第1836話

「くそっ!」


 そんな罵声が周囲に響き、次の瞬間にはグラスの破壊される音が周囲に響く。

 だが、その声を発した男……ガイスカは、その程度では全く気が晴れる様子もない。

 何故なら、自分が現在置かれている立場は、それ程に悪いのだから。

 それは、ガイスカが黒狼を雇う為に用意した金。

 それこそ様々な場所から金を用意し、それでもどうしようもなかったこともあって、アネシスにあるセイソール侯爵家の屋敷を担保にして、金を用意したのだが……


「何故だ、何故この件が父上に知られている? まさか、誰かが裏切ったのか? いや、そもそもこの件を知っている者は多くはないし、デオトレスが俺を裏切るということは有り得ない!」


 そんなガイスカの叫び声が、部屋の中に響く。

 ……そう、ガイスカにとっては絶対に隠し通さなければならなかった、屋敷を勝手に担保にして金を借りたことが、何故か父親に知られていたのだ。

 どのようにして父親がその件を知ったのかは定かではないが、当然ガイスカがそのようなことをしたと知れば、そのままという訳にもいかない。

 特にこの屋敷は、アネシスという貴族派を率いている人物の治める都市に用意した屋敷であり、下手に人手に渡るようなことになってしまえば、セイソール侯爵家の面子が泥にまみれてしまう。

 それが分かっているからこそ、ガイスカは他人に知られないようにしていたのだが……結局待っていたのは、謹慎という結果のみ。

 それも、今この状況だからこその謹慎であって、貴族派の貴族の大部分が参加するパーティーが終わってしまえば、セイソール侯爵家の当主たる人物はガイスカを間違いなく処分するだろう。

 具体的にその処分が、謹慎されたままなのか、セイソール侯爵家から放逐されるのか、はたまた最悪の結末として殺されてしまうのか。

 どうなるのかはガイスカにも分からなかったが、それでもどう転んでも自分にとって都合の良い結果になるとは思えない。


「どうする、どうすればいい……?」


 いつもであれば、自分が迷っていればデオトレスが助言してくれるのだが、この場にデオトレスの姿はない。

 つまり、全てを自分で決める必要があるのだ。


「くそっ、どうすれば……そもそも、こうなったのは全てレイのせいだ。レイの奴が貴族に対する敬意を持っていれば、このようなことにはならなかったんだ。畜生……畜生!」


 再びグラスを投げつけようとするも、先程自分がグラスを投げつけてしまった以上、誰もそれを片付けたり、ガイスカの前に新しいグラスを置いていないのだから、投げつけようにもそこには何もない。

 もしここに使用人がいれば、八つ当たりも出来たのだろうが……当然のように、今のガイスカに近づこうと考える者はいない。

 ガイスカがどのような性格をしているのか、それを分かっているだけに、そう簡単に近づいたりといった真似はしないのだ。

 ましてや、ガイスカの父親が来た今となっては、この屋敷でもっとも偉いのはガイスカではなくなってしまった。

 そんな父親がいる時に――今はパーティーに参加する為に、この屋敷にはいないが――使用人達に今までのように殴る蹴るといった暴行を加えれば、それは致命的な事になってしまう。


「どうする……どうすれば……」


 セトを襲撃したカセレス伯爵と同じようなことを口にするガイスカだったが、カセレス伯爵と同様に助けは来ない。……代わりに来たのは……

 部屋の扉をノックする音が聞こえ、ガイスカは一瞬何があったのかといった様子で扉の方に視線を向ける。

 謹慎している今の自分に会いに来るような相手がいるとは思えず、ガイスカは一瞬そのノックの音を気のせいなのではないかとすら思った。

 だが……そのまま数秒、再び扉からはノックの音が聞こえてくる。

 明らかにそこから聞こえてくるのはノックの音で、決してガイスカの気のせいではない。

 今、この状況で誰が自分に会いに来るのか。

 そのことを疑問に思いつつ、それでも今の状況より悪くなることはないだろうと判断して、ガイスカは立ち上がる。

 一瞬足がふらついたが、それは酔いであると自分に言い聞かせるようにしながら、扉の前まで移動した。

 そうして扉を開くと、そこにあった顔を見てガイスカは唖然とした表情で口を開く。


「貴様のような者が、何故ここにいる?」

「へへっ、そう言わないで下さいよ。あっしも、ガイスカ様が大変な目に遭ってるって話を聞いて、急いで駆けつけたんですから」


 そう言って笑うのは、黒狼との仲介役としてガイスカが接触した人物だった。

 そんな笑みを浮かべている男を見ても、正直なところ何故この場にいるのかといった理由が全く分からないガイスカは、男を警戒する。

 当然だろう。仲介役の男がガイスカに協力していたのは、あくまでも黒狼に支払う報酬があってのことだ。

 前払いとして幾らかは渡してあるが、黒狼がレイを殺した後で成功報酬として支払うべき金額を捻出するのは非常に難しい。

 そんな自分に何らかの要件があってきたというのであれば、それは間違いなく契約不履行についての件だろう。

 普段であれば、このような男との契約など知ったことではないと言うのだが、今の状況でそのような真似は出来ない。

 ガイスカも、ある程度身体を鍛えているとはいえ、それはあくまでもある程度だ。

 仲介役の男は、裏社会の者だけあって間違いなく荒事には慣れている筈だった。

 そうである以上、もし目の前の男に襲われでもしたら、ガイスカにはどうしようもない。

 普段であれば、こういう時にデオトレスがいるのだが……そのデオトレスも、今はガイスカの側にはいない。

 ガイスカ本人は到底認めたくないことだろうが、思わずといった様子で数歩後退ってしまったのは、仲介役の男に恐怖を覚えたからだろう。

 仲介役の男はそんなガイスカを見て、表情には出さないようにしながら、ガイスカに侮蔑の視線を送る。

 今までは散々自分を見下してきた男が、こうして自分の前で恐怖心を押し殺そうとしているのは、仲介役の男から見ても馬鹿らしいものがあった。


「俺の為にやって来たというのか? そもそも、現在この屋敷は父上が実質的に支配している。そんな場所に、よく入って来ることが出来たな」

「普段が普段ですから、色々と伝手や方法ってのはあるんですよ」


 仲介役の男の言葉は、本来なら到底聞き逃す訳にはいかないものだった。

 実際にこうして自分の部屋に……屋敷の中でも奥まった場所にあるこの部屋に顔を出しているのだ。

 普通に考えれば、何かあった時には暗殺される可能性は非常に高い。

 だが、ガイスカはそんなことに気がつかないのか、それとも単純にその危険性に気がついていないのか、特に気にした様子もなかった。


「そうか。それで、俺に何の用だ? ここに来た以上、現在俺がどんな状況にあるのかは分かっているのだろう?」

「ええ。あっしらとの件が父上に知られてしまい、謹慎だと。……けど、それでいいんですかい?」

「何?」


 仲介役の男の言葉に、ガイスカは不思議そうな表情を浮かべる。

 何を言いたいのかは分からない。分からないが……それでも何か不穏な雰囲気を感じ取ったのだろう。


「ガイスカ様は、若干軽率だったかもしれません。ですが、それはセイソール侯爵家の利益になると、そう判断したからこその行動なのでしょう? であれば、それは褒められこそすれ、叱られるような……それも使用人達の前で叱り、謹慎を命じるようなことはありません。それこそ、本来であれば褒められて、よくやったと言われてもいい筈です」

「それは……」


 普通に考えれば、仲介役の男が言っている内容は滅茶苦茶だろう。

 そもそも、屋敷を……それもアネシスという重要な都市にある屋敷を担保に金を借りるような真似をするというのは、到底許されることではないのだから。

 だが、今の追い詰められているガイスカにとって、仲介役の男の言葉は甘い毒のようなものだった。

 そうと知っていても、どうしてもそこに手を伸ばしたくなるような、そんな魅惑的な果実の如く。


「そうだ。お前の言う通りだ。俺は、間違いなくセイソール侯爵家の為を思って行動に移した。父上は、本来ならそれを認めなければならなかった筈だ」


 そう、言い切る。

 ガイスカがやったことは、それこそ下手をすれば……いや、表沙汰になればセイソール侯爵家の名前を汚すような代物だ。

 だが、目の前にぶら下がった、自分が悪い訳ではないという仲介役の男の言葉に、すぐに飛びついてしまった。


(へへっ、楽なもんだ。こんなのでも侯爵家の血筋。使い道は幾らでもあるって訳だ。当主に謹慎してるように言われた時はどうしようかと思ったが……やっぱり凄いな)


 仲介役の男がこうしてガイスカに会いに来たのは、当然のように自分の判断……という訳ではない。

 この仲介役の男も、当然ながら裏の組織に所属している。

 それは、黒狼と繋がりを持っているのを考えれば当然だろう。

 その組織で仲介役の男の上司にあたる男が、ガイスカに会いに行き、そして何とか説得して連れてくるようにと言ったのだ。

 最初はガイスカの性格から、説得するのは絶対に無理だと思っていたのだが……実際に会って話してみれば、予想以上にあっさりと説得が完了してしまう。

 その件については、正直なところ拍子抜けですらあった。

 ともあれ、仲介役の男は無事にガイスカと接触することに成功し、説得にも成功した。

 後は、ガイスカを上司から指示された場所まで連れて行くだけなのだが……


「ガイスカ様、この屋敷にはどれくらいの人が残ってます? ガイスカ様には一旦身を隠して欲しいと思ってるんでやんすが」

「身を隠す? この屋敷から出るのか?」

「へい。ガイスカ様がどれだけセイソール侯爵家の為に働いたのかを、父上に納得して貰う必要があります。ですが、その時にガイスカ様が目の前にいれば、どうしてもセイソール侯爵も素直に自分の過ちを認めることは出来ないでしょう」


 その言葉に、ガイスカは一瞬疑問を抱く。

 だが、ガイスカが何かを考えるよりも前に、仲介役の男は再び口を開く。


「ささ、出来るだけ早くここを出ましょう。そうすれば、セイソール侯爵にもガイスカ様がどれだけ素晴らしいことをしたのか、それが分かるようになりますよ。何をするにしても、まずはセイソール侯爵を正気に戻す必要がありますから」

「そうか? ……そうか」


 再び疑問を抱きかけたガイスカだったが、自分にとって都合の良いことを信じてしまう。

 この辺り、ガイスカが自分の行為が正しいと思いたいと、そのような気持ちがガイスカの中にある為で、それにあっさりと流された形だ。


「ええ、勿論そうです。それで、さっきの質問に戻りますが、屋敷にどれくらいの人が残っているのか分かりますか? あっしもそこそこ腕には自信がありますが、それでもやっぱり人数が多いと……黒狼だったら、そういうのは問題ないんでしょうけどね」

「黒狼には、俺の行動が正しかったと証明する為に、是非ともレイを殺して貰う必要があるからな。この程度のことに、煩わせる訳にはいかん。……それで、人数だったか。父上が来ている以上、普段よりも多いな。もっとも、腕の立つ者は父上の護衛としてパーティーに向かっているだろうが」

「ふむ。人は多いけど、腕の立つ者はいないってことですかい。それなら、何とか……」


 そう呟く仲介役の男に、ガイスカは少しだけ不気味なものを感じる。

 もしかしたら、この男は屋敷に残っている者を殺すのではないか、と。

 おかしな話ではあったが、普段から使用人に暴力を振るい、場合によっては意識を失っても殴る蹴るの暴行を止めないガイスカが、そんなことを心配していた。

 もっとも、それは使用人達の命を心配して……というものではなく、セイソール侯爵家の当主たる父親の部下が死ぬようなことになれば厄介なことになると、そう判断しているからだろうが。


「殺すのか?」

「え? ああ、いや。勿論そんなことはしやせんよ。ガイスカ様の立場が悪くなるかもしれないとなれば、そんな真似は出来やせん」

「……そうか」


 男の言葉に、ガイスカは自分でも気がつかない様子だったが、安堵の表情を浮かべる。

 卑屈な笑みを浮かべた仲介役の男だったが、当然内心では面倒なことになったと苛立ちを露わにする。

 今回の一件は簡単な仕事だと思っていたのだが、まさかこのようなことで面倒なことになるとは、と。

 それでも現状でどうにかしなければならない以上、何とか使用人達と遭遇せず……そして警備兵や騎士といった者達とも遭遇しないように、セイソール侯爵家から脱出する算段を考えるのだった。

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