達が集まっているのを見つける。
(多分、水狼はあそこにいるんだろうな)
確認の為に自分を起こしに来た冒険者に視線を向けると、返ってきたのは頷き。
それを見て、レイはセトと共にそちらに向かって近付いていく。
当然のように、集まっている者達は近付いてくるレイとセトに気が付き、場所を空ける。
「あー……」
そこにあったのは、レイも言葉に詰まってしまうようなものだった。
冒険者の一人が、焼いた魚を水狼に与える。
すると水狼はその魚を咥えて呑み込む。
太陽が出ているおかげで、水狼が焼き魚を呑み込んでいく光景は、誰の目にもしっかりと分かった。
そして胃と思われる部分に到着した魚は、次第に溶けて水狼の身体に吸収されていく。
「……なるほど。珍しい光景なのは間違いないな。にしても……」
呟き、レイは改めて水狼を見る。
そこにた水狼の大きさは、昨夜とは全く違う。
普通の狼よりは大きく、セトより若干小さいくらいの大きさ。
だが、昨日レイが戦った水狼と比べると、圧倒的に小さくなっていた。
(やっぱりこれも身体が水で出来てるから、大きさは自由自在に変化させることが出来るのか? だとしたら、かなり便利だな)
水狼を見てそんな風に考えていると、やがて焼き魚を食べた水狼もレイとセトの存在に気が付いたのだろう。
視線を向け、『ワン』と小さく鳴く。
その様子は、大きさはともかく、とてもではないが昨夜自分達に向かって襲い掛かって来たような相手には思えない。
「えっと、一応確認するけど、お前が水狼でいいんだよな?」
「ワン!」
当然といったように鳴き声を上げる水狼。
水狼としては本人――本狼――のつもりなのかもしれないが、レイから見ればとてもではないが昨夜戦った相手と同じだとは思えない。
何しろ、昨夜の水狼は高度百mの位置まで跳躍してセトを喰い千切ろうとしたのだから。
それが、今ではこうして全く警戒した様子もなく、冒険者達から餌を貰っているのだ。
(まぁ、セトで慣れているってのも大きいんだろうけど)
普通ならセトくらいの大きさのモンスターを間近で見て、慌てるなという方が無理だ。
だが、ギルムの住人はセトという存在を知っている。
そのセトよりも若干小さいくらいで、更には人懐っこさを見せる以上、冒険者達が水狼に対して心を開くのは早い。
ここにいるのは、全員が腕利きの冒険者である以上、それでも若干の警戒はしていたのだろうが……実際に人懐っこさを見せていれば、疑いつつも可愛く思ってしまうのだろう。
(もしかして、湖からセトと他の連中のやり取りを観察していて、それを参考にしてるとか……ないよな?)
ふとそんな疑問を抱くが、セトの様子を見て学習し、それに合わせた対応をするというのなら、レイにとっては悪い話ではない。
それがレイ達を油断させる為で、油断したところを襲うという可能性もない訳ではなかったが、昨日の水狼とのやり取りを考えると、そうなる可能性は極めて低いと思えた。
(それでも、取りあえず念の為に後でその辺は説明しておくか。その後の行動は、それを聞いた上でそれぞれが判断すればいいだろうし)
そう判断し、レイは改めて自分の方を見ている水狼に視線を向ける。
「ここに来たのは、昨夜俺が言った件で来たんだよな?」
「ワウ」
レイの言葉に水狼は頷く。
(昨日も思ったけど、やっぱり完全にこっちの言葉を理解してるよな。こっちとしては助かるからいいんだけど。……とはいえ、一応来るように言ったけど、どうしたらいいものやら。そもそも、俺がその辺の話を勝手に決めてもいいのか?)
当然の話だが、この湖の管理はこの地の領主であるダスカーが行うべきものだ。
この湖があるのも、ラルクス辺境伯領なのだから。
そんな中で一介の冒険者でしかない――他の者の認識ではダスカーの懐刀だが――レイが、この場所で自分達と水狼の関係について決めてもいいかと言われれば、普通はその答えは否だろう。
レイは、この場の責任者たる騎士に視線を向け、口を開く。
「これから水狼と色々決める訳だけど、この交渉はこの場の責任者がした方がいいんじゃないか?」
「そう言われると……いや、だが水狼は他の者に攻撃したりはしないようだが、交渉相手としてはレイを選んだのだろう? なら、ここで他の者が交渉すると言っても、それを素直に聞き入れるとは思えないんだが」
「ワン」
騎士の言葉を肯定するように、水狼は鳴き声を上げる。
そんな水狼の鳴き声を聞き、そう言えば昨日セトは水狼に対する当たりが強かったように思うけど……と、ふと気になって視線を向けてみるが、セトはレイと水狼のやり取りを気にした様子もなく、リザードマンや冒険者達が用意した焼き魚を幸せそうに食べている。
昨日の警戒は一体何だったんだ? と思わないでもなかったが、恐らく水狼が小さくなっているので、警戒は止めたのだろうと判断する。
「レイ、頼む」
半ば現実逃避をしていたレイだったが、騎士の言葉で強制的に我に返らせられてしまう。
「……分かった。まず、水狼は俺達がここにいるのは構わないんだよな? 湖の側から出て行けとか、そういうことは思ってないと考えていいのか?」
「ワウ」
頷くようにそう告げる水狼に、取りあえずレイは安堵する。
湖の側というのは、生誕の塔の側でもある。
水狼が湖の側にいるのを許容しないと主張した場合は、最悪また昨日のように戦いになる可能性が高かった。
そのようなことにならないだけで、レイとしては非常に助かる。
最大の心配が消えた以上、次の話題に移る。
「俺達……というか、向こうの連中が湖で魚とかを獲って食べたりしてるけど、それは問題ないか?」
その問いにも水狼は問題ないと鳴き声を上げる。
そこからはスムーズに話が進む。
……いや、正確には基本的に湖に害意を抱いて行うような行動をしない限り、普通に使う分に問題がないということだった。
ただし、途中で起きてきたアナスタシアが水狼の身体を調べさせて欲しいという要望を口にした時は、却下されたが。
「そこまで俺達に譲歩してもいいのか?」
水狼からの要求も特になく、レイ達にとって一方的に有効なやり取りとなった。
レイとしては嬉しいが、そのようなやり取りで水狼に一体何の利益があるのかというのは、レイには分からない。
ともあれ……それでも、レイ達にとって未知の湖の中でも強力なモンスターと友好的な関係を築けたというのは、非常に利益のあることだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます