第2087話
目の前に広がる、圧倒的な広さを持つ湖。
実際にはこのエルジィンにおいて、どのくらいの広さを持つのかというのは、レイにも分からない。
だが、ともあれこの湖がいきなり転移してきたのは間違いない以上、それを警戒するなという方が無理だった。
また……レイが上から湖を見た際には、明らかに魚ではないだろう影を持った存在の姿も確認されている。
湖が出来たことで漁をすることは可能になるだろうが、その影の存在を思えば絶対安全な漁場という訳でもないのは明らかだった。
「レイ、その……どうだった?」
地上に降りてきたレイに、冒険者の一人が恐る恐るといった様子で尋ねてくる。
レイはそんな相手に対し、淡々と口を開く。
「とにかく、かなりの広さを持つ湖なのは間違いない。……ただ、このままで問題ないのかってのはあるけど」
「問題?」
「ああ。これが湖だとして、転移してきたのはともかく、これから水の流れがどうなるのかと思ってな」
湖というのは、基本的にどこからともなく常に新鮮な水が提供されるのが殆どだ。
だが、こうして湖そのものが転移してきたとなると、この湖が元々存在した世界での水源は今は存在しないことになり……今はいいが、場合によっては時間が経つにつれてこの湖の水はなくなり、場合によっては腐るといったことになりかねない。
勿論、転移……それも異世界に転移してきた湖なのだから、あるいは魔法か何か、もしくはそれ以外の何かの力によって地下水や湧き水、川といった水の供給源がなくても、何とかなる可能性は十分にあるのだが。
「あー……水か。それは今回の件でどうなるのか、気になるな。せっかくこれだけの巨大な湖が転移してきたんだから、出来れば長い間ギルムの為に使いたいところだけど」
「そうだな。ただ、上から見た限りでは湖の中にいるのは魚だけじゃなくて、何らかの他の存在……モンスターなんかもいるように見えたけどな」
「うげぇ」
嫌そうな……本当に嫌そうな様子を見せる冒険者。
これが地上なら、ギルムにいる冒険者なら幾らでも戦いようがあるのだが、今回の敵は湖の中だ。
敵がいる場所が場所だけに、戦いは不可能という訳ではないだろうが、それでも明らかに不利なのは間違いない。
何らかの魔法やマジックアイテムの類で水中でも自由に動けるようになれば、話は別かもしれないが。
それこそ、レイは炎の魔法を得意としているということで知られているし、実際に火災旋風を生み出すといった真似も出来る。
だからこそ、レイなら湖の水を全て蒸発させるような真似が出来るのではないかと、話を聞いていた別の冒険者から期待の視線を向けられる。
だが、レイはそんな相手の期待に応えるつもりは、今のところはない。
そのような真似をすれば、湖そのものが使い物にならなくなってしまうのだから。
折角出来た湖だ。
水がどこからか供給されて、しっかりとした湖として長い間使えるのか、それとも水が供給されていない為にそのうち水が濁って湖が使い物にならなくなるのか。
そこはレイにもまだはっきりとは分からなかったが、レイの判断だけでどうこうしていいものではなかった。
「それで、だ。……ゾゾ」
『はい』
冒険者との言葉を切り上げ、レイはゾゾを呼ぶ。
ゾゾもまた、突然転移してきた湖の存在に目を奪われていたのだが、それでもレイの言葉で我に返って近づいてくる。
『何でしょう?』
「この湖だが、何て名前だ?」
レイにしてみれば、今までの転移は全てゾゾ達のいた世界からの転移であり、生誕の塔もグラン・ドラゴニア帝国から転移したものだ。
ましてや、これだけの大きさの湖が自国の中に存在するのであれば、当然その湖について知っていてもおかしくはないだろうという判断からの問いだったのだが……
『申し訳ありませんが、このような湖を私は知りません』
レイの問いに、ゾゾは短く、だか確実にそう答える。
「え?」
まさか知らないとは思わなかったのか、レイの口からは小さな声が漏れる。
それでも嘘だろう? とゾゾを疑わなかったのは、ゾゾがレイに従うようになってからまだあまり日数は経っていないが、それでも自分に深い忠誠心を抱いていると知っていたからだろう。
それこそ、レイが死ねと言えばゾゾは疑問もなく死んでもおかしくはないだけの忠誠心をレイに抱いているのだ。
レイにしてみれば、正直何故そこまでと思わないでもなかったが。
「えーっと……じゃあ、ガガにも聞いてみてくれないか?」
『分かりました。少々お待ち下さい』
ゾゾは先程の自分と同じく、湖に圧倒されるかのような視線を向けているガガに近づき、声を掛ける。
ガガはゾゾに呼び掛けられたことで我に返ったのだろう。
驚きつつも、ゾゾの問いに短く答えていく。
『ガガ兄上も、このような湖のことは知らないらしいです。一応グラン・ドラゴニア帝国にも湖は幾つかありますが、そのどれもがこの湖よりも小さいですし』
ガガは、その性格とは裏腹に頭がいい。
また、第三皇子というだけあって様々なことを知っている。
この辺りは、皇子ではあっても皇位継承権が非常に低いゾゾとは比べものにならないだろう。
そんなガガだけに、自国にどのような湖が存在するのかというのは当然のように知っていてもおかしくはないのだが、とレイは疑問を抱き、再び湖に視線を向けた。
「うん、湖だな。……妙な奴はいるけど」
呟くレイの視線の先では、水面から長い尻尾が見えていた。
かなり遠くなので、具体的にどのくらいの長さの尻尾なのかは分からないが、それでも五mくらいはあるのではないかと思える長さ。
最初は魚の尻尾かと思ったのだが、少なくてもレイが知っている限りでは魚の尻尾には毛が生えていないし、何よりも水から出たばかりの毛であるのに、濡れて尻尾にくっついておらず、普通の毛のままだというのは有り得ない。
「何だよ、あれ……」
レイの近くにいた冒険者も、ただ唖然とした様子でレイと同じものを見る。
視線の先にいるのは、冒険者としてそれなりに経験を積んでいる男にとっても、見たことない代物だった。
「この湖については、ゾゾもガガも知らないということでいいんだな?」
『はい。もしかしたら、グラン・ドラゴニア帝国以外の国にはこのような湖がある可能性もありますが……』
レイの役に立てないことに、残念そうな様子を見せるゾゾだったが、レイはそれを気にするなといった様子で首を横に振る。
「この湖がグラン・ドラゴニア帝国にあって知らないのならともかく、そもそもグラン・ドラゴニア帝国にないのなら、知らなくてもおかしくはない」
そう告げつつもレイは再び湖を眺めた。
先程の尻尾は既に消え、現在は湖面に波紋を描いているだけだ。
(この湖をゾゾやガガが知らないのなら、すぐに思いつく可能性としては三つある)
レイは湖面を眺めながら、現状で思いつくことを頭の中で並べていく。
一つ、ゾゾ達のいる世界から転移してきたが、グラン・ドラゴニア帝国以外の国から転移した。
二つ、ゾゾ達の国ではなく、この世界……エルジィンにあるどこかの湖が転移してきた。
三つ、エルジィンでも、ゾゾ達のいる世界でもなく、全く別の……第三の世界から転移してきた。
その中でも、レイとしては出来れば三番目の考えは外れて欲しいという思いが強い。
今でさえゾゾ達の世界からの転移で困っているのに、そこで更に別の世界からの転移ともなれば……それこそ、洒落にならない。
「あ、レイ。とにかくこの件をギルムに知らせてくるけどいいよな?」
湖を見て考え込んでいたレイにそう尋ねたのは、牛の獣人の男。
セトの鳴き声で馬が怯えて動けなくなっていたのだが、ある程度時間が経ったことで馬も無事に動けるようになっていた。……若干、まだ怖がってはいるが。
だからこそ、セトから少しでも離れることが出来るのなら、全速力で走り出してもおかしくはないだろう。
「そうだな、もうこれ以上は何も起きないだろうから、そうしてくれ。……ただ、多分この件を言ってもそう簡単に信じてくれるとは思えないけど」
「……どうしよう」
牛の獣人の男も、レイの言葉を否定は出来ない。
これがもっと小さい湖なら、生誕の塔が転移してきたこともあって、まだ何とか納得させることは出来るだろう。
だが、現在レイ達の目の前に広がっているのは、巨大な湖だ。
これだけのものが転移してきたと言われて、すぐにはいそうですかと納得するのかと言えば、答えは否だろう。
「その場合は、レイが関わってるって言えば、『レイだから』で納得するんじゃないか?」
話を聞いていた冒険者の男が口を挟んでくる。
その理由にレイは納得出来ないものがあったが、何故か……本当に何故か、その話を聞いていた他の者達は納得した様子を見せていた。
もっとも、レイがこれまで関わってきた騒動のことを思えば、『レイだから』で納得出来るというのは、ある意味で当然のことかもしれなかったが。
「好きにしろ。ともあれ、どうしても信じないって言うのなら、そいつが直接ここに来るか……お前が行くか?」
自分を理由にされるのは取りあえず置いておくことにしたのか、レイが尋ねたのは騎士だ。
ダスカーの直接の部下たる騎士からの報告であれば、真面目に聞くくらいはするだろう。
だが、レイの問いに騎士は非常に悩んだ末に、首を横に振る。
「そうした方がいいとは思うが、私がここからいなくなった後で何かが起きたら、色々と不味い」
「それは……まぁ、そうだな」
実際、湖が転移してくるなどという、予想外の事態を何度となく経験しているレイにとっても予想外の光景がこうして目の前で起こっているのだ。
この後でまた別の何かが転移してくるようなことがあっても、驚きはするが同時に納得もするだろう。
その時に騎士がこの場にいないというのは、この転移現象に関わっている者として、騎士に……そして騎士の上司たるダスカーの落ち度になりかねない。
だからこそ、騎士はレイの言葉に渋々ではあるが断ったのだ。
……実際には、騎士が二人この場にいれば問題はなかったのだが。
そう思った瞬間、それを解決するかのようにトレントの森の方から騎士が姿を現す。
一瞬、誰だ? と思ったレイだったが、よく見ればトレントの森で樵や冒険者達と一緒に行動している騎士だった。
その騎士はトレントの森から出て来ると、生誕の塔の間近に存在する湖を見て……動きを止める。
当然だろう。この騎士も生誕の塔について知ってはいても、まさかそのすぐ側に湖が出来ているとは思いも寄らなかったのだろうから。
「すまない、ちょっと待っていてくれ」
生誕の塔を担当していた騎士が、短くそう告げ、騎士の方に向かって進む。
そんな騎士の姿に、ここにいる誰もが文句を言うようなことはない。
自分達は湖が転移してくる瞬間をその目で見ていたので、混乱しつつもある程度は納得出来る。
だが、何も知らない者にしてみれば、それこそ気が付けばいきなり湖が現れていたのだ。
それで驚くなという方が無理だろう。
それでも騎士によって簡単にではあっても事情が説明されると、多少なりとも落ち着くのはギルムという辺境の騎士だけあるだろう。
……レイだから、という言葉が微妙にレイの耳に入ってきたのは取りあえず聞かなかったことにして、レイはそう思う。
ようやく落ち着いた様子の騎士を伴い、この場にいた騎士がこちらに戻ってくる。
「取りあえずここはこいつに任せ、俺はギルムに報告に行こう。そうすれば、向こうでも湖が転移してきたという話に、多少は納得するだろう」
「そうして貰えると、こっちも助かるなぁ」
牛の冒険者の男が、騎士の言葉に嬉しそうに言う。
実際、自分が説明するよりも騎士に説明して貰った方が信憑性が高いというのを、理解しているのだろう。
同時に、自分が説明するのが得意ではないというのも、理解しているからこその行動か。
トレントの森からやって来た騎士も、この状況を放っておくことは出来ないと判断したのだろう。すぐに話は纏まる。
騎士が馬車に乗って去っていくのを見送っていたレイは、改めてこの場に残った騎士……トレントの森からやって来た騎士に声を掛けた。
「お前がこっちに残ってくれたのは嬉しいけど、トレントの森の方はいいのか? さっきの衝撃波はそっちまで届いてたんだろ?」
「そうだな。だが、向こうでは実際に特に何かあった訳でもないから、その辺の心配はいらないだろう。だが……私がこっちに残る件は説明しておいた方がいいだろうから、悪いが誰か向こうに説明に行ってくれないか? 私はここから動くことは出来ないからな」
騎士の言葉に、冒険者の一人がすぐにトレントの森まで向かうことになるのだった。
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