第1830話

 屋根の上からベランダに飛び移ってきたその人物に、レイはいつでも対処出来るようにしていたのだが……

 自分の前に姿を現した人物を見て、レイは思わず戸惑いの声を出す。


「え?」


 そんな、若干間の抜けた声が出たのも当然だろう。

 何故なら、レイの前に姿を現した人物は、以前レイが遭遇した黒狼と思しき相手とは全く様相が違っていたからだ。

 月明かりを反射している髪の毛が、まず銀色だ。

 体格そのものは以前遭遇した相手とそう変わらないように思えるのだが、その髪の長さも背中まで伸びていたのとは裏腹に、肩の辺りまでしかない。

 単純に髪の毛を切ったのかもしれないと思わないでもなかったが、それでもレイは目の前に立つ相手に違和感を抱いた。

 少なくても、レイが知っている黒狼と思しき人物は、このような人物ではない。

 だが、だからといって視線の先にいる人物が別人なのかと言われれば……それはそれで、また違う。

 自分に向けてくる視線の種類は、間違いなく以前黒狼と思しき人物から向けられたそれと同じだったのだから。

 ましてや、髪の色は黒髪から銀髪に変わっており、その長さもまた違うが、体格や顔立ちという点では間違いなく以前遭遇した相手と変わらない。

 そうである以上、目の前にいるのがあの時の人物と別人だという判断は、到底レイには出来なかった。


「お前は黒狼……か?」


 一応確認の為にもそう尋ねるレイだったが、黒狼はそんなレイの言葉に特に何か反応する様子もなく、ただじっと視線を向けてくるだけだ。

 そう、相変わらずの観察するような視線を。

 そんな視線を向けてくる相手に、一瞬どうしたものかと迷うレイ。

 本来なら、ここに黒狼をおびき出したらすぐに倒してしまう……それが当初の目的だった。

 もしレイの前に姿を現した黒狼が、以前と同じ相手であれば、躊躇するような真似はしなかっただろう。

 だが、現在レイの前にいる相手は以前遭遇した相手と同じようでいながら、微妙に違う相手なのだ。

 それを理解した時点で、ここで手を出すのは得策ではないという考えがレイの中に浮かんだ。

 今の黒狼と思しき相手がどのような力を持っているのか分からない以上、ここで戦うような真似をすれば、それは年越しのパーティーを開いている者達をも、この一件に巻き込みかねないと。

 何より、レイどころかセトの目や嗅覚からも逃げおおせたその方法を、レイはまだ理解していない。

 戦いの途中で逃げられ、下手にこちらの情報を持ち帰られるよりは……今日は見逃した方がいいだろうというのが、レイの結論だった。


(まぁ、それを言うなら最初から手を出すなって話ではあるんだけどな)


「……」


 そんな風に思っているレイとは裏腹に、黒狼と思しき相手はじっとレイを見る。

 以前と同様の、観察するような視線がレイに向けられていた。

 その視線だけは、間違いなくレイが知っている黒狼のものだと思えるのだが、それも今となっては確信は持てない。

 もしかしたら……本当にもしかしたらの話だが、実は黒狼というのは一人ではなく、何人もで存在している一種のグループ名に近いという可能性もあるのだから。


(いや、もしグループだとしても、ここまで同じような顔をしている奴がいるか?)


 一瞬そんな疑問を抱いたレイだったが、考えて見ればこの世界の人間が、今の自分の身体を作ったのだと思い出す。

 レイの身体を作ったのは、最高峰の魔法使いゼパイルだ。

 それだけに、レイと同等の能力を持つ身体を作ることは無理だという思いがレイの中にあったが、改めて考えてみれば、今はゼパイルが生きていた時代から遙か未来となる。

 もしかしたら、その間に技術を発展させて同じようなことが出来るようになっていても不思議ではない。


(けど……ゼパイルは不世出の天才だ。そんなゼパイルの下に同等の天才が集まって生み出されたこの身体と同じような能力を持つ身体……少し無理があるような気がするけどな。……そうだな、このままここで無言でいても意味はないか)


 なら、と考えたレイは口を開く。


「お前は以前俺と会った奴か?」


 そう尋ねるレイの言葉に、黒狼と思われる人物は特に何を言うでもなく、ただじっとレイに視線を向けてくる。

 その表情に多少の疑問であっても浮かんでいれば、まだ何らかのヒントにはなっただろう。

 だが、こうして自分に視線を向けてくる黒狼は、一切表情を変えていない。

 その様子を見る限りでは、向こうが何を考えているのかというのを読み取ることもレイには出来なかった。


(厄介な。……それにしても、こうして銀髪になっているのを考えれば、黒狼じゃなくて銀狼って表現の方がいいんじゃないか?)


 そんな風に思わないでもないレイだったが、エレーナからは黒狼はその顔が知られていないという話を聞いたのを思い出す。


「一応聞くけど、お前は黒狼って言われてる暗殺者で間違いないのか?」


 黒狼という単語を聞いた瞬間、一瞬だけだが男が反応した。

 何をするにしても、今までは全く反応がなかっただけに、その反応はレイに少しだけ期待を抱かせた。


「お前が黒狼って暗殺者なら、何で俺に攻撃しない? お前は俺を殺す為に雇われたんだろ?」

「……」


 確信に近い思いを抱きながら尋ねるも、やはりそれに対する答えは沈黙のみだ。

 黒狼という名前に多少は反応したものの、それ以外には全く反応がない。

 そのことを面倒に思いながら、それでも黒狼と思しき男はただじっと自分の方を見てくるだけだ。

 そうして、どれくらいの時間が経ったのか。

 レイもそれ以上は何も言うようなことはなく、黒狼もただじっとレイを見る。

 男同士が見つめ合うという、レイにしてみればあまり賛成はしたくない光景ではあったが、それでもお互いに視線を逸らすことはない。

 レイにしてみれば、自分はまだしもセトにも察知されずに姿を消した方法の種を知りたいという思いもあっただろうし、黒狼の方は特に表情を変えずにただレイの姿をじっと観察しているだけだ。

 お互いが黙って見つめ合うようなことになり、レイは退けなくなる。

 もしここで自分が黒狼から視線を逸らせば、間違いなく黒狼はまた姿を消すと確信していた為だ。

 だからこそ、種明かしをする為に自分の目の前で消えてみせろといった視線を向けていたのだが……そんなレイの考えを理解したからなのか、黒狼が消える様子は一切ない。

 やがて、周囲には次第に緊張感の高まった空気が張り詰められていく。

 少しずつ、本当に少しずつではあるが、その緊張感のある空気は高まっていき……もしそれが頂点に達した時、恐らくお互いがまだ望んでもないに関わらず、戦いが始まるのではないか。

 そんな、いっそ奇妙と表現してもおかしくはない雰囲気が周囲に広がっていき……

 不意に、レイの後ろにある扉……建物の中に続く扉が開く。

 瞬間、幾つかの風を斬り裂くかのような音が周囲に響いた。

 同時に、ベランダにやって来た人物もレイの姿に気がつき、慌てて頭を下げる。


「え? あ、レイ様? すいません、まさかこのような場所におられるとは思わず」


 扉からベランダに出てきた四十代程の男が、レイの姿を見て慌てて頭を下げる。

 男はパーティーで飲んだ酒の酔いを冷たい風で醒まそうと、こうしてベランダに来たのだろう。

 まさか先客がいるとは思わずレイに謝ったのだろうが、レイはそれに対して問題はないと首を横に振る。


「気にしないでくれ。俺もそろそろ戻ろうと思ってたところだったからな。……収穫はあったし」

「収穫?」


 レイが何を言ってるのかは分からなかった男だったが、レイが不愉快な思いをしている訳ではないというのは理解出来たのだろう。安堵した様子で、中に入ろうとするレイに場所を譲る。

 だが、レイが男の横を通ろうとした瞬間、ふとレイが右手を左手で押さえているのに気がつく。


「レイ様? その右手は、どうかなさったのですか?」

「ん? ああ。ちょっと失敗してな」


 レイが軽い調子で言ったからなのだろう。男は、特に重大な出来事だとは思わず、そうですかと納得する。

 レイの時間を邪魔しないようにという思いもあったのだろうが、男はそれ以上追及はしなかった。

 そのことをありがたく思いながら、レイは屋敷の中に入る。

 既に黒狼と思しき男の攻撃を防いだ右腕の痺れは殆どなくなっているが、それでもまだ完全という訳ではない。

 月光や建物の中の明かりに紛れるようにして放たれた、黒狼の一撃。

 レイはそれを右手で防ぎ、カウンターとして左の一撃を放った。

 結果としてレイは黒狼の脇腹にカウンターの形で左手の拳を埋めたので、前哨戦としてはレイの勝利といったところか。


(とはいえ、黒狼なんて異名……異名なのか? まぁ、取りあえず異名って認識でいいか。そんな異名を持つだけのことはあったな。一撃を受けて手が痺れるなんてな)


 レイは普段からエレーナやヴィヘラと模擬戦をしており、その際に一撃を防いだ手が痺れるといったことはあるので、手が痺れるのはそこまで珍しいという訳でもない。

 それでも、それはあくまでもエレーナやヴィヘラといった者達との戦いだからであって、それ以外の相手で手が痺れるような一撃を受けたことは、そう多くはない。

 そういう意味では、黒狼は間違いなく一流……いや、一流を超えた存在だということなのだろう。

 エレーナからの情報で、そうだというのは予想出来ていたレイだったが、それでもやはり人伝に聞いた情報と自分で直接戦ってみた経験では、当然ながら後者の方が重要となる。

 少なくても、自分とある程度やり合えるだけの実力があるというのははっきりしたのは、これから対策を考えるには便利だった。


(ただ、結局今回もどうやって姿を消したのかが分からなかったんだよな。出来れば今日でその方法を知っておきたかったんだけど)


 正直なところ、レイにとっては黒狼の実力が高い云々というのは当然大事な情報だったが、それ以上に黒狼がどうやってレイやセトにも探知出来ないようにして移動しているのかを知る方が重要だった。

 だが、結局それを最後まで見抜くことが出来なかったのは、レイにとっても非常に痛い。

 出来れば今回の件でその辺りをどうにかしたかったというのが、正直なところだったのだが。


(俺だけで考えても無理か。そうなると……エレーナにでも相談するか?)


 公爵家の令嬢として様々なことに深い知識があり、姫将軍として戦いについても詳しいエレーナであれば、もしかしたら自分では知らないようなそんな知識を持っていてもおかしくはないと、そう判断した為だ。

 そんなことを考えながらパーティー会場に戻ると、そこでは先程レイが出てきたよりも賑やかに騒いでいる者達が多い。

 それでも羽目を外しすぎて床に寝転がったり、叫び声を上げたり……といった真似をしている者の姿がないのは、このパーティーにはケレベル公爵一家が参加しているからだろう。

 幾ら年末のパーティーだとしても、自分達が仕えている主人の前でみっともない光景は見せることが出来ない、と。そういうことか。

 きちんと節度を持って、それでいながらしっかりと楽しんでいるそんな様子を見ながら、レイはケレベル公爵一家が座っているテーブルに向かう。

 先程レイが出るときには執事と思しき者がケレベル公爵一家と共に食事をしていたが、その食事も終わったのか、今テーブルで食事をしているのはケレベル公爵一家だけだ。

 そんなテーブルにレイが近づくと、当然ながら周囲でパーティーを楽しんでいた者達からの視線が向けられる。

 とはいえ、レイとエレーナの関係は既にケレベル公爵邸で働く者にとっては当然のように知れ渡っているし、レイが客人としてこの場にいるのも間違いはない。

 そうである以上、そのことを咎めるような者はどこにも存在しなかった。

 もっとも大勢に視線を向けられているという状況は、レイにとってもあまり面白いものではなかったのだが。

 ただ、レイの場合は良くも悪くも注目を浴びるのには慣れており、そんな視線を向けられながらも特に気にした様子も見せずにケレベル公爵一家のテーブルに近づいていく。

 当然そうなればエレーナを始め、リベルテやアルカディアといった面々もレイの姿には気がつくが、近づいてくるのが別に怪しい者ではないということで、寧ろ歓迎した様子でレイに笑みを向ける。

 普段は厳しい表情でいることも多いリベルテまでもが笑みを浮かべていたのは、やはり今日がパーティーでリラックスしているからだろう。

 特に明日行われる新年のパーティーは、多くの貴族が集まるパーティーではあるが、それは武力を用いない戦争に近い。

 貴族派という派閥の中で自分の利益を出来るだけ多く得ようと、それぞれが動くのだから。

 そういう意味では、今日のパーティーの方が十分に楽しめるということのなのだろう。

 そんな風に楽しんでいるパーティーを邪魔するのは、少し悪いと思いつつ……


「エレーナ、ちょっといいか? 相談したいことがあるんだけど」


 そう、声を掛けるのだった。

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