第1847話

 体力には自信のあるレイだったが、それでもやはりモンスターと戦うのと、こうして人前で踊るといった真似をするのでは、どうしても勝手が違った。

 本来なら、レイにとってそこまでの運動量ではなかった筈だが、やはり大勢から見られながら踊るというのはレイにとっても疲れることだったのだろう。


「ふぅ」


 メイドが……ミランダではなく、パーティーの給仕として働いていたメイドが用意してくれた果実水を一気に飲み、ようやくレイの口から安堵の息が吐かれた。

 そうしてメイドにもう一杯果実水を希望しているレイを見て、エレーナは笑みを浮かべながら口を開く。


「ふふっ、思ったよりも疲れたようだな」

「そうだな。予想していたよりもちょっと……いや、かなり疲れた。エレーナと二人だけで踊っている時は、そこまで疲れを感じたりはしなかったんだけどな」

「周囲で見ている者が多かった為だろう」


 こちらもまたメイドから果実水を受け取りつつ告げるエレーナに、レイは周囲に視線を向け、納得の表情を浮かべた。

 リベルテとアルカディアが踊っている光景に視線を向けている者も多いが、レイとエレーナに視線を向けている者も多い。

 そんな者達は、何故かレイと視線が合うとそっと視線を逸らす。


(いや、別に俺も誰彼構わずに噛みついたりはしないぞ? ……あ、そう言えば)


 噛みつくという言葉で、レイはリーリンのことを思い出し、その姿を探す。

 エレーナに絡んでいた様子を見る限りでは、もしかしたらまだパーティー会場にいるのではないか。

 そう思ったのだが、その姿は既に会場にない。

 エレーナの様子も、先程までのリーリンとのやり取りで苛立っていた色は既にない。

 その苛立ちも、レイと踊ったことで大分解消されたのだろう。


「レイ? どうした?」

「いや、何でもない」


 エレーナの問いに、レイはそう言って話を誤魔化す。

 迂闊にここで何かを言った場合、今は忘れているリーリンのことを思い出してしまう可能性があった為だ。


「そうか? ……それにしても、父上も母上も楽しそうに踊っているな。そうは思わないか?」

「俺から見れば、特にそこまで言うような程ではないと思うけどな」


 レイの言葉に、エレーナは分からないのか? といった視線を向けてくる。

 だが、レイの目から見れば普通に、そして優雅に踊っているようには見えるが、それでも特に楽しそうには見えなかった。

 リベルテとの付き合いはそこまで長いものではないので、エレーナがそう言うのであればそうなのだろうとレイは納得するしか出来ないのだが。


「おいおい、レイ。お前どれだけ踊りの練習をしたんだ?」


 レイとエレーナの会話に割り込んできたのは、ブルーイット。

 まさか、レイがあれだけ踊れるとは思っていなかったのだろう。

 心底面白いといった風に笑みを浮かべ、手にしたワインを口に運び……若干残念そうにする。


「どうした? そのワインはそこまで味が悪い訳ではないと思うが」


 ブルーイットの様子を見て、即座にエレーナが尋ねる。

 エレーナにしてみれば、このパーティーはケレベル公爵家が開催しているものである以上、手抜かりがあってはいけないという思いがある。

 だからこそ、ブルーイットの様子に尋ねたのだが……そんなエレーナに対し、ブルーイットは何でもないと首を横に振る。


「ああ、ワインの味に問題はない。ただ、俺はこういう高級なワインとかは、飲めないことはないが、そこまで好きじゃないんだよな。街中の酒場で出されているエールとか、そういうのの方が好みなんだよ」


 一人で街中に出ることの多いブルーイットとしては、貴族や金持ちが飲むようなワインではなく、庶民が普通に飲めるエールの方が好みだった。……ブルーイットも、歴とした貴族なのだが。

 だからこそ、こういう場所ではあまり好みの酒を飲むことが出来ず、今もまたワインの味に満足出来なかったのだ。

 それでいながら、飲んでいるワインの質が良いものであるというのはしっかりと分かる辺り、鋭い味覚を持ってはいるのだが。


「そうか。……もし良ければ、エールの類でも持ってこさせるが?」

「いや、別にいいよ。こういう場でエールを飲んだりするのは、ちょっとな。……それより、だ。さっきも言ったが、レイはなんであんなに踊れるんだ? 見ろよ、今も他の連中がレイに視線を向けてるぜ?」


 エレーナに気にしないように言いながら、ブルーイットは周囲を見回す。

 それにつられるようにレイが視線を向けると、何人もの貴族がレイと視線を合わせると、慌てて視線を逸らしたり、笑みを浮かべて小さく頭を下げたり、中には薄らと頬を赤く染めている女の姿もある。

 エレーナと踊っただけではあったが、その踊りはこのパーティーに参加している貴族の幾らかに認めさせるには、十分な踊りだった。

 あくまでもレイを認めたのは一部の貴族だけで、中には当然のように未だにレイを敵視している貴族も多い。

 だが、それでも今のレイに絡もうなどと考える貴族はいなかった。

 正確にはそれでもレイに絡もうと考えた貴族はいたのだが、周囲にいる貴族達に止められた、というのが正しい。

 何人かの貴族がレイに好意的になっている中、レイに絡むような真似をすれば、間違いなくその貴族は社交界の中で軽蔑の視線を向けられてしまうだろう。

 貴族というのは、評判が全て……という訳ではないが、その影響は大きい。

 であれば、普通ならそのような評判の悪くなるような行動を取ろうと思う者はいない。


「……ほう。随分と気に入られたようだな。あの女性は、ムール子爵の妹だったか。可愛らしいと有名な女性だったが……レイも隅にはおけないな」


 レイを見て頬を赤く染めている女を見て、エレーナはそう言って笑う。……笑うのだが、エレーナの眼は決して笑っていなかった。

 笑っているのに笑っていない。

 そんな視線を向けられたレイは、あー……といった風に何と言っていいのか迷う。

 エレーナが何を気にしているのかは知っているが、それをここで自分から口に出していいものかと。


(そもそも、エレーナは一夫多妻制に寛容だったと思うんだけど……これは、そういうのとはまた違うのか?)


 もしくは、相手がマリーナやヴィヘラのような人物だったからか。

 ともあれ、レイは面白そうな視線を向けてくるブルーイットにジト目を向けつつ、口を開く。


「取りあえず心配する必要はない……とだけ言っておく」

「…………ほう」


 数秒前と同じ一言だったが、その一言が出るまでの時間は確実に増していた。

 エレーナはレイの言葉に何を思ったのか、ムール子爵の妹と呼んだ女よりも頬を赤くし、それ以上は何も言わない。


「くっくっく。いや、全くお前達は面白いな」


 そんなレイとエレーナを見比べながら、ブルーイットは笑いを堪えきれないといった様子でそう告げた。

 その言葉の中にどこかからかうような色があるのは、ブルーイットらしいと言えるだろうが。


「で、だ。……これからどうするんだ? もう一回くらい、踊ってみるか?」

「さっきの踊りでかなり疲れたしな。出来れば、今日はもう踊りたくない。……エレーナにも言ったけど、まさか注目されながら踊るのがこれだけ疲れるとは思っていなかったよ」

「だろうな。それは俺も経験がある」

「……ブルーイットが? それこそ、ブルーイットには踊りが似合いそうもないように見えるんだけどな」

「あのな、レイはすっかり忘れているみたいだが、俺は一応伯爵家の次期当主なんだ。そのくらいのことは普通に出来るんだよ。……誰かさんと違ってな」


 その誰かさんというのが誰を示しているのかは明らかで、レイに若干意地の悪い笑みを見せながらブルーイットは告げる。

 そんなブルーイットの態度が面白くなかったのだろう。レイは、ブルーイットの顔を見ながら笑みを浮かべ、口を開く。


「踊りを踊れるというのと、誰かと一緒に踊るというのはまた別の話だよな。……さて、ブルーイットには一緒に踊ってくれるような相手がいるのか?」

「ぐぬっ、こ、この……」


 ブルーイットも、自分の身体が大きいというのは理解している。

 街中で喧嘩をするには、その巨体もこれ以上ない程に役立つのだが、このようなパーティーの場で踊りをするには、向いていないのも、また理解していた。

 貴族の女の中には、ブルーイットの身体の大きさを見ただけで悲鳴を上げるような者すらいるのだから。

 そのようなブルーイットと踊りたいと思う者は、誰もいない……という訳ではないが、そこまで多くないのも、事実だった。


「ふふっ」


 そんなレイとブルーイットのやり取りを見ていたエレーナの口から、不意に笑みが漏れる。

 我慢しようとしたものの、我慢しきれなかったような、そんな笑みが。

 突然の笑みにレイとブルーイットの両方から視線を向けられ、エレーナは笑いながら謝る。


「す、すまん。レイとブルーイットの会話が面白くてな。つい……」

「そんなに面白かったか? 別にそこまでではないと思うんだけどな」

「いや、お前達は随分と息が合ってるぞ。それこそ、昔からの親友同士みたいにな」

『うげ』


 エレーナの口から出た言葉に、レイとブルーイットの二人は揃って嫌そうな声を上げる。

 それがまた息が合っており、再びエレーナの笑いのツボを刺激した。

 普段であれば、エレーナもここまで大きく笑ったりといった真似はしなかっただろう。

 今そうなっているのは、やはりここがパーティーの場で、レイと思う存分踊って気分が高揚している為なのは間違いなかった。


「あー……取りあえずだ。向こうの方を見た方がいいんじゃないか?」


 これ以上この件で何かを言ってもエレーナの話題がより酷くなるだけだと判断したブルーイットは、満面の笑みを浮かべて自分達の方を見ている一人の老婆に気がつき、そちらを見るように示す。

 その老婆は、当然ながらレイにも、そしてエレーナにも覚えのある人物だった。


「レムリア、戻ってきてたのか」


 そんなレイの呟きが聞こえた訳ではないだろうが、レムリアは笑みを浮かべつつレイ達の方に近づいてくる。

 非常に上機嫌そうに見えるのは、セトの新鮮な羽根を自分の領地に送ることに成功したからだろう。

 そうレイは思っていたのだが……


「ふぉふぉふぉ。随分と派手なことをしたようじゃなぞい?」


 人の良い笑みを浮かべながらそう告げてくるレムリアは、周囲で様子を窺っている貴族達を見て、どこか清々した表情を浮かべていた。

 レイが先程レムリアと一緒にパーティー会場を出たことを知ってる者はともかく、この広いパーティー会場ではそれを知らない者も多い。

 それだけに、レイとレムリアがどのような関係なのだ? と疑問に思っている者も決して少なくはない。

 知り合いからその辺りの情報を聞かされ、驚くような者もいれば、レイが異名持ちの冒険者だということもあって納得する者も多い。

 より一層増えた周囲からの視線に、若干うんざりとしたものを感じつつもレイはレムリアに声を掛ける。


「随分と早かったな」


 ざわり、と。

 そんなレイの言葉が聞こえた者達の多くは、レイの言葉遣いに驚く。

 冒険者であるというのは知っているが、それでも公爵家の当主ともあろう人物にそのような言葉遣いをするとは、と。

 レムリアは今でこそ穏やかな性格で知られているが、十数年前までは激しい気性の持ち主として有名だった。

 それこそ、自分に無礼を働いた者に対しては、苛烈な仕置きをすることも珍しくない程に。

 それだけに、こうしてレイのような言葉遣いをしたのであれば……と、そう思った者も少なくなかった。

 レイを気にくわない者の中には、レムリアの手で酷い目にでも遭ってしまえばいいと思う者すらいたのだが……そのような者達の希望は、一切通ることはなかった。


「うむ。速度に優れたモンスターを召喚することが出来るからこそ、あの者を雇っているのだぞい」


 満足そうに告げるレムリアの様子は、とてもではないがレイの言葉遣いに気分を害してるようには見えない。

 一体何があったのかと、そのように思った者が多いのは当然だろう。

 だが、レムリアはそんな周囲の視線を全く気にした様子もなく、言葉を続ける。


「それで、依頼の件の報酬を支払いたいのじゃが、どうするぞい?」

「それは、いつ暇かってことか?」

「そうじゃぞい。お主が暇な時ならいつでも……とそう言いたいところなのじゃが、生憎と儂もいつまでもここにいる訳にはいかないのじゃぞい。だから、出来れば明日くらいにはきて欲しいぞい」

「分かった。確実にとは約束出来ないけど、可能な限りはそうさせて貰う」


 レイの言葉に、レムリアは満足そうな笑みを浮かべるのだった。

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