第2086話

「グルルルルルルゥ」


 そんな鳴き声を上げながら、セトが森の中から出て来る。

 セトが出て来たことに、周囲にいる者たち……昼食を食べている者、すでに食べ終えている者も含めて期待の視線を向けるが、残念ながら森から出て来たセトは特に何らかの獲物の類は咥えていない。

 もっとも、もしセトが何らかの獲物を咥えていたりした場合、喉を慣らすという行為は出来ても、鳴き声を上げるといった真似は出来ないのだが。

 そういう意味、セトが獲物を獲らずに戻ってきたのは、レイにとっては予想出来ることだった。


「あー……今日は肉なしか」

「いや、肉って言ってもな。もうお前は昼食は食べ終わってるだろ。今の時点で肉が出て来ても……」

「あのな、こういう言葉を知らないのか? 肉は別腹」

「……知らないな」


 セトを見ながらそんなやり取りをしている冒険者達の会話を耳にしたレイは、ふとビューネのことを思い出す。

 肉は別腹。

 普通なら何だよそれといったところだが、ビューネの場合は肉は別腹と言われても納得しかねないところがあった。


「じゃあレイ。俺はそろそろ行くから」


 先程までレイと話をしていた牛の獣人の男が、馬車の御者台の上でそう言いながら手を振ってくる。

 レイもまた、手を振り返して頼むと態度で示す。

 リザードマンの子供が使う本は、出来れば用意出来るといいと思うのだが、その辺りは無理も言えない。

 ダスカーや牛の獣人の男が報告する上司が本を用意してくれればいいのだが、その辺りをどう判断するのかは、レイには分からない。


「さて、昼の休憩もそろそろ終わりだし……後は、午後が一体どうなるか、だな。レイはどう思う?」


 冒険者の一人がレイにそう尋ねるが、レイはトレントの森に視線を向けて口を開く。


「どうなるかは、まだ分からないな。ただ、俺の場合はトレントの森で伐採された木を持っていく必要があるから、もし何かあった時にはお前達が頼りだ」

「俺達か? まぁ、レイにそう言われると悪い気分はしないけどな」


 異名持ちの冒険者に頼りにされているというのは、普通の冒険者にしてみれば非常に嬉しいことだろう。

 それこそ、誇りに思えてもおかしくはないくらいに。

 ……もっとも、レイがそれを自覚して言っているのかと言われれば、答えは否なのだが。

 ともあれ、冒険者との話を終えたレイは、また少し離れた場所にあるトレントの森の木を伐採して、建築資材にと思ったその瞬間。不意に背中にリザードマンの子供達を乗せていたセトが、びくりと動きを止める。

 それこそ、何かの反応を感じたかのように。

 素早く周囲に視線を向け、警戒するように鋭い視線を浮かべる。

 いつもは円らな瞳で、愛玩動物と言われてもおかしくはないセト。

 だが、何かを感じたその瞬間には、ランクS相当のモンスターとしての姿を現していた。


「グルルルゥ……グルルルルルルルルルゥ!」


 周囲に響き渡る鳴き声。

 それは、間違いなくレイを含めたこの場にいる全員に対して警戒するように呼び掛けていた。


「ゾゾ、子供達を生誕の塔に連れていけ!」


 鋭く叫ばれたレイの言葉に、ゾゾは石版を見てすぐに行動に移る。

 この辺りの行動の素早さは、それこそレイという存在と少なからず接してきたからだろう。

 また、他の冒険者や騎士、何より一番多いリザードマン達は、そんなゾゾの行動を見てすぐに行動に移った。

 数分前までは休憩を楽しんでいたのが嘘のように厳しい表情を浮かべ、何が襲ってきてもすぐに反撃出来るように武器を構える。


「俺はどうすればいい? 異常があったとギルムに知らせればいいか? それとも、どんな異常があったのかを確認してからギルムに向かえばいいのか?」


 牛の獣人の男も、先程までののんびりとした口調ではなく、冒険者としての性質を前面に押し出してレイに尋ねる。

 それは、まるで乳牛が闘牛用の牛に変わったかのような印象すら受けた。

 妻の尻に敷かれたままのような状態のままなら、それこそすぐにでもギルムに戻って貰った方がいいだろう。

 だが、今の闘牛のような状況なら、もう少しこの状況を見て貰って、しっかりとした情報をギルムに送って貰った方がいいというのが、レイの考えだ。


「後者で頼む。ただし、馬車に何か被害が及びそうになったら、すぐにでも出発してくれ。……セトの様子を見る限りでは、また何かとんでもないことが起こりそうだから、全員注意しろ!」

「レイ、何かが起きるのは確実なんだな!?」


 冒険者の一人が、レイに向かって鋭く叫ぶ。

 そこにあるのは、真実を確かめようとする意志のみ。

 実際にはまだ何も予兆のようなものは存在せず、あるのはただセトの鳴き声だけ。

 ゾゾの指示でリザードマンの何人かが、いきなりのセトの鳴き声に怯え、泣いている子供達を生誕の塔に運んでいるのを見ながら、レイは頷く。


「そうだ。セトは生誕の塔が転移してくる時も、リザードマンや緑人が転移してくる時も、その前兆を感じることが出来た」


 レイの言葉に、冒険者は頷くとその場を駆け出しながら、叫ぶ。


「分かった。俺は樵達にこの件を知らせて、避難するように言ってくる!」

「頼む!」


 場合によっては、この場で危険を感じて逃げたという者もいるかもしれない。

 だが、今の状況ではまだ何も実際に感じることが出来る異変は見つけられていない為に、樵やその護衛の騎士や冒険者達は異変の予兆を感じることは出来ない。

 セトがこれだけ周囲の様子を警戒している以上、何かが起きるのは確実だ。

 レイもまた、それを確信している。

 であれば、トレントの森にいる者達がその何かに巻き込まれてないように行動するのは、当然のことだった。

 レイの言葉を聞いた冒険者は、近くにあった馬に飛び乗ろうとし……先程のセトの雄叫びとも取れる鳴き声で動けなくなっているのに舌打ちし、自分の足で走って樵達の下に向かう。

 それを見たレイは、ふと思いついて牛の獣人の男が乗っている馬車を牽く馬に視線を向け、そこでも他の馬と同じようにセトの鳴き声に怯えて竦み、動けなくなっていることに気が付く。

 先程の牛の男の獣人に、少しこの場で待つようにと言ったレイだったが、この様子を見る限りではすぐにギルムに向かうように指示していても、恐らくそれが適うことはなかっただろう。

 残らせることにしてよかった。

 そう思いつつ、レイはいつの間にか自分のすぐ側までやって来ていたセトに視線を向ける。

 そこでは、やはりしきりに周囲の様子を警戒しているセトの姿があり、何かが起きるというのは確実だった。

 問題なのは、その何かがどれだけの規模なのか、ということだろう。

 リザードマンや緑人が数人転移してくる程度なのか、それとも数十人転移してくるのか。もしくは数百人規模なのか。

 あるいは、生誕の塔のようにグラン・ドラゴニア帝国の帝都にある建物が転移してくるのか。もしくは帝都そのものが転移してくるのか。

 はたまた……それ以外の何かか。


(これまでの経験からすると、それこそもうよっぽどの何かが起きない限り、驚くようなことはないな)


 ミスティリングの中からデスサイズと黄昏の槍を取りだし、他の者達同様に何があってもすぐ対応出来るようにする。

 そして……轟っ、と。空間が揺らぐ。

 いや、それどころではない。


「ぐっ!」


 空間が揺らぐのは、転移の前兆として理解出来る。

 だが、その空間の歪みが今まで以上に激しい為か、その揺らぎによって起きた衝撃波が、周辺へ無作為に放たれたのだ。

 幸いだったのは、その衝撃波は誰かが攻撃をする為に意図的に起こしたものではなかったということか。

 一定以上の実力者なら、立っていればバランスを崩すかどうかといった程度の威力しかない。

 ……それは一定以下の実力の持ち主なら地面に倒れ込むということを意味してるのだが、ここにはそのような実力不足の者はいない。

 敢えて上げるとすれば、生誕の塔にいるリザードマンの子供達や、その子供達を世話する女達だが、今は生誕の塔の中にいるので問題はなかった。

 一瞬、卵は無事か? と考えるレイだったが、今の状況ではそれよりもこの空間の揺らぎに対して警戒する方が先だろうと、思考を切り替える。

 空間の揺らぎによって生み出された衝撃波は、最初の一撃だけではなく、続けて何発も放たれる。

 とはいえ、最初のように半ば不意打ちだった訳でもなく、来ると分かっていればそれを防ぐことは難しくない。

 不規則に、それでも決して途切れることなく放たれる衝撃波に耐えながら、レイは転移してくるのは緑人やリザードマンが数人程度ではないというのは、明確に理解出来た。

 緑人やリザードマンが転移してくるのを、レイは見たことがある。

 その時は、このような衝撃波はどこにも存在しなかった。


(だとすれば、マリーナの家にいたから分からなかったけど、もしかしたら生誕の塔が転移してきた時はこんな感じで周囲に衝撃波が放たれていたのかもしれないな)


 周囲の様子を確認していたレイだったが、衝撃波が次第に弱まっていることに気が付き……不意に消える。

 そして、気が付けばそれはそこにあった。

 そう、レイも全く気が付かない間に、それはそこにあったのだ。

 生誕の塔の、トレントの森側ではない反対側に、巨大な……そう、本当に巨大な湖が存在していた。


「おい……嘘……だろ……」


 そう呟いたのが一体誰なのかはレイにも分からないが、その言葉には深く同意したいという気持ちが強い。

 緑人やリザードマンが転移してくるのは、分からないでもない。

 生誕の塔が転移してきたのも、理解出来ないでもない。

 だが、今回転移して来たのは、湖。

 それも小さな湖ではなく、かなりの広さを持つ湖だ。

 それこそ、増築工事を始める前のギルムよりも広いのではないかと思える程の湖。

 湖が転移してきたことそのものは納得出来ないでもないが、現在湖の存在する場所に合った大地はどこにいったのか。

 レイを含め、目の前に広がっている光景は、理解は出来るが理解出来ないといったような、複雑な代物だった。


「グルルルルゥ」

『っ!?』


 セトの鳴き声で、湖に目を奪われていた者は目を見開く。

 ともあれ、これが具体的にどのくらいに広い湖なのかを知る必要があるとして、レイは唖然としていた自分に活を入れ、セトに近づいていく。


「俺はちょっとこの湖がどれくらい広いのかをセトに乗って上から確認するから、お前達はもし何かがあってもすぐ対応出来るように準備しておいてくれ」


 それだけを言うと、レイはセトの背に乗る。

 セトの方も何かを言われなくてもレイが何を希望しているのかを理解し、数歩の助走で空を駆け上がっていく。


「これは……」


 上空から見た湖は、レイが地上にいる時に見た印象よりも、明らかに広い。

 日本にいる時、レイは家族と一緒に十和田湖にタケノコ――一般的な孟宗竹のような太いタケノコではなくネマガリダケの類だが――を泊まりがけで採りに行った時に見た事があるが、それよりも広いのではないかと思える程だ。

 もっとも、その時に見た十和田湖はあくまでも地上から見たもので、こうして上空から見たことはないのだが。


「グルルルゥ」


 レイの言葉に、セトは喉を鳴らす。

 凄い、広い、と。そうセトが思っているのは間違いなかった。

 レイもそんなセトの意見には賛成だ。


「魚も……結構な大きさの奴がいるみたいだな」


 上空からでも見ることが出来るくらい、湖には魚影が存在する。

 例えレイの視力が通常の人間以上に鋭くても、現在のセトの飛んでいる高度から確認出来るのだから、その魚はかなりの大物であるのは間違いない。

 そして大物の魚がいるということは、その餌となるだろう小さな魚やそれ以外の生き物がいるのも間違いなく、そういう意味では自然環境が豊かな湖なのは確実だ。


(取りあえず、ギルムのすぐ近くにこれだけ大きな湖が出来たというのは、魚を食べられるという時点で悪い話ではない……よな?)


 自分でも若干現実逃避気味であるという認識はあったのだが、それでもレイはそんな風に考える。

 とはいえ、それは現実逃避であっても事実なのは間違いなかった。

 ギルムに持ち込まれる魚というのは、海の魚に関しては塩漬けや干物など海から遠いこともあって保存食にした加工品がほぼ全てだ。

 生の魚を持ち込むのは、それこそ川魚くらいしかない。

 だが、その川魚も数はそこまで多くはなく、希少な品だけに高価になる。

 そういう意味で、近くに湖が出来て魚という食材が多くなるというのは、ギルムにとって悪い話ではない。

 ……もっとも、食材云々以上に色々な面倒が起きるのは確実だったが。

 それは、レイにどうにか出来る訳ではない以上、この地を治めるダスカーに任せようと、丸投げすることに決めるのだった。

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