第1884話
「ん……あ……?」
目が覚めたレイは、そこで初めて自分が眠っていたのだと思い出す。
昨夜は、セレスタンの家が消滅した後でケレベル公爵邸に戻ってきた後、もしかしたら何らかの理由で呼び出されるかもしれないと考え、部屋で待っていたのだが……
(こういうのも、いわゆる寝落ちっていうのか?)
床に本が落ちているのを眺めつつ、レイは寝起きのまだ完全に働いていない頭で考える。
床の本は、ケレベル公爵邸にある図書館から借りてきた物だ。
当然の話だが、もし汚していれば……具体的には、本に涎やら何やら、場合によっては寝ぼけてページを破ったりといった真似をしていれば、弁償しなければならなかっただろう。
だが、幸いにも本は床に落ちており、レイが汚したり破いたりといったことにはなっていなかった。
それでも一応床に落としたときに傷が付いてないかと寝ぼけた状態のままでページをめくっていると……不意に部屋の扉がノックされる。
「失礼します、レイさん。もう起きていますか?」
「あー……起きてる」
そこまで大きくはない声だったが、それでも扉の向こう側には聞こえたのだろう。
やがて扉が開き、ミランダが姿を現す。
ミランダは、目の前にいるのがいつものレイだと知って、少しだけ安堵する。
昨夜起こしに来た時のレイは、明らかにミランダの知っているレイとは違ったので、今日も同じだったらと思うと不安だったのだろう。
「昼食の方、どうしますか?」
「……昼食? 朝食じゃなくてか?」
「はい。もう午後ですよ。それも、昼をすぎてからかなり経ちます」
「そうか」
少しだけ残念そうに、レイは呟く。
それは、ゲオルギマの朝食を食べ損ねたからだろう。
いや、既に昼をかなりすぎているとなると、朝食だけではなく昼食も食べ逃したことになってしまう。
ゲオルギマやその弟子達が作る料理は、どれもが極上品と呼ぶべき美味さを持っている。
その料理を二食も食い逃したのは、レイにとっては大きな痛手だった。
だが、そんなレイの気持ちが分からないミランダは、ショックを受けた様子のレイの様子を疑問に思いながら口を開く。
「レイさん? どうしました?」
「ん? ああ、いや。何でもない。それで? そろそろ俺が起きそうだから起こしに来たのか?」
「それもありますけど、旦那様がお呼びです。もし起きているのであれば、と。寝ているのなら、無理をしなくてもいいと仰ってましたが……どうします?」
この場合、ミランダが口にした旦那様というのは、ケレベル公爵のリベルテのことだ。
この屋敷の主に呼ばれているというのに、それも起きているというのにそれを無視する訳にもいかない。
ましてや、リベルテはただの貴族という訳ではなく、エレーナの父親なのだから。
「いや、大丈夫だ。すぐに準備するから待っててくれ」
そう告げ、レイは素早く身支度を済ませ、ミランダと共に部屋を出る。
……尚、レイが起きた時に床に落ちていた本は、改めて確認してみたが、やはりどこにも傷の類は付いていなかった。
そのことにレイが改めて安堵したのは当然だったのだろう。
「良く来てくれた。昨日は眠れたかね?」
ミランダに案内された部屋には、リベルテの他にもエレーナ、アーラという昨日の一件に関わった二人と、リベルテの妻のアルカディアの姿があった。
エレーナの使い魔のイエロがいないのは、堅苦しい話が苦手だからか。
レイはリベルテに勧められたソファに座りながら、笑みを浮かべて頷く。
いつもであれば、その笑みの大部分はドラゴンローブのフードに隠れてしまうのだが……今はそのフードを脱いでいるということもあり、その笑顔は普通に見えている。
「はい。……というか、ちょっと寝過ぎてしまって、本当についさっきまで寝てしまってました」
「うん? そうなると、私がミランダに頼んだせいで、無理に起こしてしまったのかな?」
「いえ、ミランダが来る少し前には起きてましたから」
「そう言って貰えると助かる。……さて、レイを改めてこの場に呼んだのは、レイの口からも昨日の一件について詳しく聞かせて貰いたかった為だ。エレーナとアーラの二人からも聞いてるが、やはりこのようなことは大勢から多角的に聞いた方が何があったのかを正確に把握出来るからな」
もっとも、アーラは肉の繭のある空間には行かなかったのだが、と。リベルテは少しだけ残念そうに言う。
そんなリベルテの様子にアーラは申し訳なさそうな表情を浮かべるが……アーラが何かを言うよりも前に、エレーナが口を開く。
「父上、その件についてはすでにもう話してある筈です。それに、アーラが書類を調べていたからこそ、色々と分かったこともあったのでは?」
その口調に若干責めるような色があったのは、アーラを庇うという意味があったのだろう。
……実際、昨夜この屋敷に戻ってきてから、レイがミスティリングの中に入っていた書類を渡したのだが、その書類には色々と重要なことが書かれていた。
レイ達が探していた、セレスタンと黒狼の関係を示す為の書類の類はなかったし、ガイスカが黒狼を雇ったということを示すような書類も見つけることは出来なかった。
だが、代わりという訳ではないが、ケレベル公爵としてのリベルテにとっては興味深い書類が何枚かあったのだ。
それこそ、貴族派の貴族の何人かがリベルテに睨まれるといったことになるのは確実な内容が書かれた書類が。
目的の書類は入手出来なかったが、目的としていたのとは別の書類の入手には成功したのだ。
消滅した屋敷からそれらの書類を持ち出すことが出来ただけで、十分利益となっているのは間違いなく。
少なくても、何もせずに家が消滅したということに比べれば、十分すぎるだろう。
「ああ、うむ。私も別にアーラを責めるつもりはない。寧ろ、あの状況でよくこれだけの書類を持ち出してくれたと、感謝をしている」
「……そう言って貰えると、助かります」
エレーナの隣に座っていたアーラが、申し訳なさそうにしながらも頭を下げる。
そんなアーラの姿に、エレーナだけではなくアルカディアからも責めるような視線を向けられたリベルテは居心地の悪さを誤魔化すようにしながら口を開く。
「それで、だ。レイが見た肉の塊だったか? それについての話を聞かせて欲しい」
そんなリベルテの言葉にレイは頷き、自分が経験したことを口にする。
その説明はエレーナとは違って、とても分かりやすいといったものではなかったが、エレーナがそんなレイの説明で足りない場所を補足していく。
「ふむ。炎帝の紅鎧か。そのようなスキルをレイが使えるという話は知っていたが、実際にそれを使っている者から話を聞けば、さすがと言うべきだな」
リベルテの口から出た言葉は、レイにも少しだけだが驚きを与える。
だが、ケレベル公爵という地位にあるのであれば、レイの奥の手とも言える炎帝の紅鎧を知っていてもおかしくはない。
ましてや、エレーナの側で使ったのだから、そこから情報が流れていてもおかしな話でない。
元々奥の手という扱いではあったが、炎帝の紅鎧は隠しているスキルという訳ではない。
……そもそも、隠しておかなければならないスキルであれば、人前では極力使わないようにするべきなのだが、レイはその辺りはそこまで気にした様子はない。
「それは、ありがとうございますと、そう言えばいいんでしょうか?」
「どうだろうな。……ともあれ、レイの話は分かった。今回の一件では、色々と巻き込んでしまったな」
「いえ。この場合、寧ろ巻き込んだのは俺の方かと。まさか、ガイスカが黒狼を雇うなどといった真似をするとは思いませんでしたし」
その後、数分話をした後でリベルテは本題に入る。
「さて、では今回レイを呼んだ本題にはいるとしよう」
レイの表情に若干ではあるが真面目な表情が宿る。
どのようなことを言われるのかと、そのように疑問を持った為だ。
レイの視線の先で、リベルテが小さな鐘を鳴らす。
すると、そこから十秒と経たずに扉がノックされた。
「旦那様、言われた物を持って参りました」
「うむ、入れ」
その言葉と共に扉が開き、やがて執事の男が姿を現す。
どこかで見た顔だったと少し考えたレイだったが、年末のパーティーの時にリベルテ達のテーブルに呼ばれていた男だったことを思い出す。
ケレベル公爵家に仕えている者の中でも、トップクラスに有能だと判断された男。
その男の後に続くように、二人の男が木の樽を持って部屋の中に入ってきた。
見るからに力の強そうな、筋骨隆々と表現するべき男達だったが、その顔はかなり赤くなっている。
明らかに現在の状況でも全力を出していると、そのように見て分かる状態。
そんな二人の男は、そのような状況であっても床に傷を付けないように、ゆっくり、丁寧に木の樽を床に置く。
木の樽を、具体的にどれくらいの距離を運んできたのか、レイには分からなかったが、その様子からするとかなりの距離を運んできたのは間違いないと思われた。
(車輪のついた……紅茶とかを運んでくるような、カート? あれに入れて持ってくれば……ああ、いや。こうして見た感じではかなり重そうだし、それを考えるとそういうので運ぼうとしてもカートの方が壊れるのか。もしくは、壊れなくても重量で床にタイヤの跡とかがついたりするだろうし)
レイが二人の男が運んできた木の樽に視線を向けていると、リベルテが笑みを浮かべて口を開く。
「レイ、これが君への報酬だ」
「報酬?」
一瞬、レイは何のことを言われているのか分からなかった。
セレスタンの家に突入したのは、あくまでも自分の為という思いの方が強い。
報酬を貰うような理由はない……と。
そんなレイの様子を見て、勘違いをしていると判断したリベルテは、レイが何かを言うよりも前に口を開く。
「言っておくが、この風魔鉱石は昨日の件とは全く関係がない。……模擬戦の時に報酬を支払うと言っていたのを覚えていないか?」
「……ああ、そう言えば」
リベルテの言葉に少し考え、レイはようやく思い出す。
そう言えば、風魔鉱石を報酬で貰うと約束していたなと。
自分の言葉でようやく思い出した様子のレイを見て、リベルテは若干呆れの表情を見せる。
風魔鉱石を木の樽で二つ分……それこそ、現金にすれば相当の金額になる代物だ。
ケレベル公爵のリベルテにしてみれば、その程度の金はそこまで大したものではないのだが、普通の冒険者にしてみれば、一攫千金……とまではいかないが、一攫百金くらいの価値はあってもおかしくない。
もっとも、レイにしてみればリベルテというのは依頼主であると同時に、エレーナの父親でもある。
その上で自分に色々と便宜を図ってくれた人物でもあり、正直に言えば風魔鉱石の報酬に関しては、なければないでもよかったのだ。
それでもこうして律儀に……それも、レイが予想していたよりも多くの風魔鉱石を用意してくれたことは、レイに好感を抱かせる。
とはいえ、リベルテも善意だけでこのような真似をしている訳ではない。
娘の恋人云々というのを抜きにしても、異名持ちの冒険者との関係は友好的であるにこしたことはないのだから。
だからこそ、それなりの出費であると理解した上で、こうして風魔鉱石を用意したのだ。
「どうやら忘れていたみたいだが……約束は約束だ。きちんと貰ってくれ」
そう言われれば、レイとしても断ることは出来ない。
また、風魔鉱石の一件を忘れていたのは事実だったが、それを思い出せば当然のことながらこの風魔鉱石に魅力を感じるというのも事実だった。
炎帝の紅鎧とは違う、もう一つの奥の手……いや、炎帝の紅鎧の件が殆ど知られていないのを考えると、一般的にはそれこそレイの奥の手や切り札だろうと思われている、火災旋風。
風魔鉱石をそれに使えば、一体どうなるのか。
レイとしても試してみたい気持ちはあったが、幾ら木の樽に二つとはいえ、使えば当然減っていく。
そうである以上、無駄に消費する訳にはいかなかった。
(それでも、一度は実際に試してみて、どんな反応をするのかを確認する必要はあるだろうけど。時間があるのに、実戦でいきなり使うってのは、避けたいし)
風魔鉱石が具体的にどのような……そう、言わば追加効果とでも呼ぶべきものが発生するのか、確認したいと思うのは当然だった。
「ありがとうございます。では、これはありがたく貰います」
そう言い、座っていたソファから立ち上がり、床に置かれている二つの木の樽に手を伸ばす。
次の瞬間、まるでそこに木の樽があったのは夢か幻なのではないかと思うくらい、一瞬にして木の樽の姿は消えている。
それを見て、木の樽を持ってきた男達が唖然とした表情を浮かべる。
自分達がここまで苦労して持ってきた、風魔鉱石の入った木の樽が次の瞬間には消えてしまったのだ。
それで驚くなという方が無理だったのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます