第1787話
レイがケレベル公爵領にあるアネシスにやって来た、翌日。
昨夜の食事ではケレベル公爵夫妻と初めて出会い、ゲオルギマの作った料理に心の底から唸らせられるといった体験をしていたことから、精神的な疲れがあったのは間違いないだろう。
もっとも、依頼の最中でもなければ、レイは基本的に朝には弱いというのもあったのだが。
また、レイが眠っているベッドや布団といった寝具も、ケレベル公爵領の客室……それもエレーナが連れて来たということで最上級の客室を用意されただけあって、寝具を含めた家具の全てが最上級の物が揃っている。
そして冬の朝ということもあり、レイはこれ以上ないくらいにぐっすりと深い眠りについていた。
そうして暖かな眠りを楽しんでいるレイだったが、やがて部屋の中にノックの音が響く。
聞こえてきたのは、扉から。
ノックの音に少しだけ反応するレイだったが、まだ眠りの底から戻ってくる気配はなく、睡眠を楽しむ。
だが、ノックをしている方も、レイがまだ眠っているからといってそのままにしておくことは出来ずに再びノックの音が響く。
そうして数十秒もノックをされ続ければ、朝の弱いレイであってもその音には気が付く。
……実際にレイを即座に起こすには、それこそ軽い殺気でも放つのが手っ取り早いのだが……まさか、エレーナの連れて来た客人にそのような真似が出来る筈もない。
結局起こしに来たメイドは、そのまま更に数分ノックを続け……
「んあ」
ようやくノックの音により目が覚めたレイは、奇妙な声を口から出しながら周囲を見回す。
「あー……んー……?」
最初、自分がどこにいるのか分からなかったのか、不思議そうな、それでいて寝惚けた表情で周囲を見回す。
レイが定宿にしている夕暮れの小麦亭ではないのは明らかで、マジックテントの中でもないというのは明らかだった。
そうして十秒程周囲を見回し……再び扉から聞こえてきたノックの音で、ようやく少しだけ頭が働き始める。
「そうか、俺はエレーナの家に来たんだっけか」
そう呟き、ノックしてきた相手に部屋に入るようにと告げる。
中に入ってきたメイドは、昨日レイの世話をしたのとは別のメイドだった。
年齢的には十代後半といったところで、当然のように美形と評してもおかしくない顔立ちをしている。
そのメイドは、部屋の中に入るとベッドに座っているレイに向かって頭を下げる。
「失礼します、レイ様。おはようございます。朝食の用意が出来ましたが、ここにお持ちしてもよろしいでしょうか? それとも食堂でお食べになられますか?」
「あー……エレーナ達はどうした?」
「お嬢様でしたら、もう朝食を食べ終えています」
つまり、食堂に行ってもそこには誰もいないか……もしくは、いてもエレーナの両親ということになるのだろう。
そう考えたレイは、すぐに結論を口にする。
「分かった、ここで食べるから持って来てくれ」
「はい。それと、ゲオルギマ様がレイ様にお話があると」
まだ完全に目覚めていなかったレイは、メイドの口からゲオルギマの名前が出ても、最初はそれが誰なのかが分からなかった。
それでも数秒でそれが誰なのかを理解したのは、それだけ昨日食べた料理が衝撃的だったのと、ゲオルギマ本人の性格が特徴的だった為だろう。
特に、メインとして出て来た肉。
一見すればただ焼いただけの肉にしか見えないというのに、その肉を一切れ食べただけで様々な味を楽しむことが出来るという、驚くべき料理。
それ以外にも、肉の後に出て来た幾つかの料理やデザートは日本という食の大国と呼ぶべき国の料理を知っているレイにとっても、十分満足出来る味だった。
そして昨夜食べた料理を思い出すと同時に、ゲオルギマの料理を心の底から美味いと思わせたら、レイが知っている料理を……ゲオルギマが知らない料理を教えるという約束をしたことを思い出す。
「そう言えば約束していたな。うん、分かった。取りあえず身支度をして朝食を食べ終わったらゲオルギマの場所に……あ、ちょっと待った。俺って今日何かすることがあるかどうかって聞いてるか?」
ゲオルギマに会うというのは別に問題なかったレイだったが、もしかしたらエレーナの方で何らかの用事があるのでは? もしくはケレベル公爵夫妻の方でも用事があるかもしれないと、そう尋ねるレイだったが、メイドは笑みを――若干呆れ混じりの笑みだったが――浮かべて、首を横に振る。
「ゲオルギマ様の件がありましたから、今日はそちらに集中して下さいとのことです。エレーナ様はお知り合いの方が会いに来るそうなので、そちらの相手をなされると、旦那様と奥様はそれぞれ仕事があるということで」
「つまり、俺は今日自由な訳だ」
「はい、そうなります」
レイの言葉に、メイドはそう言ってくる。
「なら、ゲオルギマに……ああ、そう言えばセトはどうしてるのか分かるか?」
「レイ様の従魔ですよね? 厩舎でイエロと元気に遊び回っているという話を聞いています。朝食の方もこちらで作った料理を食べましたし、問題はないかと」
「そうか、ならいい」
メイドの言葉にそう返すレイだったが、セトが寂しがりやだというのは当然知っている。
一度顔を出した方がいいだろうな。
そう思いながら、レイは身支度を調え、ゲオルギマの作った朝食に舌鼓を打つのだった。
「おう、おうおうおうおう、おう!」
食堂に姿を現したレイを見たゲオルギマは、そんな風な奇妙な鳴き声と呼んでもおかしくないような声を上げながら、レイに近づいてきた。
もし何も知らない者がこの様子を見れば、恐らく悪人が子供に凄んでいるようにも思えただろう。
迫ってきたゲオルギマに、レイもまた反射的に拳を繰り出そうとするのを抑える必要があったのだから。
「ゲオルギマさん、落ち着いて! ほら、折角の機会なんですから、これで逃げられたりしたら元も子もありませんよ!」
「皆、手を貸せ! ゲオルギマさんを止めるんだ!」
厨房には十人を越える料理人がいたのだが、ゲオルギマは何人もを引きずりながらレイの方に近づいてきた。
「逃げろ、そこの人、逃げてくれ!」
「あー、はいはい。大丈夫だから心配するなって」
必死にレイに呼び掛ける料理人だったが、声を掛けられたレイは問題ないと手を伸ばし……それを見た瞬間、ゲオルギマの動きは一瞬にして止まる。
レイが何らかの魔法やスキルを使ったわけでもないのだが、それでもゲオルギマは一流を越える腕の持ち主として、レイから何かを感じ取ったのだろう。
だが、ゲオルギマを止めようとしていた他の料理人達は、何がどうなって今のような状況になったのかが全く分からない。
ゲオルギマが料理に強い情熱を抱いているのが分かるから……だからこそ、レイが手を伸ばしただけで止まるとは思っていなかったのだろう。
「落ち着いたな?」
「……ああ。それで、ここに来たってことは、料理を教えて貰えるんだな?」
ゲオルギマの口から出た言葉に、他の料理人達はレイに驚愕の視線を向ける。
まさか、ゲオルギマの口から料理を教えて欲しいという言葉が出てくるとは思わなかったのだ。
いや、これで相手が見るからに料理人といったような相手であれば、話もまた変わったのだろうが……今日のレイはドラゴンローブを身に纏っており、料理に詳しいような人物とは到底思えなかったからだ。
そんな周囲の様子に気が付いたのだろう。ゲオルギマは、呆れを込めて口を開く。
「この男がエレーナ嬢ちゃんの連れて来た客人で、うどんや肉まん、ピザ、海鮮お好み焼きといった料理を発明した奴だ」
『なっ!?』
ゲオルギマの言葉に、それを聞いた料理人達が驚愕し、揃ってレイに視線を向ける。
今日のレイはいつものようにドラゴンローブを着ているので、それこそ見る者によっては初心者の魔法使いといった風にしか見えない。
ケレベル公爵領の大きさを考えれば、その戦力の中には魔法使いもそれなりにおり、料理人達はレイを最初そのような者の一人と考えたのだ。
だが、目の前にいるのがレイだと知れば、当然のように反応も変わる。
ゲオルギマですら知らない料理を知っているレイというのは、料理人にとっては尊敬にすら値した。
だからこそ、その場にいた料理人達はやがて驚愕から尊敬へと視線の種類を変える。
そして、料理人達に尊敬の視線を向けられたレイは困ってしまう。
当然だろう。レイにしてみれば、詳細なレシピまで教えた訳ではないのだ。
レイが出来るのは、あくまでもうろ覚えの知識を教えることだけなのだから。
もっとも、完成形の料理を知っているというのは、この場合かなり有益なのは間違いない。
完成形をレイが知っていたからこそ、うどんを始めとして様々な料理はそこまで時間を掛けることなくきちんと食べられる料理となったのだから。
「それで、こうしてここに来たってことは、料理を教えてくれるってことだな?」
「お前が俺に来いって言ったんだろ? ……まぁ、料理を教えるのはいいけどな」
そうレイが告げた瞬間、間違いなくゲオルギマの視線が鋭くなった。
料理については貪欲なだけあって、この機会を逃すつもりはないと、そう言いたいのだろう。
「それで、どんな料理を教えてくれるんだ?」
「ラーメンという料理だ。……うどんは知ってるんだよな?」
「ああ、勿論だ。あの食感はちょっとした衝撃だったな。食べやすいし」
「そんなうどんに似ている料理だな。小麦粉で作った麺とスープと具の三つが必要になる。正確には他にも薬味とかそういうのがあるんだけど、その辺りは人の好みにもよるだろうな」
うどんに似ているという言葉に、若干ゲオルギマに落胆した様子が見られたが、それでも料理名が違うということは、うどんとは違う料理であると理解したのだろう。
ゲオルギマは、真剣な表情で口を開く。
「うどんと違うと言ったが、どう違うんだ?」
「俺が知ってる限りでは、そもそも発祥からして別の国で出来た料理らしい」
そう言うレイだったが、当然のようにうどんがどこで発生した料理なのかは分からない。
ラーメンは中華料理を日本人が改良した料理なので、そのルーツを中国に求めることが出来る。
だが、うどんについては稲庭うどんや讃岐うどんというのは知っているが、それだけでしかない。
もっとも、ゲオルギマがその辺に興味を持つとは思えなかったが。
「それで、具体的にはどう料理すればいいんだ?」
「うどんと違って、ラーメンという料理は味の基本となるスープが何種類もある。ただ……それを作るには醤油や味噌といった調味料が必要らしいけど、知っているか?」
レイの言葉に、ゲオルギマも含めて全員が首を横に振る。
(ゼパイルの仲間だった、タクム・スズノセとかも含めて日本から転生やら転移やらしてきた奴は過去に何人かいたらしいけど、醤油や味噌は広まってないみたいだな。……てっきり、俺が見つけてないだけで、あるかもしれないと思ったんだけど。やっぱり作り方が分からなかったのか?)
もしかしたら、醤油や味噌を広めた者もいたかもしれない。
だが、作り方が難しかったのか、単純にこの世界――もしくは作った者がいた場所――の住人の舌には合わなかったのか。
ともあれ、醤油や味噌が広まっていないというのは、ラーメンを作る上でかなり痛い出来事なのは間違いなかった。
(煮卵とかチャーシューも醤油を使ってた筈だし……まぁ、こっちはある程度別の調味料でも代用出来るか?)
そう思いつつ、レイは死にそうなと表現してもおかしくない程に酷い表情を浮かべているゲオルギマに言葉を掛ける。
「安心しろ。醤油や味噌といった調味料がなくても、作れるスープはある。とはいえ、俺が知ってるのは塩味と豚骨という種類のスープだけどな。……牛骨ってのもあったか?」
最後の牛骨の部分だけは、ゲオルギマに聞こえないように呟く。
TV番組か何かで牛骨ラーメンというのを見たことがあったレイだったが、やはり豚骨ラーメンの方が有名なだけあって印象が強い。
「それに、若干ラーメンとは違うけど、冷やし中華という料理もある。……まぁ、タレをどうするかが問題だけど」
冷やし中華と言われてレイが思いつくのは、酸味のある醤油とゴマをベースにしたタレの二つだ。
とはいえ、片方は醤油がないので難しく、ゴマをベースにした方はどうやって作るのか全く分からないのだが。
「塩に豚骨……豚の骨か? それはオークの骨でもいいのか? それと冷やし中華というのは……どういう料理だ? 名前から考えて冷たい料理のようにも思うけど」
「オークの骨は、どうなんだろうな」
普通の豚の肉よりもオークの肉の方が数段美味い以上、もしかしたら豚骨ラーメンでもオークの骨を使った方が美味いのかもしれないが……残念ながら、レイはその辺りがどうなのか理解は出来ず、言葉を濁すのだった。
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