第1883話

 これ以上スラム街にいても意味はないだろうと判断し、セイソール侯爵家の騎士や兵士達もいなくなったことだしということで、レイ達もケレベル公爵邸に戻ることにする。

 とはいえ、セレスタンの家があった場所は消滅したが、あの空間の異常や封印されていた肉の繭といった存在が何か悪影響を出さないか……そして、本当にガイスカ諸共に死んだのかを確認する為にも、あの場所に何人か兵士を残すことになったのだが。


「グルゥ! グルルルルルルルゥ!」


 ケレベル公爵邸に向かっている途中、レイの隣ではセトが喉を鳴らしながらレイに顔を擦りつけ、甘える。

 セトは人の話を理解出来るだけの高い知性を持っているだけに、あの家の中で起こった出来事はレイにとってもかなり危なかったと、そう理解しているのだろう。

 だからこそ、こうしてレイに甘えているのだ。

 レイもそれが分かっているからこそ、道を歩きながら自分に顔を擦りつけてくるセトをそっと撫でる。


「心配を掛けたな。けど……俺があの程度の敵にやられる訳がないだろ?」

「ふふっ、武器を取り出せなかったせいで、かなり戦いにくかったようだがな」


 レイの側を歩いていたエレーナが、少しだけからかうように言う。

 そんなエレーナに、レイは何かを言い返そうとするが……それは意味をなさない。

 実際、それは間違いのない事実だったからだ。

 家の中や隠し通路を進んでいる時であれば、その狭さからデスサイズや黄昏の槍といった長柄の武器をレイが取り出さなかったのは、当然ではあった。

 だが……あの肉の繭の存在していた広大な空間の中に出た時、すぐにデスサイズや黄昏の槍をミスティリングから取り出しておけば、武器に困るということはなかった。

 もっとも、あの空間に入った時点で肉の繭の力によってミスティリングを封じられていた可能性は高いのだが。


「あの一件は結構な教訓になったのは間違いないな。……ただ、それを完全に活かせるかどうかは、別の話だけど」


 敵の目の前で、ミスティリングから武器を取り出す。

 その上、取り出した武器はデスサイズと黄昏の槍という、それこそ見ただけで分かる程に圧倒的な代物だ。

 そのような行為をするだけで、敵対している相手に対して強い牽制になるし、場合によってはそんな武器を振り回しているレイに勝てる筈がないと敵の戦意そのものに致命的なダメージを与えることが可能なこともある。

 戦いが始まる前に戦いを終わらせるという行為は、レイにとっても非常に便利なのは間違いない。

 折角使える攻撃手段を使わないというのは、レイにとっても非常に勿体なかった。


「その辺りについては、私がどうこう言えることではない。実際に戦うレイが決めることだ。……それにしても……」


 そこで一旦言葉を切ったエレーナは、自分の右肩にいるイエロを撫でながら大きく息を吐く。


「正直なところ、今回の一件が面倒なことになるとは思っていたが、予想以上に面倒なことになってしまったな。まさか、これ程の騒動になるとは思ってもいなかった」

「そうですね。エレーナ様とレイ殿が隠し通路から飛び出してきた時には、一体何があったのかと思いましたよ」


 エレーナの側に居たアーラが、しみじみと納得する。

 そのような状況ではあっても、レイやエレーナの逃げろという言葉を全く疑う様子もなく、混乱や躊躇といった真似はせず、即座に行動に移したのだから、アーラの判断力は賞賛されてもおかしくはない。


「セレスタンと黒狼の関係とか、ガイスカが依頼を頼んだ証拠の書類とか、そういうのを入手出来なかったのは痛いな。一応適当に書類を持ってきたけど……」


 レイはミスティリングから書類を取り出して、月明かりの中でざっと眺める。


「取りあえず俺が持ってきた書類は、そういう重要な書類じゃないな。いやまぁ、こうして見たところでは何かの帳簿のようだから、全く何の役にも立たないって訳じゃないだろうけど」


 今まで帳簿の類は殆ど見たこともないレイだったが、農家をやっている両親が付けている帳簿を何度か見る機会があった。

 レイが持ってきた書類は、その帳簿とそっくりそのまま……という訳ではないが、大雑把に見た感じではかなり似通っているように見えた。

 もっとも、帳簿のようだと思ったのはあくまでもレイの意見でしかなく、実際にはケレベル公爵家の者がこの書類をしっかりと調べ、それで具体的にどのような書類なのかを判断するだろう。


「私の方は……ほう、何人かの部下、セレスタンの率いていた組織の幹部に対する指示書だな。これはセレスタンの組織を潰すなり、もしくは傀儡にするなり、あるいはそれ以外の手段を取るにとしても、有益な代物だな」

「……エレーナ様もレイ殿も、よくこんな月明かりで書類を読めますね」


 呆れの混じったアーラの言葉。

 アーラも全く夜目が利かない訳ではないが、それでもこの程度の月明かりの中で書類を読むといった真似は難しい。

 ……難しいだけであって不可能でないのは、訓練のおかげなのだろうが。

 それでも、ケレベル公爵邸に戻れば明かりの下で書類を確認出来るのだから、今この場でそれを確認しようとは思わなかった。

 レイとエレーナもそんなアーラの様子に、このような場所で読んだりしなくてもいいだろうと判断し、書類を読むのを止めてケレベル公爵邸に急ぐ。


「急ぐ、か。……けど、もう今回の作戦が成功したっていう伝令は出してるんだろ?」

「うむ。だが……予想外の終わり方だったからな。まさか、家そのものが消滅するとは思わなかった。恐らく、報告を受けた父上も戸惑っているだろう」


 エレーナの言葉に、レイとアーラはそれぞれ納得の表情を浮かべる。

 本来ならセレスタンをある程度叩いて、黒狼とセレスタンの繋がりや、ガイスカが黒狼にレイの暗殺を依頼した証拠となる書類やら何やらを入手するつもりだったのが……結果として、家そのものが消滅してしまったのだ。

 それで驚くなという方が無理だろう。

 もっとも、驚いたからそれで終わり……という事が出来ないのは、ケレベル公爵としての立場故だ。

 恐らく何らかの動きを示すだろうというのが、レイの予想だった。


「セレスタンの率いてた組織は、結局どうなると思う? 本来なら、今日セレスタンを殺すつもりまではなかったんだろ?」


 とはいえ、当初はそのつもりであっても、今回の一件を考えればガイスカが殺さなくても、レイかエレーナが殺していた可能性が高いだろう。

 当初の予定は予定として、封印されたモンスターと思しき存在を解放しようとしていたのを考えれば、生かしたままという風にも出来なかった。

 何より、セレスタンを生かしたままであれば、肉の繭の能力を操ってレイのミスティリングを封じたままにされるといった可能性もあった。


(正直なところ、まさかミスティリングが封じられるとは思っていなかったな。そんな手段があるというのすら、予想外だった。……とはいえ、これはどうにかしようにも対処は出来ない)


 ミスティリングをどうにかするという方法があったとしても、レイはそれにどう対処すればいいのかが分からない。

 特定の行動に対処するべきマジックアイテム……例えば、毒や麻痺に対する抵抗力を高くするマジックアイテムといったものであれば、レイも知っているし、見たこともある。

 だが、それが空間を操ってミスティリングを封じるといった状態に抵抗するとなると……レイは見たことも聞いたこともない。


(そもそも、空間を操るなんて能力そのものが非常にレアなのは間違いないんだ。……それに対処する為のマジックアイテムとかを探すって方が無理だろうな。そうなると、やっぱり自分で探すんじゃなくて錬金術師に作って貰った方がいいのか?)


 レイが思い浮かべたのは、黄昏の槍を作って貰った人物だ。

 色々な意味で特殊な性格をしている以上、そのようなマジックアイテムを作って欲しいと頼めば、また大きな騒ぎになるのは確実だった。


「あ、エレーナ様。どうやら向こうからも伝令が来たみたいです」


 マジックアイテムについて考えていたレイは、アーラのそんな言葉で我に返る。

 そしてアーラの見ている方に視線を向けると、そこには自分達の方に向かって走ってきている兵士の姿があった。


「ふむ、どうやら急いでいるように見えるが……」

「あの家であったことを考えれば、それは当然かと」


 エレーナの言葉にアーラは短くそう告げる。

 実際、今はまだ夜だからそこまで大きな騒ぎにはなっていないが、これが明日の朝になれば、間違いなく大きな騒動になるのは確実だった。

 それでもセレスタンの家はスラム街の奥地にあったのが、せめてもの救いだろう。

 もしこれがアネシスの表通りで起こったりすれば、間違いなく大きな騒動となっていた。


「今回の一件は、そこまで大きな騒動になると思うか?」

「取りあえず、裏の組織では今頃大わらわでしょうね。セレスタンの家に私達が攻め込むということについては、情報として流されていたでしょうし。……そのような状況で、突然家が文字通りの意味で、残骸すら残さずに消滅してしまったのですから」


 しみじみと告げるアーラの言葉に、レイもエレーナも納得したように頷きを返す。

 ちょうどそのタイミングで、伝令の兵士がエレーナの下に到着した。


「失礼します、エレーナ様。リベルテ様からの伝令として参りました」

「うむ。それで、父上はなんと?」

「まず、最初に聞けと言われたのは、最初の報告は事実だったのか、と」

「……事実だ」


 伝令の兵士の言葉に、若干不満そうな表情を浮かべたエレーナは、そう返す。

 エレーナにしてみれば、実際に起こったことだけを報告したのだが、その内容があまりに予想外のものだった為に、こうして改めて確認をしてきたのだろう。

 とはいえ、エレーナであってもその報告を聞けば本当かどうかを確認するような真似をしただろう。

 それを思えば、父親が伝令に冗談でも何でもなく、本当にあった出来事なのかというのを聞いてくるようにと言われたのは納得出来ることでもあった。


「そうですか。では、なるべく急いで戻ってくるようにと。そうリベルテ様から伝えるように言われております」

「なるほど。なるべく急いでか。父上にとっても、今回の一件は予想外だったのだろうな」


 納得したように呟くエレーナに対し、レイは当然だろうと思うも言葉に出さない。

 今回の一件を指示したのは、間違いなくリベルテだ。

 そのリベルテも当然のようにセレスタンの情報を集めてはいただろうが、まさかあの肉の繭の封印を解こうとしていることまでは分からなかっただろう。


(まぁ、本人の様子を見ても、取りあえず解けるから封印を解いてみたい……って風にも見えたけどな。あるいは、黒狼が死んだことが何か関係しているのかもしれないが……)


 結局セレスタンと黒狼が具体的にどのような関係だったのかは、レイにも分からない。

 だが、それでも黒狼とセレスタンの繋がりが、ただのビジネスライクな関係ではないというのは、セレスタンと会話をしたレイには何となく理解出来た。


「父上からの要望は分かった。では、レイ。すまないが、私は一足先に屋敷に戻らせて貰う。レイは屋敷に戻ったら、部屋に戻って休んでくれて構わない。ただ、もしかしたら父上から何らかの連絡が行く可能性もあるが……」

「ああ、その時は俺も行くよ。とはいえ、エレーナが説明した後で俺が説明するようなことは殆どないと思うが」

「そうか? 私があの執事と戦っていた時、レイは何と言ったか……そう、デオトレスだったか。あの男と戦っていただろう? であれば、その時のデオトレスについて何か説明を聞きたいと父上が思う可能性もある。特にデオトレスはセイソール侯爵家の者だったからな」

「あー……なるほど。そういうこともあるのか。ああ、分かった。なら、寝ていたら起こしてくれ。それとも……セトと少し遊んでいた方がいいか?」


 エレーナと話している間も、レイはセトの頭を撫でていた。

 そんなセトは、レイの言葉に本当!? と目を輝かせるが、エレーナは首を横に振る。


「セトには悪いが、出来れば部屋にいて欲しい。……誰がレイを呼びにいくか分からない以上、厩舎ではなく部屋にいてもらった方が助かる」

「誰にって、それはミランダじゃないのか? 俺の担当なんだろ?」

「時間を考えろ、時間を。既にこの時間なら、殆どのメイド達は眠っていてもおかしくはない」


 そう言われたレイが空を見上げると、セレスタンの家に突入する前に月があった場所から、見て分かる程に移動していのだった。

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