第1499話

 レイがマルツと共に話して、仕事を始めている頃……マリーナの家では、ようやくアーラが起きてきていた。

 昨日は遅くまでイルゼと一緒にいたこともあり、起きるのは間違いなくいつもより遅い時間となってしまう。

 それに気が付いたアーラは、急いで身支度を調えると、部屋から出る。


「す、すいません。寝坊してしまいました!」

「うん? ああ、おはよう。昨日はイルゼと共に遅くまで起きていたのだろう? 気にする必要はないさ」


 アーラの言葉に答えたのは、テーブルの上の紅茶を飲んでいるエレーナ。

 以前は紅茶を淹れることは出来なかったエレーナだが、レイに美味い紅茶を飲ませたい一心でアーラからその辺を教えて貰い、現在ではきちんと美味い紅茶を淹れることが出来るようになっていた。

 勿論、純粋な腕前ではアーラに及ばないのだが。


「あー……」


 居間にいるのがエレーナだけだというのを見た瞬間、アーラは思い切り崩れ落ちてしまう。

 自分が本当の意味で寝すごしてしまったことに気が付いたからだ。


(すごしやすいというのも、こういう時には恨めしいですね)


 夜遅く……それこそ朝方まで起きていたこと、そしてマリーナの精霊魔法により暑すぎず、寒すぎずといったことがなく、非常に快適にすごせる環境。この二つが合わさった結果、アーラは完全に熟睡してしまったのだ。

 それこそ、この家からエレーナ以外の全員がいなくなるまで。

 アーラはエレーナの護衛……いや、どちらかと言えば付き人に近いが、それでもこの家で世話になっている以上、マリーナ達が出ていく前に起きて、見送りくらいはしたかったというのが、アーラの正直な気持ちだった。

 そんなアーラの様子に、エレーナは再度気にしないようにと口を開く。


「イルゼにつきそうという役目はアーラにしか出来なかったことなのだろう? なら、その仕事を果たしたのだから、ゆっくりと休むのはおかしな話ではない。いや、寧ろアーラに無理をさせて病気にでもなったら、そちらの方が困る」

「エレーナ様……」


 エレーナの言葉に、アーラは感激したといった視線を向ける。


「ほら、マリーナが朝食を用意してくれている。それでも食べて、イルゼの様子を見に行ってはどうだ?」

「はい、そうさせて貰います」


 そう告げると、アーラは席に着き、テーブルにあった料理に手を伸ばす。

 勿論、作ってから時間が経っているので、料理は既に冷めている。

 だが、それでもアーラは特に気にせずに料理を食べる。

 戦場に出ることも多かった身なので、貴族の令嬢ではあっても冷めた料理を食べることに抵抗はない。

 ましてや、今はエレーナと同じテーブルにいるのだ。それだけで、料理が冷めていても非常に美味く感じられる。


「それで、エレーナ様。今日はどうしますか?」


 冷めたパンを、それでも美味しそうに食べていたアーラが紅茶を飲みながら窓の外で飛んでいるイエロを見ていたエレーナに尋ねる。

 尚、庭にいるのはイエロだけではなく、エレーナの馬車を牽いている馬も放されている。

 普通であればこのような真似をすれば馬は庭から逃げ出してしまう。

 だが、エレーナが使っている馬は非常に厳しい訓練を受けてきた馬で、同時に自分達の主人としてエレーナを認識している。

 エレーナもそれを理解している為、マリーナの家の庭で自由にさせても特に不安はなかった。

 庭で遊んでいるイエロも、そんな馬達にじゃれつくようにして、空を飛んでいる。

 普通であれば、子供ではあってもブラックドラゴンとも呼ばれる黒竜のイエロを相手に馬が平気な顔をしてつきあえる訳がないのだが……そもそも、グリフォンのセトと初めて会った時から殆ど怖がる様子を見せなかっただけの度胸を持つ馬だ。

 幾ら竜であっても、子供のイエロであれば特に怖がったりもしないのだろう。

 それどころか、軽く鼻で押してやったり、身体に着地させてやったりといった風に遊び相手にすらなっていた。

 そもそも、エレーナが移動する時は決まって馬車で移動するのだ。

 つまり、イエロと馬は普段から接していることになる。

 これで、お互いの存在に慣れない訳がなかった。

 昨夜の出来事が嘘のような中庭の景色を見ながら、エレーナはアーラの質問に答える。


「そうだな。今日も特に用事がないが……ああ、でも領主の館に向かって昨日の件を知らせてみるのもいいかもしれないな」

「家の外に出るのですか? そうなると、また余計な連中が寄ってくる可能性がありますが……」


 アーラが心配しているのは、この機会にエレーナとお近づきになりたいと考えている者達だ。

 貴族派の面々だけならまだしも、それ以外の派閥の者達……ましてや、三大派閥に所属していない貴族や、何かを勘違いした冒険者といった者達。

 また、それ以上に現在は増築工事の関係で商人が多くやってきている関係もあり、ケレベル公爵家と取引をしたい商人というのは、それこそ幾らでもいる。

 そのような者達が煩わしいと思うのは、アーラとしては当然だった。


「アーラの気持ちも分かるが、一度ダスカー殿には昨夜の件を知らせておいた方がいいと思うのだがな」

「うーん。正直なところ、私としてはそれは出来れば止めて欲しいのですが。エレーナ様の安全の為にも」

「ほう? 私がその辺の者達にどうにかされるように見えると?」

「いえいえ。そうは思いません。思いませんが、エレーナ様の手を色々と煩わせることになると思いますよ?」

「……ふむ。まぁ、アーラがそう言うのであれば止めておくか。ただ、正直なところこのままマリーナの家にいても暇ではないか?」

「それは……」


 エレーナの言葉に、アーラは言葉に詰まる。

 実際、それは間違いのない事実だ。

 マリーナの家にいれば、煩わしい者達の相手をする必要もないが、同時に退屈と戦う必要も出てくる。

 勿論やるべきことがない訳でもない。

 夕食の準備は勿論、普段は精霊魔法で掃除されているが、それでも掃除が出来ない訳でもない。また、ある程度の広さを持つ中庭もあるのだから、戦闘訓練をすることも可能だし、イエロや馬と共に時間をすごしたりといったことも可能だ。

 ……もしレイが今のエレーナの疑問を感じていれば、どこの暇をもてあました主婦だと突っ込んでいただろう。

 もっとも、このエルジィンで主婦というのはそこまで暇なものでもない。

 ある程度のマジックアイテムはあるが、大半が手作業でやる必要があるのだ。

 また、商売なり農業なりをやっているのであれば、そちらの手伝いをする必要もある。

 それこそ、このエルジィンでレイが想像するような主婦というのは、非常に少ない。

 大商人や貴族の妻がそれに当て嵌まるくらいか。

 もっとも、そのような者達もそれぞれ友人達とパーティやお茶会を開いたりといったことを行い、独自のコネクションや派閥を作ったりといった行為をしているのだが。


「おはようございます」


 エレーナとアーラの会話に割り込むように姿を現したのは、普段の美人な顔を一変させるかのように充血した目のイルゼだった。

 その充血した目が何を意味しているのかは、昨夜一緒にいたアーラは当然知っていたし、エレーナもまた容易に想像出来る。

 それだけに、居間にやってきたイルゼを見ても、特にその辺りについて尋ねたりはしない。


「ああ、おはよう」

「おはよう。朝食……というにはちょっと遅いけど、食べる? イルゼの分もあるけど」


 エレーナが短く挨拶し、アーラはそんなエレーナの後でイルゼに挨拶をする。

 その言葉通り、アーラが食べている以外にイルゼの分もしっかりと朝食がテーブルの上に用意されている。

 そんな朝食を一瞥すると、イルゼは一瞬躊躇うも、すぐに頷く。

 本来なら、とてもではないが食欲はない。

 寝起きというのもあるし、寝不足というのもある。だが……何より、長年追ってきた仇のアジャスを自分の手で殺したことにより、何もやる気がおきないというのが正直なところだった。

 レイが今のイルゼを見れば、燃えつき症候群という言葉を思い出すだろう。

 まさにそのような言葉が相応しい様子だった。

 それでも父親、母親、兄という大好きだった三人の仇を討てたのだ。

 燃えつき症候群に近い症状ではあっても、決してマイナスの要素だけではない。


「ええ、食べさせて貰うわ」


 アーラの言葉にイルゼはそう言葉を返し、テーブルの上に置かれていた料理を口に運ぶ。

 アーラが食べた時と同様、どの料理も既に冷めている。

 だが、それでもイルゼはその料理を口に運び……美味しい、と呟く。

 微かにではあるが笑みを浮かべたイルゼを見て、アーラは安堵の笑みを浮かべた。

 エレーナも、紅茶を飲みながらそんなイルゼの様子を見て安心する。


(今は色々と大変だろう。だが、この様子を見る限りでは、そう遠くないうちに立ち直るだろうな)


 それは、エレーナにとっても嬉しいことだった。

 別段エレーナは、イルゼに対して思うところがある訳ではない。

 勿論家族を殺された仇を討ちたいという目的には理解を示しているが、言ってしまえばそれだけの関係でしかない。

 だが……それでも、エレーナにとってイルゼの様子が予想していたよりも良好だということは嬉しかった。


(昨夜、アーラが頑張ってくれたおかげ、か)


 性格的な相性というのは、実際に話してみるまでは分からない。

 レイ達の中でもっとも一般人に近いとしてイルゼの世話を任されたアーラだったが、この二人は意外な程に性格的な相性は良かったらしく、友好的な関係を築いていた。

 もっとも、イルゼが虚脱状態に近かったというのも、そこには影響しているのだろうが。

 それでも今は、アーラと共に小さくではあっても笑いながら言葉を交わしている。

 そんなやり取りを眺めていたエレーナは、朝食が一段落したところで口を開く。


「さて」


 エレーナの口から出たのは、それだけ。

 にも関わらず、その一言はアーラとイルゼの注意を引くには十分だった。


「イルゼ。貴方は長年追っていた家族の仇を討った。それで……これからどうするのか決めているのか?」

「それは……」


 そこまで告げ、イルゼは言葉に詰まる。

 実際、今までイルゼは家族の仇を取る為だけに生きてきたのだ。

 それが叶ってしまった以上、今の自分に何が出来るのか、何がしたいのかと聞かれれば、何も答えることが出来ない。

 胸の中にぽっかりと穴が空いてしまったかのような、そんな感じ。

 アーラと話している時は、それなりに楽しい時間をすごせている。

 だが、アーラとの会話が終わって一人になれば、恐らくまだ虚無感のようなものに襲われるのだろうというのは容易に想像出来た。

 その虚無感を埋める為には、今まで仇討ちに集中していた分を何らかの行為に結びつけなければならない。

 そう分かってはいるのだが、それを行うことが出来ないのだ。

 ……もっとも、だからこそ虚無感と言うのだろうが。


「分かりません。正直なところ、何をすればいいのか、私には……分かりません」


 結局、それがイルゼにとって正直な思いだった。

 エレーナとアーラは、そんなイルゼを見て何も言わない。

 アーラはまだ知り合ったばかりではあっても、この友人が苦しんでいる姿を見て何と言えばいいのか分からず、エレーナはイルゼの気持ちが分かるような、分からないような、微妙な気持ちを抱く。

 エレーナとアーラの二人も、自分と親しい相手を殺されてその仇を討ったことがある。

 その仇も、部下や同僚という、そんな存在だったのだ。

 それだけに、どうしても復讐という行為には色々と思うところがあった。

 ベスティア帝国との戦争でヴェルと戦った経験があるだけに、自分はイルゼと仲良くなったのかもしれない。

 一瞬アーラはそう考える。


「そうか。だが……今胸に抱いている気持ちをそのままにしておくというのは、色々と精神的によくない。そのまま大人しくしていれば、それは結果としてイルゼの心を蝕むだろう。例え空元気であっても、何か行動に移した方がいい」

「……そうですね。ありがとうございます。ちょっと考えてみます」

「ああ、そうしろ。アーラの友人が悲惨な結末を迎える……などということになれば、それはあまり面白くない結末だからな」

「エ、エレーナ様!?」


 突然エレーナの口から出た言葉に、アーラは思わず何かを言おうとする。

 だが、結局それは口には出さずに終わる。

 アーラも、イルゼに友情を感じているのは間違いないのだから。

 そんなアーラの様子を笑みを浮かべて眺めながら、エレーナは言葉を続ける。


「私が言うのもなんだが、イルゼはまだ若い。これから幾らでも楽しいことはあるだろう。そこには悲しいこと、苦しいことといったものもあるかもしれないが、これからも長く続く人生だ。悔いのないように生きるんだな」

「……はい」


 エレーナの言葉に何か思うところがあったのだろう。イルゼは深々とエレーナに向かって一礼するのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る