第1837話

 目の前に現れた人物を見た瞬間、レイは無意識に息を止めてしまった。

 それだけ、目の前に広がっている光景は凄かったのだ。

 言葉だけで言えば、エレーナがパーティードレスを着ているというだけにすぎない。

 普通であれば、パーティードレスというのは滅多に見る機会もないので、パーティードレスを見たということに意識が向けられてもおかしくはない。

 だが、幸い――もしくは不幸なことに――レイは普段からパーティードレスを着ているマリーナという存在を知っている。

 それも普通のパーティードレスではなく、胸元や背中が大きく開いた、華やかでありながら非常に艶っぽいパーティードレスを。

 ただでさえ、女の艶という点では他を隔絶しているマリーナがそのようなパーティードレスを着ているのだから、当然のように周囲の男達はそちらに目を奪われることも多い。

 そしてマリーナとパーティーを組んでいるレイとしては、当然のようにそのようなマリーナと接することが多かった。

 だが……そんなレイにとっても、目の前にいるエレーナのパーティードレス姿には目を奪われてしまう。


「その……どうだ? いつもとは違う格好だから、少し照れるな」


 そう言いつつ、エレーナは黄金の如き髪を軽く掻き上げる。

 そんなエレーナを見つつ、レイが出来たのは……一言だけ口を開くだけだった。


「ああ、似合ってる」


 褒め言葉としてはありきたりのもので、とてもではないがエレーナに対する褒め言葉としては足りない。

 だが、それでも……エレーナにしてみれば、自分が一番褒めて欲しい相手から褒めて貰えたのだから、それが嬉しくない筈がない。


「そうか。……そうか」


 しみじみとした口調で呟くエレーナは、それからふとレイの方を見て口を開く。


「その、レイの服装も似合っているぞ。急いで作ったとは、到底思えないくらいだ」

「……そんなものか? 個人的には、あまりこういう服装は好きじゃないけどな」


 エレーナにしてみれば、レイの姿を見る限りでは何故こうまで今の自分の服装を嫌っているのかは分からない。

 とはいえ、今日のパーティーに参加する必要がある以上、その服装には我慢して貰う必要があった。


「すまないが、今日はその服で我慢してくれ」

「ああ、分かっている。取りあえず、エレーナの隣にいて馬鹿にされないような服装は必要だしな」

「……うむ」


 レイの口から唐突に出てきたその言葉に、エレーナの頬が薄らと赤くなる。

 エレーナにしてみれば、自分の隣にいたいと言われたのだ。

 分かってはいる。分かってはいるのだが……それでも、照れるなという方が無理だった。

 姫将軍という異名を持ち、周辺諸国から恐れられていても、エレーナが乙女なのは変わりないのだから。


「エレーナ様、エレーナ様。しっかりして下さい!」


 乙女モードとでも呼ぶべきものになってしまっているエレーナを、近くで控えていたアーラは何とか我に返そうとする。

 もっとも、そんなエレーナの側にいるアーラもまた、いつもとは違ってパーティードレスに身を包んでいる。

 普段はエレーナの護衛という立場に立つことも多いアーラだが、そのアーラも実際には貴族の出だ。

 当然のようにレイとは違ってパーティードレスの類も着慣れており、見る者が見れば、間違いなく目を奪われてもおかしくはない。

 ……現在はエレーナの側にいるので、どうしても人の目はアーラではなくエレーナに向けられるのだが。

 ただ、アーラはその件でエレーナを恨んだりといった真似はしない。

 寧ろ、そんなエレーナの側にいることを喜んですらいた。


「うん? ああ、すまない。大丈夫だ」


 アーラの声で我に返ったエレーナは、すぐにそう言葉を返す。


「それで、レイ。パーティーの準備はもう大丈夫なのか?」

「いや、俺は別に何かやるようなことはなかったしな」


 正確には注意すべき貴族についてミランダから教えて貰ってはいたのだが、エレーナのようにケレベル公爵家の者達よりは圧倒的にやるべきことは少なかった。


「そうか? 私の方は色々と忙しかったよ。会いに来る者は多いし、何よりもこの着替えに時間がな」


 少しだけ疲れた様子を見せるエレーナだったが、実際にその化粧や髪型、パーティードレスの着付け……様々なことに時間が掛かる。

 レイの場合は軽く化粧の類はしたが、それはあくまでもパーティー会場の明かりが映えるようにというものであって、そこまでしっかりとしたものではない。

 そんなレイに対して、エレーナの方はしっかりと化粧を施されている。

 ……それでもエレーナは化粧をされているのではなく、化粧をしている。言い換えれば、化粧に使われているのではなく、化粧を使いこなしている。そんな印象をレイは受けた。

 事実、エレーナの美貌はパーティードレスを着ている以外にも、間違いなく化粧によって一段と上のものになっていた。

 普段から美の女神と呼ばれることも多かったエレーナだが、今はそれ以上の美貌を持つのだ。

 そんなエレーナを見ることが出来たレイは、間違いなく自分は幸運だったという思いがある。

 自分が化粧をするのは嫌だが、人が……特にエレーナが化粧をしているところを見るのが嬉しいのは、間違いない。


「俺は今のエレーナを見ることが出来て、嬉しいけどな」

「……」


 レイの言葉に、再度エレーナの動きが止まる。

 だが、今度はアーラが何かを言うよりも前に我に返った。


「そ、そうか。レイに喜んで貰えて、私も嬉しい。……出来れば、もう少し話していたいところだが……」


 エレーナの視線がアーラに向けられるが、その視線を向けられたアーラは首を横に振る。


「残念ですが、エレーナ様にはまだこれから色々とやるべきことあります。休憩時間は、もうあまり残っていませんね」

「だ、そうだ」

「あー……まぁ、それはしょうがない。こうして話している時点で、そっちが結構無理をして時間を作ってるのは分かるし」


 そう言いながらも、レイは若干残念そうな表情を浮かべる。

 パーティーが本格的に始まるまでは、まだ数時間ある為だ。

 もしこれでレイがいつものドラゴンローブを着るという普通の格好をしているのであれば、レイもここまで暇を持て余すことはなかっただろう。

 それこそ、ちょっと屋敷の外に遊びに出掛けるといった真似が出来るのだから。

 だが、化粧をし、そしてパーティーの為にオーダーメイドで作ったスーツを着ている今の状況では、まさかそのような真似が出来る筈もない。

 この状況でセトに会いに行ったり……などといった真似をすれば、それこそパーティーに参加するのは無理なくらいに服が汚れる可能性が高かった。

 ケレベル公爵騎士団との模擬戦などは、以ての外だろう。……もっとも、一年で最も忙しい日と言われる今日は、当然のようにケレベル公爵騎士団も警備や護衛といった仕事で忙しく、もしレイが普段通りのドラゴンローブの姿であっても、模擬戦をやることが出来るような者はいなかっただろうが。

 ともあれ、これからも忙しいというエレーナと別れ、今度はパーティーが始まる前に来るという約束をして、部屋を出る。

 なお、パーティーの前にレイが再度この部屋を訪れるのは、今回のように暇潰しという訳ではなく、エレーナのいわゆるエスコート役をレイが勤めるからだ。

 これは別にエレーナの独断ではなく、リベルテやアルカディアからもきちんと許可を貰ってのことだ。

 レイがエレーナをエスコートすることにより、レイとエレーナが具体的にどのような関係なのかを他の貴族達に知らしめるというのが、リベルテの目的なのだろう。

 レイとしてはそのような見世物になるのはあまり好まないのだが、エレーナが他の男に言い寄られることがなくなる……とまではいかないが、それでも大分少なくなると言われれば、それを引き受けざるを得ない。

 ましてや、見世物という点では模擬戦の一件やセトの件で、レイは慣れてしまっている。

 そういう意味では、レイはエレーナのエスコートという役目を引き受けない理由がなかった。


「さて、そうなると何をして時間を潰すかだな。……何かないか?」


 部屋を出てレイが尋ねたのは、ミランダ。

 部屋の前でレイを待っていたミランダは、少し考えてから口を開く。


「そうですね。この屋敷には図書館もありますし、そこに行ってみては? 蔵書もかなりの数がありますから、レイさんも退屈はしないと思いますよ。服を汚すという心配もありませんし」

「図書館が屋敷にあるのか。……それは凄いな」


 実際、このエルジィンという世界においての本の値段を考えると、屋敷に図書館が併設されているというのはかなりの贅沢だ。

 公爵という爵位で、アネシスという王国第二の都市を有するケレベル公爵家だからこそ、出来ることだろう。

 少なくても、ギルムにあるダスカーの屋敷には書斎と呼ぶべき場所はあっても、図書館と呼ぶ程の規模ではなかった。


「ええ。旦那様も積極的に本を収集しているので、王都にあるという図書館には劣るでしょうが、それでも見応えはある筈ですよ」

「そうだな、なら……」


 図書館に行こう。

 そうレイが言おうとした時、不意に声が掛けられる。


「おう、レイじゃねえか。いないと思ったら、こんな場所にいたのかよ」


 その声の持ち主は、貴族と呼ぶにはちょっと無理があるような言葉遣いではあったが……間違いなく貴族で、レイの顔見知りでもあった。


「ブルーイット」


 男の名前を、レイが呼ぶ……が、その声には微妙に目の前の人物がブルーイットであるのかといった疑問が混ざっていた。

 ブルーイット・エグゾリス。

 エグゾリス伯爵家の次期当主で、レイとも気が合うという希有な性格の持ち主だ。

 ……そもそも、護衛の一人も付けずに街中を歩き回るという時点で、貴族としてはどうなのかといった具合なのだが。

 そんな人物を、レイが本当にブルーイットなのかどうかと一瞬ではあっても迷ったのは、明らかに以前会った時とブルーイットの姿が違っていたからだ。

 レイが見た時は一般人、もしくは一般人よりも若干上等な服を着ていたが、それでも貴族が着るような服ではなかった。

 そんな服を着ている人物をブルーイットだと認識していたのだが、現在レイの前に現れたブルーイットは、その巨体をこれから行われるパーティーに相応しい服装にし、髪もきちんと整えられている。

 明らかにレイが知っているブルーイットとは違っていたのだから、それを見て即座にブルーイットと認識しろという方が無理だろう。

 もっとも、それを言うのであればレイもまた同様に、いつもと違う服装や髪型をしているのだが。


「ん? どうした、不思議そうな顔をして。まさか、俺のことを忘れたって訳じゃないだろうな? いや、名前を呼んでたんだから、それはないか」


 レイの訝しげな表情から、若干の疑問を抱いたのだろう。ブルーイットはレイに尋ねてくるが、自分の名前を呼んだということで、すぐに自分を忘れていた訳ではないと判断する。

 そんなブルーイットに、レイはすぐに驚きを消して、若干呆れの籠もった視線を向けた。


「今のお前と、街中で会ったブルーイットが同一人物だと思えるような奴は……多分、そう多くはないと思うぞ。少なくても、俺は一瞬分からなかった」

「おいおい、外見が変わってるってことなら、それこそレイだって同じようなものだろ? なのに、なんで俺だけそんな風に言われなきゃならないんだよ?」


 不満を口にしてはいるが、ブルーイットの表情には面白がる色の方が強い。

 レイを責めているという訳ではないのは明らかだった。

 レイも、それを分かっているからだろう。笑みを浮かべて言葉を続ける。


「俺はこういう場所は殆ど経験がないからいいんだよ」

「それでも、俺が誰なのかくらいは理解して欲しかったけどな」

「無茶を言うな、無茶を。……それで?」


 それで? と返したのは、ブルーイットが姿を現した時に、こんな場所にいたのかと自分を探しているような言葉を口にしていた為だ。

 もしかしたら、自分に何か用事があって探していたのではないのか、と。


「ん? ああ、いや。特に何か用事があった訳じゃねえけどな。ただ、この場所ではちょっと退屈だったから顔見知りを探してたんだよ。で、レイもこのパーティーに参加するって噂を聞いたから、多分いるんだろうなと思って」

「……わざわざ俺を探さなくても、ブルーイットなら貴族の顔見知りがいるんじゃないのか?」


 そう尋ねるレイの言葉に、ブルーイットはそっと視線を逸らす。

 元々自分が貴族としては常識外の存在だというのは、当然のように知っている。

 だからこそ、そんな自分と好んで付き合うような相手は多くなく……結果として、ブルーイットに近寄ってくるのは利権目当ての連中ばかりだった為だ。

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