第1783話
レイの視線の先にいるアルカディア・ケレベルという人物は、エレーナの母親であると言われれば誰もが納得するだろう。
それだけの美しさを、間違いなく持っていた。
もっとも、エレーナが太陽の光の下で咲き誇る大輪の薔薇だとすれば、アルカディアは同じ薔薇でも日陰で咲いている薔薇といった印象をレイに与える。
同じ薔薇の華であっても、エレーナとアルカディアでは大きく違うのだ。
これで二人が全く似ていなければ、その差異は些細なものとして映っただろう。
だが、顔立ちが似通っているからこそ、差異が大きな印象を与えることになる。
「座ってちょうだい。うちの人が不躾な真似をしたわね」
アルカディアの言葉に、レイは頷いて椅子に座り……そうして、ようやく一息を吐く。
ただ椅子に座るだけだというのに、それだけで精神的に疲れてしまった。
だが、それも当然だろう。ここにいるのはケレベル公爵一家。
それこそ、このミレアーナ王国の中でも最も爵位が高く、強い影響力を持っている一家なのだから。
……寧ろ、異名持ちではあってもレイというただの冒険者がこの場にいることが色々とおかしいのだが。
ともあれ、椅子に座って料理を前にすれば、漂ってくるのは食欲を刺激する料理の香りと、視覚でも楽しませる料理。
(一流の料理は、目でも楽しませる……って何かで見たか聞いたかした覚えがあるな。それがこれか)
このエルジィンという世界で、料理という文化はそれなりに発展してはいるものの、日本……いや、地球と比べれば技術的な意味で圧倒的に劣っている。
当然だろう。地球では採れたての野菜を鮮度そのままで遠くに運ぶようなことは普通に出来るし、魚も獲ってすぐに冷凍して鮮度を保ったまま遠くに……それこそ外国にすら運ぶことが可能となっているのだから。
それに比べると、どうしてもエルジィンにおいては食材その物がどうしようもなく手に入りにくい。
勿論魔法やマジックアイテムを使えば、ある程度は解決出来る問題ではあるのだが……魔法使いは元々限りなく少ないし、マジックアイテムは一般的なものはともかく、冷凍や冷蔵を可能とする物は気軽に買えるような値段ではない。
そのような状況でこのような、見るからに美しくそして食欲を刺激する料理が出て来たのだから、レイが驚くのも当然だった。
(新しい料理を餌にしたのは、失敗だったか?)
一瞬そう思ったのは、このような緊張した状態ではなくもっとリラックスした状態で料理を食べたかったからだろう。
緊張して料理の味が分からなかったという話はそれなりに聞く。
だからこそ、折角の美味い料理は最大限にその味を楽しみたいと思うのは当然だった。
正直なところ、レイはケレベル公爵を見誤っていた、というのが正しい。
いや、この場合は見くびっていたと表現すべきか。
エレーナの父親だというのは知っていたし、多数の貴族を率いているというのも知っていた。
だがそれでも、結局はダスカーには劣っているだろうと。
しかし、レイの前にいる人物は間違いなくダスカーと同等……いや、ギルムに所属してダスカーと友好的な関係にあるレイとしてはあまり認めたくないことだったが、恐らく貴族としてはダスカーよりも上だろう。
勿論それは、貴族としてのある一面を見てのことにすぎないと、レイにも分かっている。
例えばノブレス・オブリージュ……いわゆる、高貴なる義務と言われているその行動により貴族の当主が戦場に出た場合、ケレベル公爵とダスカーのどちらが役に立つかと言われれば、元騎士として戦闘に慣れているダスカーだろう。
そのようなことはレイにも分かっているのだが、それでもやはり目の前にいる人物が大物であると、そう判断しない訳にはいかなかった。
「さて、では食事を始めようか。レイは……ワインは?」
ケレベル公爵の問いに、レイは首を横に振る。
だが、そんなレイの態度について口を開いたのはエレーナだった。
「レイはアルコールが苦手らしく、いつもお茶や水、果実水といったものを飲んでいますよ。父上としては、残念でしょうが」
「ふーむ、なるほど。しかし……美味い料理には美味いワインが合うと思うのだが。残念だな」
「あはは。飲めない訳じゃないですけど、ワインに限らずアルコールの類は美味しく感じられないんですよ。アルコールを料理に使うというのであれば、アルコールも飛ぶので問題ないんですが」
何となくそう口にしたレイだったが、そんなレイの言葉が少し気になったのだろう。
ケレベル公爵は、メイドに注がせたワインとハムと野菜のサラダを楽しみながら、レイに視線を向ける。
「ほう、アルコールを料理に使うのか。生憎と料理は食べる専門だったので何とも言えないが、そのような真似をするのかね?」
この冬に新鮮な野菜が用意されているということに驚きつつ、レイもまたハムと野菜のサラダを味わいつつ頷きを返す。
「はい。俺も詳しくは知らないんですが、フライパンで焼いている肉に度数の高いアルコールを振りかけて、フライパンの中で火を点けると、アルコールが燃えるんですよ。そして焼いていた食材に香りを付ける……という調理法だったと思います」
フランベというのは、日本でもかなり知られた調理法だ。
だからこそ料理についてはあまり詳しくないレイであっても、その調理法を知っていた。
もっとも調理法を知っているだけで、具体的にフランベがどのような効果があるのかというのは、それこそふんわりとしか知らなかったが。
「ふむ。……面白い調理法だな。私は知らないが、これは後で我が家の料理人に教えても構わんかね?」
「それは構いませんけど……ゲオルギマなら、もう知っていてもおかしくない調理法かと」
「あら、もうゲオルギマの名前を知っているということは……会ったのかしら?」
レイとケレベル公爵の会話を、ジャガイモに似た野菜のポタージュのようなスープを味わっていたアルカディアが遮って尋ねる。
本来なら不作法と呼ぶべき行為ではあったが、アルカディアがやると不思議とそのようにも思えない。
ケレベル公爵も、そんな妻の態度に特に何か思うところはなかったのか、注意するようなことはなかった。
「ああ、はい。俺がうどんを始めとした幾つかの料理を広めたという話を聞いて、多分興味を持ったんでしょうね」
「なるほど。……そう言えば、私が滞在していた街にやって来ていた商人から、そのような話を聞いたことがありますね」
滞在? と一瞬疑問に思ったレイだったが、ここでそれを聞くのは恐らく止めておいた方がいいだろうと判断し、それは口に出さない。
貴族派を率いるケレベル公爵の妻が何をしていたのかなど、それを知っても百害あって一利なし……とまではいかないが、デメリットの方が明らかに多いように思える。
「ゲオルギマの料理は美味いからな。だが……今日の料理は、また一段と力が入っているように思えるが」
こちらもスープを楽しみつつ、エレーナが不思議そうに料理を見る。
事実、本来であれば今日の料理はここまでのものになる予定ではなかった。
……レイが、自分に心の底から美味いと思わせたら、何か新しい料理を教えるといったようなことを言わなければ。
「ふふっ、何か心当たりがあるといった顔ね? ゲオルギマとは会ったらしいけど、その時に何かあったの? そう、例えばレイを唸らせる料理を作れば、何か今まででは考えられなかった料理を教えるとか」
優雅な笑みを浮かべて尋ねてくるアルカディアに、一瞬レイは自分の考えを見透かされたのかと、動きを止める。
だが、すぐにその驚きを消し、スープにスプーンを伸ばしながら口を開く。
「そうですね。俺の頭の中には、師匠のところで生活した時に見た幾つもの料理の知識がありますから。とはいえ、俺自身は料理を殆ど出来ないので、大体こういう料理だというのを教えて、それを料理人がきちんと完成させていく……という形になりますけど」
「あら、そうなの? 私が聞いた話だと、料理の作り方はともかく、味はしっかりとどんな風なのか理解した上で説明しているという話だったけど」
何気なくアルカディアの口から出た言葉に、レイの動きはまた一瞬止まる。
反射的にエレーナの方を見ようとしたレイだったが、それは意思の動きで無理矢理止めることに成功する。
もし今そのような真似をすれば、アルカディアの言葉を裏付ける証拠になると、そう理解したからだ。
(優しいけど怖い、か。まさにそんな感じだな)
メイドから聞いたアルカディアの人物像に、レイは今更ながらに強く納得する。
人当たりという点では、間違いなくいい。
それは、娘が……ケレベル公爵令嬢にして姫将軍の異名を持つエレーナが、どこの馬の骨とも分からぬ――異名持ちではあるが――冒険者を連れて来たにも関わらず、それを真っ向から否定するような真似はせず、こうして相手をしているのだから確実だった。
改めて、レイはアルカディアに視線を向ける。
その目にあるのは、美しさを称える賞賛でもなく、エレーナより成熟した女に対する欲望でもなく、優しさに対する嬉しさでもなく……半ば得体の知れない者に対する警戒だった。
それこそ、普段であればいつもレイが向けられている視線。
勿論、レイもそのような視線を向けた相手が今まで皆無だった訳ではない。
ベスティア帝国やミレアーナ王国のランクS冒険者といった者達や、ゼパイルが生きている時代から存在し続けている、リッチロードと呼ぶのが相応しいグリム。継承の祭壇でダンジョンの核を守っていた、ボスモンスターの銀獅子。
それ以外にも、今までに理解出来ないと言った存在の者を見たことは皆無という程ではない。
だが……それでも、直接的な戦闘力という点ではその辺の兵士よりも明らかに下だろうアルカディアに、そのようなものを感じるというのは完全に予想外だった。
「あら、どうかした? 折角の美味しい料理が冷めてしまうわよ?」
「……そうですね。どの料理も本当に美味しいですし、冷めてしまったら勿体ないですね」
そう言い、レイはスープをすくったスプーンを口に運ぶ。
レイが今まで飲んだことのあるポタージュというスープは、基本的に日本にいた時のものだ。
それこそ小学校や中学校の給食で出たポタージュや、スープの素のような簡易的なポタージュ、それと冬に自販機で買った、コーンが中々飲み口から出て来ないような、そんなポタージュ。
それらのポタージュは何だったのか。
そう言いたくなるくらい、今レイの口の中に入ったポタージュは美味かった。
「これは、美味い」
数秒前まではアルカディアに畏怖に近い感覚を抱いていたが、レイの中からは綺麗さっぱりと消えてしまっている。
口の中に広がるのは、濃厚な野菜の味と甘み。
それでいながら、滑らかに喉を滑っていくその様子は、幾らでも飲めるのではないかと思える程。
勿論、この料理はポタージュに似ているだけであって、ポタージュではないのだろう。
だが、レイの中では現在飲んでいるこの料理こそがポタージュだと、そう心に刻み込まれてしまった。
「喜んで貰えたようでなによりだ。このスープはゲオルギマ・スープと呼ばれているスープで、名前の通りゲオルギマが作り上げたスープなのだよ。作るのにかなり手間が掛かるらしく、そう食べられるものではないのだが……レイの持つ料理の知識に敬意を表してといったところかな」
「あら、貴方。それはちょっとゲオルギマを美化しすぎよ? 彼のことだから、間違いなくレイを味で唸らせて、新しい料理を教えて貰おうと考えてのことだと思うわ」
そう言ったアルカディアが、テーブルの上に乗っている焼きたてのパン……これもまた、当然のようにゲオルギマが材料を厳選し、焼き上げたものを一口サイズに千切って口に運ぶ。
アルカディアがパンを千切っただけで、周囲には香ばしいパンの匂いが漂う。
見ただけで、柔らかいと理解出来るようなそのパンを、アルカディアは幸せそうに食べていた。
スープとサラダを始めとして、他にも幾つかある軽い前菜とでも呼ぶべき料理が、テーブルの上に広がっている。
それこそ、普通ならこれだけでも腹一杯になるまで食べたいと思わせる、それらの料理。
だが……ここに広がっているのは、あくまでも前菜料理でしかない。
まだ肉や魚を使った、本格的なメインの料理は出されていないのだ。
もしそれらの料理が出された時、レイはそれをしっかりと味わえるのかどうか……そして何より、このような美味い料理は出来れば緊張感がない状態で、見知った仲間達と一緒に食べたいと、そう思うのだった。
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