第1846話
エレーナの声は、特に何か迫力があった訳ではない。
だが……それでも不思議な程に周囲にその声は響いた。
パーティー会場では多くの者がそれぞれ他の貴族と話をしていたり、もしくはメイドに何らかの料理や酒を持ってくるようにと言っていたりして、かなり騒がしい。
しかし、そんな騒がしい中でもエレーナのその声は間違いなく周囲に響いたのだ。
「な……何かしら?」
その声をすぐ近くで受け取ったリーリンだったが、それでもすぐに我に返って言葉を発することが出来たのは、エレーナのことを妬んでいるからだろう。
妬んでいる相手の言葉で、みっともない姿を見せたくないという、女のプライド。
そのプライドにより、リーリンはエレーナの言葉の迫力に押されつつ我知らず数歩後退りながらも、それ以上のみっともない姿を見せるようなことはなかった。
もっとも、だからといってそれでエレーナと正面からやり合えるのかと言われれば、それは否だ。
リーリンの言葉は微かに震えており、エレーナに向ける視線にも、本人は絶対に認めないだろうが恐怖が宿っている。
そんな視線を向けられたエレーナは、自分が声に力を込めていたことに気がつき、力を抜くように息を吐く。
そのエレーナの行動により、周囲に漂っていた圧力染みたものが消える。
「リーリン、お前が私を疎ましく思っているのは知っている。だが、それを理由にレイを中傷するような真似は、決して許さん」
「……何よ……」
エレーナの言葉に、リーリンが返すことが出来たのは、その一言だけ。
リーリンとしては、他に幾つも言いたいことはあったのだろう。
だが、エレーナを前にしては、実際にそれを言うことが出来なかった。
そんなリーリンを一瞥したエレーナは、不意にパーティー会場の中に音楽が響いたことに気がつく。
それは、ダンスを踊る為の音楽。
「レイ」
一言だけ呟いてレイに視線を向けるエレーナだったが、その視線で何を言いたいのか分かったレイは、リーリンに視線を向ける。
「いいのか?」
「構わん。レイが私と踊っているところを見れば、あのような馬鹿なことを言う者もいなくなるだろう。私はな、レイが馬鹿にされるのが許せんのだ。それとも……私とは踊りたくないか?」
少しだけ揺れた瞳を向けてくるエレーナ。
嫉妬から陰口を言われたし、嫌味を言ったりするような相手は、エレーナは今まで何度となく見てきた。
だから、リーリンの嫉妬も、自分に向けられているだけであれば、ここまで怒るようなことはなかっただろう。
だが、リーリンは自分の言葉がエレーナに効果がないと知ると、その標的をレイにした。
自分ならまだしも、想い人を相手にそのような真似をされて、姫将軍と呼ばれるエレーナが我慢出来る筈もない。
だからこそ、自分と踊っているところを見せて、レイがこのパーティーに参加するのに相応しい人物であると、そう見せつけたかった。
……もっとも、エレーナと特訓して十分に踊れるようになったレイだったが、実際のところはエレーナとだけしか踊れないのだが。
もっと時間を掛けて訓練すれば話は別だっただろうが、少なくても今のレイは完全にエレーナ専用のダンスパートナーといった感じだった。
そんなエレーナの視線に、当然のようにレイは頷きを返す。
「いや、勿論エレーナと踊るのは歓迎だ」
そう言い、エレーナに手を伸ばすレイ。
既にその視界の中に、リーリンの姿は入っていない。
「……うむ」
エレーナもまた、リーリンを完全に視界の外に追いやってレイの手を取る。
そうして二人は、会場に流れている音楽に合わせるように、踊る為に用意された会場の中央に向かう。
「え? おい……ちょっ……」
「嘘だろ? エレーナ様が踊りを? 相手は……誰だ?」
「ほら、あれだ。ケレベル公爵家の客人の深紅」
「いや、だが……冒険者風情が踊れるのか?」
周囲で踊らずに談笑していた貴族達は、踊り場の中央にやって来たエレーナとレイを見て、それぞれがエレーナとレイのことを噂しあう。
多くの者はレイがエレーナと踊るなど身分違いも甚だしい、それこそまともに踊ることすら出来ないだろうという思いを持っていたのだが……実際にエレーナとレイが踊り始めれば、自然とその言葉は消える。
「綺麗……まるで、二人とも天を舞っているのかのような軽やかさで踊っているわ」
どこかの貴族の娘なのだろう女が、二人の踊りを見て、呟く。
実際、レイとエレーナの踊りは、音楽に合わせて舞っているのは間違いなかったが、それだけではない。
他に踊っている者達とは、リズムやテンポといったものが違うのだ。
それでいて、周囲から悪目立ちするようなことはせず、しっかりと溶け込んでいる。
それどころか、周りで踊っている者達をいつの間にか引っ張り、レイとエレーナが踊りの中心になっていた。
「へぇ、さすがレイ。まさか、ここまで凄い踊りを見せてくれるとはな」
激しく踊っているレイとエレーナを見ながら、その男はワインの入ったグラスを掲げて、笑みを浮かべながら呟く。
ラニグス・ミューゼイ。国王派に所属するミューゼイ男爵家の次男だ。
エレーナは当然のこと、レイとも面識のある人物だ。……もっとも、ガイスカと一緒にレイとエレーナ、アーラのいる場所に行ったので、レイの印象は決して良いものではなかったのだが。
そんなラニグスは、国王派の貴族として貴族派の貴族と会話をしながら情報を集めていたのだが……そんな情報収集も一息つき、少し喉を潤そうとワインを飲んでいる時に、ダンスが始まったのだ。
良い酒の肴だと、ラニグスはワインを楽しみながらそんな二人の踊りを……そして、周囲で踊っていた者達が二人に引き込まれる様子を楽しんでいた。
「あら、面白い場所で会ったわね」
そんなラニグスの後ろから、声が掛けられる。
ワインの味を楽しみながら聞き覚えのある声のした方に視線を向けると、そこには美しく着飾った美人が一人。
ミュルズ伯爵家の次女、テレス・ミュルズ。
ラニグスも、当然のように顔見知りの相手だ。
「やあ、テレス。見てみろよ」
そう言いながらラニグスが持っていたワイングラスで踊っているレイとエレーナを示せば、テレスも当然のようにそちらに視線を向ける。
「リーリンがエレーナ様に絡んだらしいわよ。しかも、レイを侮辱したらしいわ」
「あー……なるほど。それでこの踊りな訳か。まぁ、何となく話の流れは理解出来たな」
若干だが呆れ混じりに呟いたのは、ラニグスもリーリンがどのような人物か知っていたからだろう。
社交界の華を気取っている人物。
いや、普通ならリーリンは間違いなく美人で、社交界の華を気取るのではなく、実際にそのように扱われてもおかしくはない。
だが……相手が輝くような、それこそ美の女神と評されてもおかしくはない美貌を持つエレーナとなれば、分が悪い。
エレーナの隣に立てば、美貌を誇った者であっても引き立て役にならざるを得ない。
リーリンの場合は生半可に整った美貌を持ち、小さい頃から皆にもてはやされてきただけに、エレーナの引き立て役になるのが我慢出来ないのだ。
だからこそ、エレーナに強い嫉妬の念を抱いてしまう。
とはいえ……リーリンがエレーナに挑むのは、トカゲが竜に挑むかの如きものだ。
とてもではないが、エレーナの相手にはならない。
それは美貌だけではなく、人間としての魅力という点でも明らかだった。
「エレーナ様の前でレイを侮辱するなんて……それこそ、身の程知らずと言われてもおかしくはないでしょうね」
呆れつつ、それでいながら笑みを浮かべるテレス。
もっとも、それはレイやエレーナと直接会ったことのあるテレスだからこそ言えることだ。
もし何も知らなければ、もしかしたらエレーナの前でレイを侮辱するような発言をしていた可能性も否定は出来ない。
とはいえ、少しでも情報を集めていればレイとエレーナの関係が良好なことは誰にでも分かりそうなものだったが。
リーリンにとって迂闊だったのは、その辺りの情報を集めるようなことをしなかったことだろう。
いや、正確にはエレーナがレイという冒険者と一緒に里帰り――という表現は相応しくないのかもしれないが――をしたというのは、リーリンも知っていた。
それでもレイを侮辱するようなことを口にしたのは、まさかエレーナがあそこまでレイに対して深い想いを抱いているとは分からなかったからだろう。
(馬鹿な娘)
テレスはリーリンを内心で馬鹿にするようなことを思いつつ、それでもそこに軽蔑の意図は殆どない。
リーリンは、本来なら間違いなく社交界の華となれる人物なのだが、そこにエレーナという人物がいた。
その不運を思えば、テレスがリーリンに対して抱くのは、哀れみの感情の方が強い。
周囲の者達を惹きつける踊りを披露しているレイとエレーナから視線を逸らし、リーリンの方に視線を向ける。
テレスの視線の先では、リーリンの周囲に何人もの取り巻きの女達が集まっている光景を目にすることが出来る。
それは、リーリンが社交界の華を気取っているのが決して独り善がりなものではなく、きちんと他の者にも好かれているということを意味している。
……もっとも、それはあくまでも十代から二十代といった若い世代での話であって、もっと年上……具体的には貴族の妻といった者達で集まっているような集団は、別にあるのだが。
ともあれ、リーリンやその取り巻きを眺めながら……テレスは、これからのパーティーで少しでもすごしやすくなるよう、期待するのだった。
レイとエレーナの踊りを見て感心していたのは、エレーナの両親たるリベルテとアルカディアの二人も同様だった。
自分の娘がパーティーで踊っているのを見るのは、別にこれが初めてという訳ではない。
だが、それでもここまで嬉しそうに踊っている光景を見るのは、リベルテにとっても初めてだった。
「エレーナがここまで楽しそうに踊るとは、な」
「そうね。でも、それは相手がレイだからよ?」
我知らずに出たリベルテの呟きに、アルカディアがそう返す。
アルカディアのその言葉を、リベルテも若干不承不承ながら認めない訳にはいかない。
レイとの関係は認めているのだが、それでもやはり可愛い娘が恋人を家に連れてくるというのは、父親として色々と思うところがあった。
「それにしても……」
このまま話が続けば、自分にとって不利になると考えたのだろう。リベルテは改めて周囲を見回した後で、口を開く。
「エレーナとレイの踊りは素晴らしい。それは認める。だが……あの二人の踊りが終わった後で、踊れるような度胸のある者がいると思うか?」
「それは、ちょっと難しいわね」
アルカディアは、そう言って口元を持っていた扇で隠す。
あれだけ見事な、それこそリベルテやアルカディアといった者達の目から見ても素晴らしい踊りが披露されているのだ。
これが終わったすぐ後で踊ってみようなどという命知らずは、そうそういない筈だった。
「最悪、私とお前が踊る……か?」
本来であれば、リベルテは踊りはそこまで得意ではない。
貴族の嗜みとして平均以上の技術は持っているが、それでも今のエレーナやレイのように人の目を惹きつけるかのような、それ程の踊りは無理だ。
だが、だからこそエレーナの両親である自分とアルカディアが踊ることにより、場を盛り下げないことが必要となる。
そういう意味では、リベルテとアルカディアの踊りはちょうど良いのは間違いなかった。
「そうね。私は久しぶりに貴方と一緒に踊りたいと思っているわよ?」
アルカディアの、艶のある光を宿した視線がリベルテに向けられる。
ここのところ、夜に頑張っている影響もあって、その艶はリベルテが知っている視線よりも一段と強い艶を持っていた。
そんな視線を向けられたリベルテは、一瞬言葉に詰まり……それを誤魔化すように、手に持っていたワインのグラスを口に運ぶ。
そのようなことをしている間に、やがて踊りはクライマックスを迎え……その踊り場の中央で、レイとエレーナはそれぞれお互いをしっかりとフォローし、それでいて相手を引っ張るようにして踊りを続けていく。
やがて、その踊りが最高潮になったところでレイがエレーナの手を引いて自分の懐に呼びよせ、抱きしめ……そこで、音楽が終わる。
パーティー会場の中が一瞬沈黙するが、不意に拍手の音がそれを破る。
誰がその拍手をしているのかといった視線を、多くの貴族達が向け……その視線の先にいたのがリベルテとアルカディアだと知ると、やがて他の者達も拍手を行う。
それを見届けたリベルテは、そっと自分の隣で拍手をしていたアルカディアに手を差し出す。
「踊っていただけるかな?」
「ええ。勿論」
アルカディアは満面の笑みを浮かべ、そっと夫の伸ばしてきた手に自分の手を重ねるのだった。
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