第2160話

 夜中……レイは、中庭で寝転がっているセトと一緒にいた。

 ヴィヘラが帰ってきてからのやり取りや、全員で食べた夕食。

 夕食の時も結構な騒動ではあったが、今となっては中庭は静かだ。

 静寂に満たされている、といった表現が正しいだろう。


「グルゥ」


 自分の身体に体重を預けているレイに、セトは小さく喉を鳴らす。

 何かの意味があって喉を鳴らした訳ではなく、何となくそのような真似をしたといったところだろう。

 レイもそんなセトの様子は理解していたので、特に何を言うでもなくそっとセトの頭を撫でる。

 そうしながら夜空を見ていると、そこには雲一つなく、月の光が優しく降り注いでいる。

 この中庭はマリーナの精霊魔法によって非常にすごしやすくなっている場所だ。

 レイのイメージとしては、精霊魔法によってドーム状……別の形かもしれないが、そんな感じで覆われているといったものだ。

 にも関わらず、こうして夜空を見上げても特に何かが覆っているようには見えない。

 特に何をするでもなく、綺麗な状態で夜空を見ることが出来た。

 不意に、先程までの静寂を破ってリーン、リーンという虫の音も聞こえてくる。

 これは季節が春から夏に向かっている証なのだろうと、その音に耳を澄ます。

 セトに寄り掛かりながら夜の音楽を楽しんでいるレイだったが、誰かが近づいてくる気配を察して、そちらに視線を向ける。

 とはいえ、その近づいてくる気配は特徴的で覚えのある相手だったので、特に警戒したりといったことはしない。


「どうしたんだ、エレーナ?」

「うむ。窓からレイとセトの姿が見えたのでな」


 そう言うエレーナに視線を向けたレイは、月明かりに煌めく黄金の髪を持つエレーナに目を奪われる。

 太陽の光そのものを形にしたかのような豪奢な黄金の髪を持つエレーナだったが、その髪は月明かりの下であっても、レイの目を奪うに十分な吸引力を持っていた。

 今までも月明かりの下でエレーナを見たことは、数え切れない程にある。

 だがそれでも、今は何故かそんなエレーナの姿に目を奪われることを止めることは出来なかった。


「レイ? どうした?」

「あ、いや。何でもない。……ちょっとぼうっとしてただけだよ。それで、何だったか。……俺とセトは、ただちょっと夜空を眺めていただけだから、特に気にする必要はないぞ?」

「そう言ってもな。たまにはいいだろう? ここのところ、レイと一緒にいられる時間は少なかったんだし」


 そう言い、エレーナはレイの隣に腰を下ろし、セトに寄り掛かる。


「ふぅ」


 レイの隣に座ったエレーナの口から出たその声とも溜息とも判断しづらい様子に、レイは疑問を抱く。


「どうした? 何だか、妙に疲れているように見えるけど。夕食の時はそんなに疲れているようには見えなかったよな?」

「あの時は皆もいたからな。今はレイだけだから、私もこうして気を抜くことが出来る」

「そういうものか?」

「うむ」


 エレーナが言いたいのは、レイの前であれば自然な自分でいることが出来ると、そのような意味であったのだが、レイがそれに気が付くようなことはなかった。

 ……普通であれば、自分の言いたいことを理解してくれないレイに怒ってもいいのだが、エレーナはそんなレイの姿に何故か笑みを浮かべるだけだ。

 レイの様子に、どこか安心しているようにすら思える。


「出来れば、私もレイと一緒に生誕の塔に泊まってみたいのだがな。残念ながら、立場上そうもいかん」

「泊まるのは無理でも、日中に顔を出すくらいはいいんじゃないか? エレーナが来れば、皆喜ぶと思うし」


 レイの口から出たその言葉は、間違いのない真実だ。

 姫将軍の異名を持つエレーナは、ミレアーナ王国内では知名度が高く、同様に人気も高い。

 何よりも生誕の塔にいる護衛の冒険者は、全員が男だ。

 エレーナのような、歴史上でも滅多にいない程の美人を間近で見ることが出来るというのは、どこからどう考えても嬉しい。

 もっとも、そんなエレーナを連れて来たレイに嫉妬の視線を向けるような者もいるのだろうが。

 普通ならレイに嫉妬の視線を向けるといった真似は自殺行為でしかなく、生誕の塔の護衛をギルドに依頼されるような冒険者であれば、当然のようにそれは知っている。

 だが、そんな……言ってみれば常識を吹き飛ばしてしまうだけの美貌が、エレーナにはあるのだ。

 もっともその嫉妬にレイが気が付くかどうかはまた別の話だし、その嫉妬からレイに絡んだり嫌がらせをした場合は、悲惨な結末を迎えることになるだろうが。


「ふむ、なるほど。それは面白いかもしれんな。……気分転換をするにはもってこいだ」

「気分転換か。毎日のように貴族と会ったりしていると、やっぱり面白くないのか?」

「それは否定出来んな。貴族派の貴族だけではなく、国王派や中立派の貴族までもが面会を希望するのだから。……それも、何か重大な用事がある訳ではなく、ただ顔を合わせておきたいというような理由で」

「あー……それはな」


 そうしたいと思う理由は、レイにも理解出来る。

 姫将軍という異名、ケレベル公爵家の一人娘という立場から、エレーナに自分の顔を覚えて貰うことが出来れば、非常に大きな利益になると、そう思っているのだろう。

 もしエレーナが一般的な貴族のメンタリティの持ち主なら、それは正しい。

 だがエレーナの場合は姫将軍という異名通り、その本質は貴族というよりは武人や騎士に近い。

 ケレベル公爵家の令嬢としての立場もある以上、必ずしもそれだけではなくて貴族という側面も持っているが、それでもどちらがエレーナの本質なのかと聞かれれば、レイは間違いなく姫将軍としてのエレーナだと言えるだろう。


(金髪の縦ロールとか、完全に貴族っぽい印象なんだけどな。……ここまで外見と中身が違う例も、珍しい)


 日本にいる時はゲームやアニメ、漫画、小説といったサブカルチャーを好んでいたレイだけに、エレーナの外見と姫将軍という異名にどこかチグハグなものを感じるのは事実だ。

 もっとも、何だかんだとエレーナとの付き合いが長くなった今となっては、そんなエレーナをありのままの状態で受け入れてるのだが。


「それも、気が付かないと思っているのか、身体に視線を向けてくる男の数ときたら……」


 はぁ、と。

 憂鬱そうな様子のエレーナ。

 その豊かに張り出した双丘は、服の上からでも分かる。

 それだけに、男がその魅惑的なエレーナの身体に視線を向けるのは、理解出来ないでもなかった。

 もっとも、幾らエレーナが魅力的だからとはいえ、そんなエレーナに手を出すような真似をする自殺志願者はいないのだが。


「それだけ、エレーナが女としての魅力に溢れているということだろ」

「……有象無象の者達に女としての魅力を感じられてもな。そういうのは、やはり特定の相手にこそ、感じて欲しいものだ」


 そう言い、エレーナはレイを見る。

 月明かりしか光源のない今の状況であっても、夜目の利くレイにはエレーナの顔が真っ赤に……それこそ耳の先まで赤く染まっているのが見えた。

 恋愛沙汰に関しては決して積極的ではないエレーナだったが、それでも今の状況で何を意味しているのかというのは、レイにも十分に理解出来る。


「エレーナ……」


 小さく名前を呼び、そっと隣に座っているエレーナの肩を抱く。

 そんなレイの行動に一瞬身体を硬直させたエレーナだったが、それでもレイに肩を抱かれたのは嬉しかったのか、そのままそっとレイに体重を預ける。

 そうしてお互いの目が相手だけを見て、そのまま二人の顔の距離が縮まっていき……

 ガタン、と。不意にそんな音が二人の耳に入る。


『っ!?』


 半ば反射的にレイとエレーナは離れ、音のした方に視線を向ける。

 するとそこでは、窓から出て来たイエロが、どうしたの? と不思議そうな視線をレイとエレーナに向けていた。


『……ぷっ、あははははは』


 そんなイエロに気が付いたレイとエレーナの二人は、数秒の沈黙の後で、お互いに堪えきれないように笑い声を上げる。


「グルゥ」


 そんな二人の様子に、セトが若干の不満を込めて喉を鳴らす。

 二人のやり取りが始まってから、セトはずっとソファ役に徹して、気配を殺していた。

 それこそ、グリフォンとしての能力を最大限に発揮してまで、二人の邪魔をしないようにしていたのだ。

 だというのに、肝心なところでイエロがその邪魔をしたのだから、セトが不満を抱くのは当然だった。


『ぷっ、あははははは』


 そんなセトの様子に、再びレイとエレーナは一緒に笑う。

 いつもであれば、何がそんなに面白いのかと、そんな風に思ってもおかしくはないのだが。

 だが、何故か……本当に何故か、今はそんな些細なことでも面白いのだ。

 少し前までは静かだった中庭に、レイとエレーナの笑い声だけが響き渡る。

 そんな中、イエロは空を飛んで移動し、セトの頭の上に着地する。

 箸が転がっても面白いと言うべきか、そんなセトとイエロの様子に、またレイとエレーナは笑い声を上げる。

 それでも先程までの笑い声よりは小さく、やがてその笑い声も収まる。


「全く、俺達って何をしてるんだろうな」


 ぼやくように呟くレイだったが、エレーナはそんなレイの言葉に輝くような笑みを浮かべて口を開く。


「ある意味、これが私達らしいと言えばらしいのではないか?」

「まぁ、それは否定しない。……ああ、そうそう。もし本当に気分転換として生誕の塔に来るのなら、歓迎するぞ。ゾゾやガガとかも、エレーナを見れば喜ぶと思うし」

「ガガはともかく、ゾゾは喜ぶか?」


 エレーナが知っているゾゾというのは、レイに忠誠を誓っている存在ではあるが、レイが第一でそれ以外はどうでもいいといったような性格だった。

 勿論、エレーナを始めとしてこの家にいる面々に失礼な態度を取ったりといったことはなかったが、それはあくまでも他の面々がレイと親しいからという理由だったように思える。

 そんなゾゾが自分と会うのを喜ぶか? と考えれば、決して素直に頷くことは出来ない。

 だがそんなエレーナの気持ちとは裏腹に、レイは当然のように頷く。


「多分喜ぶと思うぞ。ゾゾもこの家にいた時とは大分違ってきたしな。今は他の冒険者とも普通に話したりしてるし」

「ほう、それは少し驚きだ」


 少しと口にはしたが、そこにある驚きはとてもではないが少しというものではない。

 この家で寝泊まりしていた頃のゾゾを知っているからこそ、余計にそう思うのだろう。


「その辺も実際に来てみれば分かるから、気になるんなら来るんだな。それに……湖で遊ぶというのも、気分転換にはいいんじゃないか?」


 湖で遊ぶというのは、エレーナにとっても楽しい筈だった。

 夏に向かっている為に、日々気温が少しずつ上がっている――ように感じられる――ので、水遊びというのは非常に魅力的だろう。

 異世界の湖である以上、未知のモンスターが襲ってくる可能性は十分にある。

 だが、水遊びをしているのがリザードマンの子供なら色々と心配もするが、それがエレーナとなれば心配をする必要はない。

 それこそ、エレーナの実力であれば、その辺のモンスターが幾ら襲ってきても素手で……愛用のミラージュがなくても、余裕で倒せるのは間違いない。

 また、エレーナが水遊びをするということは、当然のようにレイやセト、アーラの姿もある訳で……それこそ未だに燃え続けているスライムと同レベルのモンスターが出てこない限り、危機に陥るということは想像出来ない。


「水遊び……何とか時間を調整してみよう」


 レイの言葉が引き金となったのか、エレーナは水遊びについてかなり積極的になっていた。

 当然のようにレイもそれは嬉しく、二人揃って……いや、近くでセトとイエロも遊んでいたのだ、二人と二匹揃って、湖について話し、それ以外にも色々と世間話をする。

 レイが湖で遭遇したモンスターについての話をすれば、エレーナの口からは貴族に会った時の話をし……そのまま一時間程が経過した。

 元々眠れなくて外に出て来ただけに、既に現在は真夜中と言ってもいい。


「では、明日のこともあるし……そろそろ、寝るとしよう。レイはどうする?」

「俺もそろそろ寝るよ。セトも眠らせておきたいし」


 そうレイが言うと、エレーナは立ち上がってセトの頭の上にいたイエロを抱き上げる。

 そして、少し考え……不意に一歩進め、レイの前に立つ。

 そっと腰を屈め……エレーナの唇がレイの唇に重なる。

 一体、そのままどのくらいの時間が経ったのか。

 数秒が、十数秒か、数十秒か。

 そうしてエレーナは唇を離すと、頬を薄らと赤く染めながら口を開く。


「おやすみ」


 それだけ言って家の中に戻っていくエレーナの後ろ姿を、レイは言葉も出せずに見送るのだった。

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