第2098話

 部下からの詳しい報告を受けたダスカーは、面倒なことになったという思いを隠せずに半ば現実逃避するように窓の外に視線を向ける。

 そこでは春らしい天気で暖かな太陽の光が降り注いでおり、冬の間は見ることが出来なかった光景が広がっていた。

 庭にある木々の緑が目に優しい。

 まるで、疲れている気持ちを慈しむかのような、そんな光景が広がっているようにダスカーには思えた。

 そのまま数分が経過する。

 報告を持ってきた人物……実際に自分の目で湖を見てきた男も、ダスカーが連日仕事に追われているのは知っている中でこんな情報を持ってきたというのは理解している為に、今のダスカーを見ても何も言わない。

 そして、現実逃避染みた気分転換が終わったのか、ダスカーは再び視線を男に戻す。


「悪かったな」

「いえ」


 短い言葉のやり取りの後、再び二人は湖について話題を戻す。


「それで、レイが燃やしたというスライム以外にも、湖に危険はあるのか?」

「マリーナ様が精霊魔法で調べたところによると、そのスライムと同じような大きさの存在は湖にはいないそうです」

「そうか」


 ダスカーはその言葉に素直に納得する。

 マリーナとは小さい頃からの知り合いだけに、その精霊魔法がどれだけの代物なのか理解している。

 騎士として王都で働いたこともあるダスカーだったが、そんな中でもマリーナ程の精霊魔法の使い手は見たことがない。

 ……騎士になる為に王都に向かった当初は、精霊魔法というのはマリーナ程の技量はなくても、そこまで大きく劣っている訳がないだろうと判断し、それが原因で大きな騒動となったこともある。

 それだけ突出した精霊魔法の技量を持つマリーナだけに、湖に巨大なスライム、もしくはそれに等しい大きさを持つ存在が他にいないというのは、これ以上ない程に信じられる内容だった。

 マリーナがいる場所で、直接それを口にすることはないが。

 もし言えば、それこそどのようにからかわれることか。


(そういう意味だと、レイってのは凄い奴なんだよな。それこそ、尊敬してもいいくらいに)


 マリーナを……『あの』マリーナを惚れさせる、それも心の底から惚れさせるといったような真似は、そう簡単に出来るようなものではない。

 それだけで、レイを尊敬するには十分な偉業ですらあった。

 マリーナの前でそれを言えば、間違いなく自分の恥ずかしい過去を公開されてしまうので、実際に口にするつもりはないが。


「取りあえず、マリーナが調べたのなら安心だろう。問題は、レイが燃やしたというスライムか」

「いえ、ダスカー様。正確には燃やしたではなく、燃え続けている、というのが正しいです」

「ああ、そうか。聞いた限りでは、ギルムからでも見えるくらいに巨大な炎だったらしいしな」


 レイが魔法で生み出した炎は、残念ながら――もしくは幸運にもと言うべきか――ダスカーは見ることが出来なかった。

 だが、話を聞いただけで、どれだけの魔法なのかというのは理解出来る。

 そんな魔法を食らって、それでもまだ死なずに燃え続けているというのを考えると、一体どんな化け物なのだと、そう言いたくなってもおかしくはない。


「そんなモンスターが生息していた危険な湖が転移してきたのを悲しむべきか、それともそんな危険なモンスターをレイが早速倒してくれたことを喜ぶべきか。悩むところだな」

「取りあえず、その巨大なスライムはもう危険がないですし、同様のモンスターも湖にはいないと考えれば、ギルムの利益にはなるんでしょうし、喜んでもいいのでは?」

「だがな、その湖がそのままだとすれば……水の流れがなければ、そのうち水が淀むぞ。健全に利用したいのなら、その辺をどうにかする必要があるが……まさか、湖と川を繋げるような工事をする余裕はないしな」

「あ、その辺は心配いりません。マリーナ様が水の精霊にしっかりとその辺も聞いてくれたそうです。すると、どこからともなく新しい水が注ぎ込んでいるという話でしたから……」

「そう、か。……それは喜んでもいい話なんだよな?」

「恐らくは」


 これで、普通に川の類と繋がっているのなら、ダスカーも憂いなく喜ぶことが出来ただろう。

 だが、どこからともなく水が流れているというのは、具体的にどこからか分からない以上、最悪の場合は突然その水が止まるという可能性もあるので、心の底からの安心は出来ない。

 もしかしたらずっと……何十年、何百年も水が湧き出ている可能性があるが、逆に明日にでもその水が止まるという可能性もある。

 その上、川のように流れている水量を自分の目で直接確認出来るのなら分かりやすいが、どこからともなく水が出て来るとなると、それを確認するのは非常に難しい。

 それでもダスカーがそこまで心配していないのは、マリーナが水の精霊にその辺を聞いてくれるという打算がある為だ。

 湖にいる水の精霊なら、当然のように水の流れにも詳しい筈だろうと。

 ……実際にそれは間違っている訳でもないのだが。


「俺が一度直接湖を確認に行く必要はあるだろうな。問題なのは、どうやってその時間を作るか、か」


 今は、ただでさえ忙しい。

 その上、少し前には国王派からの接触もあった。

 そのような状況を考えれば、やはり時間を作るのは難しいというのが正直なところだ。

 それでも現状を考えれば、湖を自分の目で直接確認しないという選択肢は存在しない。

 あるいは、国王派の……それも王族の手の者との接触がなければ、湖の件を後回しにしていた可能性もある。

 しかし今の状況では、残念ながらとてもではないがそのような真似は出来なかった。


(馬車の中でも、一応書類の処理は出来る。そう考えれば、実際にはそこまで大変ではない、か? 勿論、護衛をする者達には頑張って貰う必要があるが)


 ダスカーは、今でも十分な強さを持っている。

 それこそ、ギルムの騎士団の中でダスカーと正面から戦って勝てる者はほとんどいないだけの強さを。

 辺境にあるギルムの騎士団は精鋭中の精鋭としてその名を知られている。

 そんな騎士団の騎士の殆どがダスカーに勝てないというのが、ダスカーがどれだけの力を持っているのかを示していた。


「よし。では、明日の午前中に湖を見に行く。書類の方は、馬車に積み込めば移動時間も無駄にはならんだろう」


 ダスカーの仕事の中で大部分を占めているのは、間違いなく書類の処理だ。

 だが、実際にはそれ以外にも色々と細かい仕事があるのは間違いない。

 それらの仕事は、取りあえず後回しにすれば……明日の午前中に湖に行く時間を作ることは可能だった。

 そこまでしても、一時間や二時間といったような時間を湖で使うような真似は出来ないのだが。


「分かりました。その辺の準備は整えておきます」

「そうしてくれ。……問題なのは、レイが燃やしているというスライムが、明日になってもまだ燃えているのかということだが……その辺はどう思う?」

「私は魔法に詳しくないので何とも言えません。ですので、単純に見た感じでということになりますが、恐らくあの炎は一日や二日で消えるようなことはないかと」


 そう断言する。

 本当に魔法に関しては詳しくはないのだが、それでも燃えているスライムを見て、すぐに消えるとは思いもしなかった。


「なるほどな。……だが、雨が降った場合はどうなる? レイの魔法で生み出された炎であっても、炎には違いがないのだろう? なら、雨になれば消えるんじゃないか?」

「それは……どうなんでしょう? 私には分かりません」


 ここ数日は晴れているが、それでも夜に通り雨が降ったこともあるし、春というのは天気が変わりやすくなったりもする。

 そうである以上、場合によってはレイの魔法によって生み出された炎であってもそれらが原因で消えて、結果として燃やし続けられているスライムが解放されるのではないかと不安になってしまうのは、おかしくはないだろう。

 実際にはレイの魔力によって生み出された炎である以上、多少の雨が降ったくらいで勢いが弱まったり、ましてや消えるといったことはないのだが。

 残念ながら、ダスカーは直接その炎を見ていないし、文官は魔法には詳しくないということで、そこまでは分からなかった。


「その辺も明日湖に行ったら聞いて……いや、場合によっては今夜にでも炎が消える恐れもあるな。悪いが、誰か一人をすぐにレイの下に向かわせて、話を聞いて来てくれ。レイが危険視するようなスライムが自由に動き回るなんてことがあったら、最悪としか言いようがないからな」

「分かりました。すぐに人を向かわせます。それと、ダスカー様が明日の午前中に湖に行くということは……」

「それも言って構わない」


 ダスカーとしては別に隠すつもりはないので、その話がレイに知られても何の問題もない。

 そんなダスカーの様子に、文官は一礼して執務室を出て行く。

 それを見送ると、ダスカーは再び書類整理に戻るのだった。






「ごめんなさい、少し……いえ、大分遅れたかしら?」

「ん」


 ヴィヘラの言葉にビューネが続き、遅れたことを謝罪する。

 だが、ヴィヘラ達と一緒に見回りの仕事をしていた者達は、そんな様子を特に気にせずに二人を迎える。


「気にしなくてもいいですよ。それで、その……あの炎、結局なんだったんですか?」

「うちのレイの仕業だったわ」


 湖が転移してきて、そこから巨大なスライムが姿を現し、そのスライムを倒す為に魔法を使った……というのが正確なのだが、湖のことは喋らないように口止めされている。

 なので、どうしても適当に省略して話すことになる。

 それでもレイはギルムで有名だし、何よりも辺境である以上は強力なモンスターが姿を現しても不思議ではない。

 実際にはそれどころではない強力な魔法を使ったのだが、ここから見ている限りではそれも分からないので、ヴィヘラの言葉に納得する。


「よっぽど強力なモンスターが出たのね」


 しみじみと呟く。

 ランクC冒険者だけに、女も今まで色々なモンスターを倒してきてはいる。

 それでもあのような強力な魔法をつかわなければならないモンスターというのは、倒したことがなかった。


「さすがレイだな」


 話を聞いていた男も、納得したように呟く。

 他にも一緒に見回りをしている者達がそれに続き……いつの間にか、トレントの森の近くに出たランクAモンスターをレイが魔法で倒したという話になってしまう。


「ん?」


 いいの? と、ビューネがヴィヘラに視線を向ける。


「そう言ってもね」


 いつの間にか出来上がった噂だったが、その噂は決して間違っている訳ではない。

 実際に湖から出て来たという巨大なスライムは、ランクに当て嵌めた場合は高ランクモンスターに分類されてもおかしくはないのだから。

 本来ならスライムというのは、ゴブリンよりも弱いというのが一般的だ。

 それでも、山や丘といったくらいの大きさを持ってしまえば、ゴブリンなどとは比べものにならないだけの強さを持つにいたる。

 仲間内で話されている内容はおかしくはない。おかしくはないのだが……それでも、やはりどこか違和感があるのも、間違いのない事実だった。

 とはいえ真実を話す訳にもいかない以上、これ以上何かを言うことは出来ない。


(間違ったことを言ってる訳じゃないし……いいわよね)


 ヴィヘラは半ば無理矢理自分にそう言い聞かせ、取りあえずこの話題についてはこれ以上触れないことにしようと判断する。

 自分達さえ黙っていれば、これ以上は話が広がらないだろうと考えて。


「それより、私達がいない間は特に何か問題はなかった?」


 露骨な話題転換ではあったが、それでも街の見回りが今日の仕事である以上、それについて聞くというのはそこまでおかしな話ではない。

 ヴィヘラの言葉に女の冒険者が笑みを浮かべて頷く。


「ええ。幸い……という言い方はどうかと思いますけど、レイの炎に皆が気を取られていたので、騒動を起こすような余裕はなかったというのが正しいですね。そのおかげで、少し道に迷ったという人はいましたけど、その程度です」

「俺、つい最近ギルムに来たんですけど、あんな炎を見ても住人が混乱しないってのは凄いですよね」

「ギルムだから、としか言えないわね。普通なら、ああいう炎を見た瞬間に混乱してもおかしくはないんだけど、ギルムの住人ならそこまで気にしたりはしないのよ。で、大抵は混乱しても周囲が落ち着いていると、自然と落ち着くのよ」

「……ギルム、すげぇ」


 しみじみと呟く男の冒険者に、自分達もあのくらいでは少し驚く程度になっている他の冒険者達は、どことなく微妙な表情を浮かべるのだった。

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