第2181話

「へぇ、ここが。……うん、確かに人はいないな」


 そこは、ギルムの中でも比較的スラム街に近い場所。

 建物と建物の間に偶然出来た空間で、周囲には春らしく多くの花が咲いている。

 それでも人の姿がないのは、その場所柄故だろう。

 普通の人ならスラム街の近くには近寄りたくないだろうし、スラム街の住人にしてみれば自分達のその日の食事を用意するのに必死だ。

 勿論、そんな状況でも誰もここに来ないという訳ではない。

 例えば、子供達。

 普通ならスラム街に近付くような真似はしないが、子供の場合は無謀と勇気を履き違えた者も多く、そのような者達にとって、ここは秘密基地としてはうってつけの場所だろう。

 だが、幸いなことにそのような子供達も、現在は自分の仕事をしている為か、ここにやって来る様子はない。


「グルゥ、グルルルゥ、グルルルルルゥ」


 周囲に生えている花が嬉しいのだろう。セトは嬉しそうに鳴き声を上げつつ、周囲を走り回る。

 そこには先程までの緊張の色はない。

 当然だろう。人の多い場所にいた時は、それこそどこから暗殺者が現れるか分からなかった。

 ただでさえ人の多い中での出来事だけに、どうしても相手を見つけにくかった。

 殺気の類を消す違和感の類がなければ、人混みの中でも少しはその手の感情を感じ取れたかもしれないが、今はそれでも出来ない。

 つまり、相手が何らかの行動を起こした瞬間に、それを察知して防ぐ必要があった。

 しかし、そのような真似をしようとすれば当然のように難易度は高くなる。

 そのように緊張している状況だったのが、なくなったことがセトには嬉しかったのだろう。

 気分よく、伸び伸びとした様子で周囲を歩き回っているセトを見ると、レイもまた気分が落ち着く。

 暗殺者に狙われても特に気にした様子を見せていないレイだったが、それでもやはり色々と思うところはあったのだろう。

 気分転換をするという意味では、ここは決して悪い場所ではなかった。


「……わふぅ」


 不意に聞こえてきたその鳴き声に視線を向けると、そこには一匹の子犬がいた。


「あー……なるほど」


 それを見て、レイは納得する。

 この場所は人が多く来るような場所ではない。

 それはつまり、あまり人に近付きたくないと思っている者にとっても、格好の隠れ家なのだ。

 そして、レイの視線の先にいる子犬も、あまり人に見つかりたくないと思っている相手なのだろう。

 だが、その子犬が自分の隠れ家にやって来てみれば、そこにいたのはレイ……はともかく、グリフォンのセト。

 子犬にしてみれば、それこそ出会った時点で死が確定すると感じてもおかしくはない相手。

 それでも子犬がここから逃げるようなことをしなかったのは、それだけここが子犬にとって大事な場所だったからだろう。

 無謀としか思えない行為。

 だが、その相手がセトだったこともあって、その子犬の行為は死にいたるものではなくなった。


「グルゥ?」


 セトが子犬を見て、短く鳴き声を上げる。

 その様子は、敵対する者に対してのものではなく……どちらかと言えば、慈しむような、そんな鳴き声。

 一緒に遊ぶ? とも、こっちにおいでよ、ともつかぬ鳴き声。

 セトだからこそ、自分を前にしても逃げない子犬に好意を抱いたのだろう。


「きゃうん?」


 子犬の口から疑問の鳴き声が出る。

 自分の居場所を奪ったセトに立ち向かおうとしたのに、何故かそのセトは自分と敵対するのではなく、どこか友好的な雰囲気を発していたのだから、それも当然だった。


「わう……わふ?」


 セトを見て、自分に危害を加えるようなことはないと判断したのか、子犬は鳴き声を上げながら一歩、二歩、三歩……といったように、恐る恐るではあるがセトに近付いていく。

 自分よりも圧倒的に大きく、圧倒的に格上で、本来なら近付くことすら出来ない……いや、視界に入ったら逃げるか、もしくは死を覚悟すべき存在。

 だというのに、そのセトは現在自分と敵対するのではなく、寧ろ友好的な態度を示していた。

 セトの近くまでやって来ると、子犬はそんなセトを見上げる。

 そう、体長三mのセトと子犬では、文字通り見上げるといった真似をしなければ、その姿を完全に見ることは出来ないのだ。

 そして間近で見上げれば、セトの巨大さはよく分かる。

 ……それだけの大きさの差があるにも関わらず、現在のセトは子犬に向かって特に高圧的に出るでもなく、友好的な雰囲気。

 やがて自分を見上げている子犬に対し、何か思うところがあったのか、少ししゃがんで顔を近づける。


「グルゥ?」

「……わふぅ」


 いきなりしゃがまれた子犬だったが、セトが友好的な存在だというのは、既に分かっているのだろう。

 最初にセトと遭遇した時と比べると、かなり警戒の少ない様子で鳴き声を上げる。

 そしてそっと顔を近づけてきたセトを見て……ペロリ、と。その顔を一舐めする。

 子犬にとっては、それが挨拶の印なのだろうと、少し離れた場所で眺めていたレイは納得した。

 その行為を境に、セトと子犬は友好的な雰囲気でお互いに鳴き、会話をしていた。

 少なくても、レイからはそのように見えた。

 ……実際にはセトと子犬では種族も大きく違うので、会話が出来るとは思えないのだが……それでも、レイの視線の先では、セトと子犬がしっかりと意思疎通しているように見えたのは、間違いない。


「うーん……のんびりとしてるな」


 春の暖かな日差しを受けながら、恐る恐るといった様子でセトと接している子犬を見て、レイが呟く。

 実際にはもう夏も近いので、日差しは暖かなというよりは暑いと表現してもおかしくないくらいになっているのだが、ドラゴンローブを着ているレイにとてって日差しの温度は特に気にする必要はない。

 ただ曇りではなく、青空が見えていれば今は十分だった。


「グルルゥ?」

「きゃんっ、きゃん!」


 レイが青空を見ていた十秒かそこらのうちに一体何があったのか、子犬がセトの周囲を嬉しそうに駆け回っていた。

 見事なまでに懐いているその様子は、セトの凄さを如実に表していた。


(セトって結構動物に嫌われる……いや、怖がられることが多かったんだけどな。そう考えると、あの子犬って何気に結構大物なのか?)


 夕暮れの小麦亭の厩舎でも、最初にセトと会った馬や他の動物は怖がることが多い。

 それでもある程度の期間一緒にいれば、次第に厩舎の動物もセトに慣れる。

 だが、多くの動物は慣れてもセトに対して遠慮する形になってしまうのは、レイも知っていた。

 そんな厩舎の動物達に対して、現在セトの周囲で歩き回っている子犬は全く遠慮する様子もない。

 そんな愛らしい二匹の様子を見ているレイは、ほんわかとした思いを抱きながら、あの子犬を飼ってもいいかもしれないなと、そう考える。

 勿論、セトと違って知能は高くないから、大人しく厩舎で待ってるようなことも出来ない可能性が高い。

 そうなると、夕暮れの小麦亭に連れていくのは無理なので、マリーナの家で飼うということになるだろう。

 マリーナの家の中庭は結構な……セトがある程度走ることが出来るくらいの広さがあるので、子犬を伸び伸びと育てるようなことも可能だろう。

 とはいえ、今はいいがいずれレイ達が何らかの依頼でギルムから長期間離れる必要が出てきた時などは、どうするかといった疑問もあるのだが。


(マリーナの家は精霊魔法で色々とやってるから、精霊に子犬の世話をして貰うとか、場合によっては子犬を一緒に依頼に連れていくという可能性も……ありか? 問題なのは、イエロと上手くやっていけるかどうかだよな)


 既に、レイの中では子犬を飼うことが半ば決まってしまっていた。

 そんな風に子犬を見ていたレイだったが、その子犬に纏わり付かれているセトも、自分を前に怖がったりしないで懐いてくる子犬に愛らしさを感じたのだろう。

 嬉しそうに鳴き声を上げながら、広場となっている場所を子犬と共に走り回る。

 そうして、一体どのくらいの時間が経ったのか。

 三十分は経っているが、それでも一時間には届かないくらいの時間。

 そんな時間を経験したレイだったが、ふとセトが動きを止めているのに気が付く。

 それも、子犬を後ろに庇うようにしてだ。

 そうなれば、一体何があってこうなったのか、考えるのは難しくはない。

 レイはセトのじっと見ている方に視線を向け……やがて、その視線が効果を発揮したわけではないのだろうが、十人近い黒装束が姿を現す。


「またお前達か」


 レイの口から出たのはそんな言葉だったが、それが正直な気持ちだったというのも、間違いない。

 その黒装束には、見覚えがあったからだ。

 何しろ、以前夜に湖までやってきた者達が着ていた黒装束だったのだから。

 そして湖に来た者達をギルムに運んでいる時に取り返そうと襲ってきた者達も、同じ黒装束だった。

 あるいは、同じ黒装束でも実は違う組織の人間……という可能性も、なくはない。

 なくはないのだが、それでもこうして見ている限りでは、やはり同じ組織の人間のように見えるのも事実。


「へぇ、やっぱりこんな寂れた場所にいたのは、俺達を誘き寄せる為だったのか」


 レイの狙いを察した上で、こうして出て来たといった様子の黒装束の男。

 レイの前に立つその男こそが、黒装束達のリーダーであるというのは、黒装束達の立ち位置を見れば明らかだ。

 そんな男の様子を眺めつつ、レイは少し意外そうに口を開く。


「それを理解した上で出て来た、と? 正直なところ、それは自殺行為以外のなにものでもないだろ」

「そんな訳があるか。勝ち目があるから出て来たに決まってるだろう。……そのくらいは分かると思ったけどな」

「そう言われてもな。今まで散々俺に負けてきた組織の人間がそう言っても、説得力はないぞ」


 半ば挑発のつもりで言った言葉だったが、それでもこの状況で容易くそれに引っ掛かるとは思えない。思えないのだが……


「てめえ、本当に死にてえらしいなぁっ!」


 獣性も露わに叫ぶ男。

 えー……というのが、レイの正直な気持ちだったが、今の状況でそれを表に出すわけにもいかないので我慢する。

 まさか、暗殺者ともあろうものが、あそこまで簡単な挑発に乗るとは、レイも思わなかったのだ。


(自分の所属する組織が馬鹿にされたのが許せなかったのか、それとも自分の仲間が馬鹿にされたのが許せなかったのか。……後者、か?)


 この場に出て来る以上、苛立ちを露わにしている黒装束の男が組織で腕利きと判断されているのは間違いない。

 だが、そのような男に他の黒装束の男達が素直に従っているように見えるのは、やはり叫んでいる男に何かがあるからだろう。

 男が実力で無理矢理周囲の者達を従えているという可能性もないではないが、レイが見たところ周囲の者達が男に恐怖や畏怖を感じているようには思えない。

 もっとも、以前に遭遇した者達と違って、今は顔まで黒装束に隠れている。

 そうである以上、しっかりとその表情を確認することは出来ないが、その辺りは雰囲気で大体理解出来る。


「死ぬ? 死ぬねぇ。……俺が? 一体誰にやられて? まさか、お前達を相手にしてじゃないよな?」

「……本当に死にてえらしいな。今までのような雑魚を倒したからって、俺を、俺達を相手にどうにか出来ると本当に思ってるのか?」

「いや、それは寧ろ俺が聞きたいんだけどな」


 再度の挑発。

 そのような挑発を受けて、ただでさえ激高しやすい男が大人しくしている筈もない。

 懐から取り出した武器を構え、鋭くレイを睨み付ける。

 性格はともかく、強さという点では間違いなく一級品なのだろう。

 男はレイに向かい、自分の武器……切っ先が三つに分かれ、漢字の山のような形になっている短剣を構える。

 三尖刀、という武器がある。

 とはいえ、三尖刀は短剣ではなく長柄の武器に使われる名称である以上、男が持っている武器は正確には三尖刀とは呼ばないのだろうが。

 ともあれ、レイも日本にいる時にゲームや漫画、アニメといったもので見たことはあったが、直接三尖刀に近い武器を見るのは、初めてだった。


「その口のでかさ……後悔して貰うぞ!」


 叫び、黒装束の男は一気にレイに向かって駆け出す。

 その速度はかなり素早い。

 それこそ、風の如くという表現が相応しい速度。

 そして最初に走り出した男を追うように、他の黒装束の者達もレイに向かって駆け出していた。

 とはいえ、速度という点ではやはり三尖刀を持った男が一番速い。

 素早くレイの側までやって来ると、持っていた武器を振るおうとし……ふと、何かに気が付いたかのように跳躍して、レイから距離を取る。


「ダーブ……てめえ、何のつもりだ?」


 他の黒装束の男達も三尖刀を持った男の側に近づき……不意に少し離れた場所に視線を向ける。

 するとそこには、風船のような体格をした男が両手に短剣を持ちながら、笑みを浮かべていたのだった。

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