第2093話

「おいおいおいおい、何だよあれは!」


 ギルムの正門で中に入る者達の受付をしていた警備兵は、驚きのあまりそう声を出す。

 ……いや、そうして声を出せるだけ、マシな方だろう。

 実際に警備兵の側でギルムに入る手続きをしていた者は、声も出せずに動きを止めていたのだから。

 二人の……いや、正門前にいる者達が見たのは、空高くに浮かぶ炎。

 それもただの炎ではなく、死と破壊をもたらす、そんな炎だ。

 目の前に存在すれば、ただ黙って死を受け入れるしかない。

 遠くから見ただけでそう思える程の、巨大な炎の塊。

 そんな巨大な炎が……不意に落下する。

 一体どれだけの衝撃があるのか。そして自分達のいる場所にも、その衝撃はやって来るのかと思い、反射的に身構える警備兵。

 いや、身構えているのは警備兵だけではなく、他の多くの者達も同様だった。

 だが……いつ何が起きてもいいように身構えていたにも関わらず、衝撃が一向にやって来ない。


「幻か?」


 誰かの呟く声が警備兵の耳にも聞こえたのだが、それに同意する者は誰もいない。

 実際に近くで見た訳ではないが、それでも本物の持つ圧倒的な迫力というものがそこにはあったのだから。

 幻か? と言った者にしても、本当の意味で幻ではないのかと疑っていた訳ではなく、何とか言葉に出せたことがそれだけだったということだろう。


「これは……なぁ、おい。どうすればいいと思う?」


 警備兵の一人が、仲間に尋ねる。

 空に浮かんでいた巨大な炎は、自分の担当なのかどうか。

 それが分からなかったのだが、それでもあの炎を見た以上は上司に報告した方がいいだろうと、尋ねられた方は頷く。


「上に知らせた方がいいだろ。……とはいえ、あれだけの高さに炎があったのを考えると、ギルムの中からでも見ることは出来ただろうけど」


 それでも念の為に知らせた方がいいという同僚の言葉に、尋ねた警備兵は上司の報告すべく行動に移すのだった。






「何だと!?」


 報告を持ってきた部下の言葉を聞くと、ダスカーはすぐに執務室を飛び出す。

 向かったのは、当然のように外。

 だが、外に出た時、既に空中に浮かんでいた炎は姿を消していた。


「どうした、巨大な炎とやらは、どこにいった!?」


 庭に出たダスカーの問いに、近くにいた騎士は我に返って首を横に振る。


「分かりません。地上に落ちたと思われますが、その、音とか衝撃とかは一切……」


 そう告げる騎士の言葉に、ダスカーは一瞬報告を持ってきた者が見たのは幻影だったのではないか? と疑問を抱く。

 奇しくも、それは正門前の警備兵が感じた疑問と一緒であり、あれだけ巨大な炎が地上に落下したのに、音も衝撃もないというのを知った多くの者が抱いた疑問と同様だった。

 とはいえ、ダスカーはすぐに首を横に振る。

 何故なら、今回の一件について思い当たることがあった為だ。

 炎が現れたのはトレントの森……いや、方角からすると生誕の塔がある場所であり、そこでは少し前に巨大な湖が転移してきたと報告を受けていた。

 そして、生誕の塔の護衛として、同時に湖の監視という意味でも、レイがそこにいるということをダスカーは知っていた。

 レイといえば、炎の竜巻を生み出すような大規模な炎の魔法を得意としている以上、ダスカーは直接見ていないが、巨大な……それこそどう表現してもいいのか分からないといったような巨大な炎を生み出しても、不思議ではない。

 いや、本来なら普通の人間がそのような魔法を使える筈もない以上、そちらの方面では不思議ではある。不思議ではあるのだが……そこは、『レイだから』で納得してしまう自分がいた。

 元々レイが規格外の魔法使いでもあるというのは、かなり知られている事実だ。

 本人は大鎌と槍という、長物二本をそれぞれに持って戦うという、非常に奇妙な……だからこそ初見ではそれを防ぐことが出来ないという、半ば初見殺しに近い戦い方をするので、魔法使いというイメージを抱いていない者も相応にいるが。

 ともあれ、あの炎を生み出したのがレイであるとすれば、納得は出来る。


(だが、一体何故そのような巨大な炎を生み出すような真似をした? まさか、暇だったから……なんて理由ではないだろうし)


 ダスカーも、何だかんだとレイとの付き合いは長い。

 だからこそレイがどれだけの力を持っているのかは分かっているし、同時に何の意味もなくこのような真似をするとも思っていない。


(そうなると、あのような魔法を使わないと倒せない敵が存在していた? レイが普通に戦って勝てそうにない相手? 待て。それは時間の流れからして、もしかしてあの湖にいた存在なのか?)


 元々ある程度の情報を持っていたとはいえ、多分に推測混じりであっても正解に行き着いたのは、ダスカーが鋭い勘と頭脳の双方を持っていて、領主として有能な証だろう。


「誰か、あそこに人をやって何があったか聞いてこい! あそこにいるのはレイだから、恐れる必要はない!」


 レイだから。

 その言葉がダスカーの口から出ると、側にいた騎士達も完全に安堵したという訳ではないが、それでも幾らか緊張は解れる。

 ダスカーの部下として、レイがどれだけの強さを持っているのかをベスティア帝国との戦争で見ている者も多いので、レイが関係しているということで納得してしまうのだろう。


「では、私が行ってきます。レイとはそれなりに面識がありますので」


 レイが領主の館に来ることも珍しくはないし、騎士と行動を共にすることもそれなりにある。

 だからこそ、それなりにレイと話したことがある者も多く、こうして即座に自分が行くと立候補する者もいた。……それでいながら、レイに対する恐怖を感じていないか、もしくは感じていても表情に出していないのは、レイが強大な力を持っていても、意味もなく自分達にそれを向けないと知っている為か。


「そうか、頼む。……ただし、向こうに行って見た光景は俺以外の誰にも漏らすな。いいな?」

「え? あ、はい。それは構いませんけど」


 念を押すように言ってくるダスカーに、騎士は疑問を感じつつも頷く。

 空に浮かんでいた巨大な炎を直接見た騎士にしてみれば、そこで起こった出来事について人に言うといったことをするつもりはなかった。

 だというのに、何故そこまで念を押すように……と。

 湖が転移してきたことを知っているのは、まだ本当に限られた者達だけだ。

 当然この騎士も湖の転移については全く知らず、また当然ながら湖から巨大なスライムが姿を現したということについていも、思いつかなかった。

 ここが辺境であることもあって、高ランクモンスターでも出て来たのだろうと、そう思っただけだ。

 その高ランクモンスターにも、レイがあれだけ巨大な魔法を使ったのだから、既に戦いは終わっているだろうと判断するのは騎士としては当然だった。

 それだけ、レイの実力を信頼しているといってもいい。


「よし、行ってこい」


 ダスカーの言葉に一礼し、騎士は馬を用意する為にその場から走り去るのだった。






「残念ね。本当に残念ね。心の底から残念よ」


 未だにざわめいている街中を歩きながら、ヴィヘラは言葉通り酷く残念そうな様子を見せていた。

 当然ながら、レイが生み出した巨大な炎は街中の見回りを行っていたヴィヘラにも見えていた。

 炎の高さが街を覆っている壁よりも更に高い位置にあったのだから、それこそ恐らくはギルムのどこからでも見ることが出来ただろう。

 そして巨大な炎を見たからこそ、ヴィヘラもそれがレイの仕業だということを理解し、あのような炎を生み出さなければ倒せない敵と戦ったのだということも、理解した。……してしまった。

 そうなれば、戦闘を好むヴィヘラとしては当然のようにその戦いに自分も参加したかったと思うのは当然であり、非常に悔しい思いをする。


「ん」


 残念そうな、それでいて苛立ちを込めて呟いているヴィヘラに、近くを歩いていたビューネがそっと手を伸ばしながら小さく呟く。

 他に一緒に行動している者達は、先程の炎に驚いたのもあるが、同時にヴィヘラの様子から声を掛けるような真似は出来なかった。

 そんな中でも、ビューネだけはヴィヘラの様子に恐れるようなことはなく……それどころか、落ち着かせるようにして声を掛けたのだ。

 今日初めてヴィヘラと一緒に見回りをすることになった冒険者の男は、いきなり何を!? とビューネを咄嗟に叱ろうとし、次の瞬間には事情を理解している他の冒険者にその動きを止められる。

 背後でそんなやり取りをしていることには、ヴィヘラも気が付いてはいたのだが、ビューネの行動に大きく息を吐く。


「そうね、ごめんなさい。いきなりだったから、ちょっと過敏に反応しすぎたわ。レイが何と戦ったのかは、今夜じっくりと聞かせて貰うとして……」


 ごくり、と。

 娼婦や踊り子が着るような、薄衣を身に纏ったヴィヘラの口から意味ありげな言葉が飛び出すと、男どころか女の冒険者までもが息を呑んで顔を赤くする。

 そのような状況を作った本人は、それに気が付いていないのか、気が付いていても無視しているのか、気にせず言葉を続ける。


「ともあれ、ちょっと気になるからレイの場所に行きたいんだけど……休憩までもう少しよね?」

「ん」


 ヴィヘラの言葉に、ビューネが頷く。

 実際には休憩までもう少し時間があるのは間違いなかったが、それでもヴィヘラの様子を見る限りでは少しと言っておいた方がいいと判断した為だ。

 そして休憩になれば、取りあえず自由に行動出来るのは事実であり、そうなればヴィヘラがどこに向かおうとしているのかは、容易に想像出来る。

 そんなビューネの様子に、ヴィヘラは笑みを浮かべて休憩時間までを楽しみに待つのだった。






「アーラ、どう思う?」

「エレーナ様の考えている通りかと」


 エレーナとアーラがその巨大な炎を見たのは、貴族との面談も一段落してマリーナの家の庭で紅茶を飲んでいる時だった。

 相変わらずアーラの淹れる紅茶は美味く、その香りを楽しみ、さて一口……と思ったところで、空に浮かんでいる巨大な炎を目にしてしまう。

 この時、幸運だったのはエレーナは紅茶を口に含んでいなかったことか。

 もし口に紅茶を含んでいれば、あるいは紅茶による虹が生み出されていた可能性もあった。

 ともあれ、そのような惨劇を生み出すこともなく、エレーナは炎の出所についてアーラに尋ねてみたのか、返ってきた言葉はエレーナが考えていたのと同じものだ。

 だが、それも当然だろう。

 そもそもの話、あれだけの巨大な炎を生み出すような存在など、そう多くいるものではない。

 エレーナが知っている限りでも、レイだけだ。

 ……いや、多人数で協力して儀式を行う特殊な形式の魔法であれば、他にも何人か心当たりはあるのだが、炎の生み出された方にあるのは生誕の塔で、そこにいるのはレイだけだ。

 だとすれば、答えは決まったようなものだろう。


「しかし、レイがあれだけの炎を生み出す必要がある何か、か。……ふむ。アーラ、今日これからの予定は?」

「もう何人か面談を希望している貴族がいますが、大した用事でもないのでこちらから断るか、明日にして貰うことは出来ます。……レイ殿の炎の件もありますので」


 既にエレーナとアーラの中では、あの炎はレイの仕業ということで決定していた。


「ふむ、では様子を見に行くとしよう。あれだけの規模の戦いだ。もしかしたら、まだ敵はいるかもしれんからな」

「分かりました。ただちに馬車を準備します」


 エレーナの言葉に、アーラは準備に出発……否、出撃の準備に取りかかるのだった。






「あら? 妙に精霊が騒いでるけど……」


 診療所で怪我人の治療を終えて一段落したマリーナは、ふと自分の周囲にいる精霊がいつもより騒いでいるのに気が付く。

 今までは治療に専念していたのでそちらに注意を払うような余裕はなかったのだが、ある程度の余裕が出来てようやくそれに気が付いたのだ。


「少し外に出て来るから、必要があったら呼んでちょうだい」


 周囲で働いている者達にそう告げると、マリーナは診療所から外に出る。

 すると、診療所の外にいる者の多くが一ヶ所を見て何か騒いでいた。


「どうしたの?」

「え? あ、マリーナ様!? えっと、あの……向こうの空に、突然巨大な炎が現れたんです」

「巨大な炎……?」


 そう言われてマリーナが思い浮かべるのは、当然のようにレイのことだった。

 そもそもの話、男が示した方向はトレントの森や生誕の塔が存在する場所であり、炎の魔法を得意とするレイの姿がそこにあるのは、容易に予想出来た為だ。


(これは……私も行った方がいいわね。幸いにも今日はそこまで怪我人も多くないようだし)


 そう決意し、マリーナはすぐに出発する準備を整えるのだった。

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