第1831話

 パーティー会場から連れ出されたエレーナは、いつもの姫将軍としての姿ではなく、公爵家令嬢という姿をしていた。

 普段からパーティードレスを着ているマリーナ程ではないにしろ、今のエレーナは非常に見目麗しいと呼ぶのに相応しい姿をしている。

 白い生地と、そこまで目立つ姿ではないのだが……それでも今のエレーナを見れば、目を奪われる者は男女問わずに多いだろう。


「うん? どうした、そんなに見て。……その、もしかして似合っていないか?」


 じっと自分を見ているレイの様子に、若干不安を感じたのだろう。そう尋ねてくるエレーナに、レイは首を横に振る。


「いや、エレーナのそういう姿も新鮮だと思ってな」

「そうだろうな。正直なところ、私はこの手の服装は苦手だ。マリーナは、よく普段からこのような服を着ていられる……だけではなく、その上であれだけ動き回れると感心すらするよ」


 そう言うエレーナのパーティードレスは、露出そのものはそこまで大きくはない。

 マリーナのように胸元や背中が大きく開いたものではないのだが……それでいながら、エレーナの体型はマリーナに負けず劣らずの女らしい曲線を描いているということもあり、見る者によってはマリーナのパーティードレス程ではないにしろ、十分に情欲を誘う。


「マリーナの場合は、あれが普段着になっているからな。慣れだろ? ……取りあえず、飲むか?」


 そう言い、レイがミスティリングから取り出したのは、果実水。

 エレーナは無言でそれを受け取り、冷たい果実水で喉を潤す。

 束の間、部屋の中には沈黙が訪れる。

 聞こえてくるのは、大広間でパーティーを楽しんでいる者達の楽しそうな声。

 そんな声を聞きながら、果実水で口を湿らせたエレーナは口を開く。


「それで? 何故私をわざわざこんな場所に? 何かあった……のは、間違いないと思うが」


 レイの様子から、ただ自分と話したいだけで呼び出した訳ではないのは、明らかだった。

 もっとも、エレーナとしては自分と二人きりで話したいから呼び出したと言われても、怒るどころか喜んでそれに応じただろうが。


「率直に言う。……さっき、黒狼と思しき相手に遭遇した」

「……何?」


 一瞬前の、一種のロマンスを期待していたエレーナの視線は、レイの一言で姫将軍としての視線に変わる。

 当然だろう。現在アネシスでも最強の暗殺者と言ってもいい黒狼が、よりにもよってケレベル公爵邸の中にいたというのだから。

 今日は使用人達を労う為のパーティーが開かれているが、だからといってケレベル公爵邸の警備が緩んでいる訳ではない。

 いや、寧ろパーティーが行われているからこそ、余計に警備は厳しくなっていた筈だった。

 そんな場所に黒狼が忍び込んでいると言われて、それでエレーナが平気でいられる訳がない。


「一応聞くが、それは何らかの冗談の類……という訳ではないな?」

「ああ。間違いなくいたよ。ただ……俺はそうだと確信してるんだが、俺が会った相手が黒狼とは限らない」

「どういう意味だ?」


 要領を得ないレイの言葉に、エレーナは微かにその美しく整った眉を顰める。

 レイが黒狼だと言うのであれば、ほぼ間違いなくそうなのであろうという思いと共に。


「以前、俺が黒狼と思しき相手に会ったって話はしただろ? その時に出会った奴と今日出会った奴は、顔の形は同じだったけど、髪の色が黒から銀色になっていたし、髪の長さも背中くらいの長さから肩くらいにまで短くなっていた」

「それは……」


 レイが断言出来ない理由を聞かされ、エレーナも若干戸惑う。

 何故なら、髪の毛の色が違うのは染めるなりマジックアイテムを使うなり、色々とどうにかする方法はあるし、髪の長さが違うのは切ればいい。

 そう思えはするのだが、何故わざわざそのような真似をするのかといった疑問がある。


「そんな訳で、恐らく同じ相手だとは思うけど確証はない訳だ」

「だが……もし変装だとして、何の為にそのような真似をする?」

「それが分かれば、悩んでないさ。もっとも、俺の前から一瞬にして痕跡も残さずに消えるなんて真似を出来る奴が、そう大勢いるとは思えないけどな」


 つまり、そのようなスキル……もしくはマジックアイテムの類を持っているという時点で、同一人物であるという確証がレイの中にはあったのだが。


「それを先に言え。……レイやセトを相手に誤魔化せるような相手が、そう大勢いる筈もないだろう。もっとも、今夜の件ではセトは関わってなかったのだろうが。それで、何か判明したことはあるか?」


 確認を求めるように尋ねてくるエレーナに、レイはもう痺れは完全に消えた右手を見せる。

 だが、突然右手を見せられたエレーナは、レイが何を言いたいのかが分からず、首を傾げるだけだ。


「その右手がどうしたのだ?」

「黒狼と一撃だけやり合ったんだが、その攻撃を受けた際に右手が痺れた」

「……何?」


 何故右手を差し出しているのかといった疑問を抱いていたエレーナだったが、レイのその言葉で真剣な表情に変わる。

 当然だろう。レイの右手を痺れさせるような一撃を与える相手は、そう多くはない。

 つまり、黒狼は当初予想していたよりも腕利きだということになる。

 レイに黒狼の情報を話していた時から、その実力を低く見積もっていたつもりはない。

 だが、結局のところ暗殺者である以上、正面から戦えば圧倒的にレイが上だという思いがあったのも、また事実なのだ。

 そんな思いが、レイの右手を痺れさせたという言葉で、瞬時に消える。

 一撃でレイの腕を痺れさせるだけの実力ともなれば、高ランク冒険者、もしくは異名持ちといったことになってもおかしくはない。

 それはエレーナにとっても完全に予想外だった。


「それは冗談でもなんでもなく、本当の意味でか?」

「そうだ。もっとも、俺は黒狼の一撃を防いだけど、黒狼は俺の一撃を防げなかったのを思えば、俺の勝ちだな」

「いや、その辺は勝ち負けといった問題ではないと思うのだが……ただ、そうか。少なくても正面からレイと多少なりともやり合える相手な訳か」


 問題ではないと言いつつも、レイの方が優勢だったということは、エレーナにとっても若干の安堵をもたらす。

 この辺は、戦力的な問題云々というよりも愛する男の方が優勢だったということの喜びからだろう。


「取りあえず、厄介な相手だというのは間違いない。……そんな訳で俺としては出来れば今日のうちに片付けてしまうのが最善の選択だったんだけどな。色々とあって、それも出来なかった訳だ。具体的には、どうやって消えているのかとかが不明なままだとかで」

「……それは厄介だな。本当にレイでもその方法が分からないのか?」

「ああ。少なくても、マジックアイテムを使えるような余裕はなかったと思う……けど、もしかしたら発動するのに時間が掛からない、それこそ使おうと思った瞬間にはすぐに発動するようなマジックアイテムって可能性もあるし、スキルともなれば更に厄介だ」


 マジックアイテムの場合は、ダンジョン等で入手出来る古代魔法文明の遺産とでも呼ぶべき非常に高性能な物を使っている可能性があるし、スキルともなれば発動条件は千差万別と言ってもいい。

 レイの場合は基本的にスキルをしっかりと発動するという意識を持った上で直接スキル名を口に出す必要があるが、中にはそのような真似をしなくてもスキルが発動出来るような者がいてもおかしくはない。


「もしマジックアイテムの場合は、出来れば黒狼を倒した後はそのマジックアイテムを奪っておきたいってのもあるな」


 倒した相手からマジックアイテムを奪うというのは、半ば強盗に近い。

 だが、盗賊喰いと呼ばれているレイにとって、自分に危害を加える相手から奪うというのに、罪悪感の類は全くなかった。

 何の痕跡もなく……それこそ、レイとセトではその痕跡を感じることが出来ないように、転移か、もしくはそれ以外の方法でその場からいなくなるというのは、レイにとっても非常に魅力的なマジックアイテムではあった。


「レイのことだから、そう言うとは思っていたよ」


 エレーナもまた、レイとの付き合いは長い。

 それだけに、レイがどのようなマジックアイテムを好むのかというのは知っている。


「ともあれ、だ」


 レイの言いたいことは分かったが、それよりも今の状況では聞いておくべきことがあった。


「黒狼が侵入している以上、こちらは警備を強化した方がいいと思うか?」

「あー……どうだろうな。正直なところ、俺が知ってる限りで黒狼とやり合えるのはエレーナとフィルマだけだと思うぞ。勿論、俺はケレベル公爵家が有する戦力の全てを知ってる訳じゃないから、もしかしたら他にも戦力はいるのかもしれないけど」


 エレーナやフィルマは、ケレベル公爵家が持つ戦力の中でも際だって強力な戦力だ。

 それこそ、レイのように質で量を覆すことが出来るだけの力を持つ。

 そのような戦力が、ケレベル公爵家で他にもいるという可能性は決してないとは言い切れない。

 とはいえ、エレーナにそのようなことを聞いても素直に答えるとは思えない以上、意味はないのだろうが。


「残念ながら、今のところは私とフィルマの二人だけだな」


 そう言っている内容が真実なのかどうかは、レイにも分からない。分からないが……それが嘘であっても、レイは構わないと思っている。

 エレーナはレイの仲間であると同時にケレベル公爵家の令嬢であり、姫将軍という貴族派の象徴でもあるのだから。

 寧ろ、本来は秘密にしなければならないことをほいほいと漏らしたりすれば、それはそれで不安になる。


「そうか」


 だからこそ、レイは短くそれだけを答える。


「うむ。……ただ、取りあえず黒狼がうちの屋敷に侵入したという話は、父上にはする必要があるだろう。対処出来るかどうかは別の話だが」

「あー……まぁ、そうだろうな。ケレベル公爵家の当主なんだし、当然その辺の情報を知らせる必要はあるか」


 だが、もし自分の屋敷に黒狼が侵入していてもそれに対処出来る可能性が少ないというのは、リベルテにとっても痛手だろう。


「取りあえず、ここでもう少しレイと一緒にゆっくりしていたいところだが、黒狼の件を考えるとそうもいかないな。……戻るぞ」

「ああ」


 パーティー会場に戻ると告げるエレーナに、レイも特に異論はない。

 元々ここにやってきたのは、あくまでも黒狼がこの屋敷に姿を現したということを知らせる為だったのだから。

 それを知らせた以上、早いところパーティー会場に戻るというのは当然だった。

 もっとも、レイにとってもパーティードレス姿のエレーナと一緒にいる時間を終わらせるのは、若干勿体なかったが。

 それでも黒狼の件を思えば、我が儘を言える筈もない。


(まぁ、何となく……本当に何となくだけど、あの黒狼は俺以外にちょっかいを出すようには思えなかったんだけどな)


 レイも、黒狼という人物のことを詳しく知っている訳ではない。

 それどころか、直接会ったのはまだ二度だけで、おまけに今日会った黒狼は一度目に会った時と比べて髪の色や長さが変わっており、同一人物だとは確信出来なかった。

 ……あれだけの力を持っており、更にはスキルかマジックアイテム、もしくはそれ以外の何かかは分からないが、レイの前から痕跡も残さず消えるような真似をすることが出来る相手が、そう多くいるとは思えなかったが。


「月が綺麗だな」


 パーティー会場に戻る途中、ふと足を止めたエレーナは、廊下で窓の外を見ながら呟く。

 その言葉にレイもまた、窓の外を見る。

 今日はパーティーということもあるが、それでも普段からケレベル公爵邸では明かりのマジックアイテムが途切れるようなことはない。

 広大なケレベル公爵邸の全てを明かりでライトアップしている訳ではないが、それでも普通では考えられない程に大量の明かりのマジックアイテムが周囲を照らし出している。

 そのような真似が出来るのは、ケレベル公爵家の持つ莫大な財力があるからこそだろう。

 だが、そんな明かりのマジックアイテムが大量にある中であっても、夜の空に浮かぶ月の煌々とした明かりまでをも覆い隠すことは出来ない。


「そうだな」


 レイもまた、エレーナの隣で足を止め、月を眺めながらその言葉に同意する。

 冬の夜といえば、それこそ厚い雲に月が覆い隠されているという印象ではあったが、今こうしてレイとエレーナが見上げている夜空は雲一つ存在せず、月の美しい姿をしっかりと確認することが出来る。

 そうして数分の間、二人で夜空の月を眺めていたレイとエレーナだったが、黒狼に関しての情報を知らせる必要があるということで、再びパーティー会場に向かって歩き出すのだった。

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