第1432話

 最初、レルダクトは自分の身に何が起きているのかは、分からなかった。

 回転しながら空中を飛んでいる自分の右腕も、何かの冗談か何かだとすら思ってしまう。

 まさか、貴族である自分にこうも堂々と危害を加えてくる相手がいるとは、思いもしなかったのだ。

 レイが貴族であっても全く遠慮なく攻撃をしてくる危険な相手だというのは分かっていたが、それでも自分は……自分だけは別なのだと、そう思ってしまっていた。

 中立派に所属するレイが、最近友好関係を結びつつあると言われている貴族派に所属する自分に攻撃を加えるとは……と。

 だが、レルダクトは自分に都合のいいことだけを考えており、幾つかの重要な情報が頭の中から消えていた。

 それも、無理はないのだろう。

 実際問題、まさかレイが直接自分の領地に……ましてや領主の館に向かって直接襲撃してくるというのは、レルダクトにとっても全く予想外だったのだ。

 レイを甘く見ていた……という訳ではない。

 まさか個人でこのような真似をするとは、思えなかったのだ。

 勿論、個人でそれだけの能力を持つ者というのはいる。

 だが、やれるということと、やるということでは大きく意味が違う。

 何故。

 それが、空中を飛んでいる自分の右腕を見ながら、レルダクトが思ったことだった。

 だが……そんな疑問も、いつまでも続きはしない。

 次の瞬間には、右肩から血が噴き出し、強烈な痛みがレルダクトを襲う。

 今まで生きてきた中で、全く味わったことのない、強烈な痛み。


「あ……あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 赤くなるまで熱せられた鉄を、身体に押しつけられたような痛み。

 勿論レルダクトがそのような痛みを経験したことはある筈がないが、レルダクトが今感じているのは、正確には痛みというよりは熱さと呼ぶべきものに近い。

 自分でも気が付かないうちに、血が吹き出る右肩を押さえながら床を転げ回る。


「がっ!」


 そんなレルダクトは、次の瞬間、激しい衝撃を受け、空中に浮かぶ。

 ……レイがデスサイズの柄で殴りつけたのだと、そう知らないレルダクトだったが、涙で視界が歪んでいる状況でレイが何かを口にしているのは分かり……次の瞬間、再び灼熱の痛みを感じて悲鳴が上がる。


「ぎゃああああああああああああああああああああああっ!」


 涙と鼻水と涎を垂らしながら床を転げ回るレルダクトだったが、先程レイによって切断された右肩から流れていた血が止まっていることに、気が付くことは出来なかった。

 圧倒的な熱と激痛。その二つにより、レルダクトの意識は何か他のことを考えるだけの余裕を失っていた為だ。

 痛みに喚きながら床を転げ回るレルダクトを一瞥し、レイは呆れたように溜息を吐く。


「お前の指示で殺された奴も大勢いるってのに、お前は片腕をなくしただけでその有様か? もっと貴族らしい毅然とした態度を見せて欲しいものだな。折角出血死しないように傷も焼いて塞いでやったってのに」


 呆れの含まれたレイの言葉だったが、レルダクトがそれに反応する様子はない。

 数分の間、そんなレルダクトの様子を見ていたレイだったが、やがて小さく舌打ちをするとミスティリングの中からポーションを一つ取り出し、レルダクトに掛ける。

 そのポーションは決して高品質なものではなく、店で売られている中でも安物だ。

 それでも、レルダクトが感じている痛みを幾らか柔らげることは出来たのだろう。

 まだ顔には涙、鼻水、涎といったものが付着しているが、それでも何とか痛みが収まったことによりレイに視線を向けることは出来た。


「お前がやってきたことの償いは、この程度で済むとは思うなよ。何人もの人が死んでるんだからな」

「……し、死んだと言っても所詮平民だろう! 貴族である私にこのような真似をして……」

「残念ながら俺にとっては……そしてギルムの住人にとっても、お前程度の貴族よりは商人達の方が重要なんだよ。……まぁ、安心しろ。お前の命だけは取らないように言われてるからな」


 その言葉に、レルダクトは間違いなく安堵の息を吐く。

 少なくても自分の命だけは大丈夫なのだと、そう理解し……次の瞬間、デスサイズが振るわれ、レルダクトの左肩から先が斬り飛ばされる。


「え? ……あ、ああっ、あああああああああああああああああああああああああ!」


 一度右腕を切断されてるだけに、左腕が切断されたということがすぐに分かったのだろう。最初程のタイムラグがないままに、レルダクトは自分が何をされたのかを理解して、痛みに悲鳴を漏らす。

 そうして大量に流れ出る血を止める為、再びレイの魔法により傷口を焼かれ……それでも痛みに慣れるということはなく、顔は涙、鼻水、涎で見るも無惨な姿になっている。

 気高き血筋の貴族だと言われても、とてもではないが信じることは出来ないだろう。

 また、いきなり両腕をなくしてしまったことにより、上手くバランスをとることも出来ない。

 結果としてレルダクトに出来るのは、床の上で芋虫のごとく無残に動くことだけだった。


「何を……殺さないと、そう言ったではないか!」

「そうだな。俺に依頼してきた相手からは、決して殺さないようにとは言われている。……だから、殺してはいないだろう?」


 その時になって、ようやくレルダクトは気が付く。

 目の前にいる人物は、貴族という立場に対して何の尊敬も畏怖も抱いていないのだと。

 それこそ、邪魔になるのであればその辺の雑草のようにあっさりとその大鎌で斬り裂くのだと。

 レルダクトもレイが貴族に対して一片の価値も――正確には自分と敵対する貴族には、だが――見出していないというのは情報として知っていた。

 だが、情報として知っているのと、実際にそれを感じるというのでは、全く意味が違った。

 自分だけではなく、貴族という存在にすら価値を見出していない者というのは、貴族社会の中で生きてきたレルダクトにとっては完全に理解不能の存在……文字通りの意味で怪物にしか思えない。

 レイという存在の危険さを、ようやく本当の意味で理解したのだ。

 そんなレルダクトを眺めつつ、レイは口を開く。


「例え腕の一本や二本なくなっても……死んではいない。そうだよな? 何、安心しろ、まだ足が二本あるだろ?」

「ひっ、ひぃ! ひぃいいいぃいいぃぃぃっ!」


 冗談でも何でもなく、レイは本気で言ってるのだと理解すれば、レルダクトに残っているのは圧倒的な恐怖のみだった。

 今になって、何故自分の護衛を任されていた者達がろくに戦いもせずに逃げたのかということを理解する。

 いや、正確には護衛達が逃げ出した時にレルダクトは意識がなかったのだが、それでも今のレイを見れば護衛達はレイと戦ったりしなかっただろうというのははっきりと分かった。

 レイが襲撃を行う前の、これぞ貴族といった様子のレルダクトは、そこにはいない。

 いるのは、どうにかして目の前にある圧倒的な怪物をやりすごそうとしている一人の男だけだった。

 そんなレルダクトの姿を一瞥し、レイは口をひらく。


「さて、ちょっと聞きたいんだが……お前も伯爵という爵位を持っている以上、当然マジックアイテムの類はあるよな?」


 ビクリ、と。

 レイの言葉にレルダクトは動きを止める。

 そこにあったのは、信じられない相手を見るような目。

 レイが何を要求しているのか、それが理解出来たからだ。

 レイの情報を集めていれば、レイの趣味の一つにマジックアイテムを集めることがあるというのは、すぐに判明する。

 そしてギルムに対して手を出そうとしている以上、ダスカーの懐刀と見なされているレイについての情報をレルダクトが知らない筈がなかった。

 だが、それを知っても、レルダクトはすぐに頷くようなことはしない。

 マジックアイテムというのは、非常に価値の高いものだ。

 日常で使うようなマジックアイテムであれば話は別なのだが、貴族が集めているマジックアイテムというのは当然のように希少価値が高い。

 それをレイにやってもいいのか。

 そう思い、レイの言葉に答えるのに躊躇ってしまったのだ。


「なぁ、今の状況で俺の質問に答えないってのは、どういう意味か……分かるよな?」


 デスサイズの刃を突きつけると、それを見たレルダクトはすぐに頷いて口を開く。


「わ、分かった! マジックアイテムを集めている倉庫は屋敷の奥にある。た、ただし、私の魔力で登録されているから、私が行かなければ開けることは出来ない!」


 このままでは自分が殺される。

 そう思ったレルダクトは、何とかそう叫ぶ。


「なるほど。なら、ちょっと案内して貰おうか。ギルムにちょっかいを出してきたことに対する謝罪の品と考えれば、そんなに悪い話ではないだろ? 命と財産のどっちが大事かで、話は変わるけどな」

「わ、分かっている。だが、私の家で集めているマジックアイテムにレイが欲しがっている物があるとは限らないぞ!」


 両腕を失ったレルダクトだったが、ポーションのおかげで多少なりとも痛みが収まった為か、何とかそう答えることが可能となっていた。


「その辺は、俺の方で判断させて貰う。……案内しろ」

「待て、私に案内しろと、そう言うのか?」

「当然だろう? そもそも、お前の魔力がなければマジックアイテムが収められている場所に行けないというのなら、それはおかしな話じゃないと思うが?」

「だが、今の私の状況を見ろ! とてもではないが、身動き出来る状態では……」

「飛斬」


 自分が身動き出来る状態ではない。

 そう言おうとしたレルダクトのすぐ横を、デスサイズから放たれた斬撃が飛んでいく。

 もしレルダクトに腕があれば、恐らく切断されただろう。

 それ程の近い場所を、斬撃が飛んでいったのだ。


「……」


 まだ涙や涎、鼻水といったものが乾ききっていないレルダクトの顔だったが、そこに新たに冷や汗が付け加えられる。


「もし案内出来ないというのなら、お前の足は用済みだな。……どうする? 俺はどっちでも構わないが。ああ、安心しろ。命だけは奪わない。それは依頼主からの要望だし、間違いなく守る」


 笑みを浮かべてそう告げるレイだったが、レルダクトはその笑みというのがどれだけ自分に恐怖を与えるのかを理解する。


「行く! 行きます!」


 貴族としての高いプライドを持っていたレルダクトだったが、レイの笑みを見た瞬間、自然と敬語になっていた。

 今更ながら……本当に今更ながら、お互いの間にある絶対的な存在の格の差とでもいうべきものに気が付いたのだろう。


「そうか、なら行くか。……ほら、さっさと案内してくれ」


 両腕がなくなった影響で立ち上がるのに苦労しているレルダクトを、レイは強引に立ち上がらせる。


「ぐあっ!」


 だが、その衝撃により、焼かれた両肩から痛みが走ったのか、レルダクトの口から悲鳴が上がった。

 痛みの大半はポーションで抑えてはいるのだが、それでも完全にという訳ではない。

 ましてや、レルダクトは貴族として育ってきた関係上、痛みというものに慣れてはいなかった。

 それでもレイはレルダクトに対して容赦する気は一切ない。

 レルダクトがギルムに出してきたちょっかいにより、何人もの商人が命を落としているのだ。

 レイが認識している以外にも、何組もの商隊が襲われているのは間違いない事実であり、その者達は皆殺しになっている。

 また、このレルダクト伯爵領でも重税により暮らしていくのがやっとという有様だ。

 重税であるが故に反乱軍というものすら生まれている。

 直接的、間接的に今までレルダクトが殺してきた者の人数を考えれば、とてもではないが優しく扱う気持ちにはなれない。


(まぁ、直接的にしろ間接的にしろ、殺した人数の多さという意味では、俺の方が上だろうが)


 ベスティア帝国との戦争、ベスティア帝国の内乱、何度となく襲撃した盗賊。

 それこそ、純粋に奪った命の数で考えれば、レイの方がレルダクトよりも圧倒的に上だろう。

 だが、そんなレイとレルダクトでも、決定的に違うところがある。

 レイが人の命を奪ったのは、戦場での戦いや盗賊を相手にしてのものが殆どであり、普通の人間を相手にしてのものではない。


「こ、こっちです」


 両腕を失い、バランスを取るのが難しいのだろう。

 まるで酔っ払いの千鳥足……とまではいかないが、それに近いような足取りで進むレルダクト。

 レイはデスサイズを収納し、狭い場所では非常に使い勝手のいいネブラの瞳をいつでも使えるようにしながらレルダクトの後を追う。

 だが、レイにとっても、そしてレルダクトにとっても幸いなことに、レルダクトを助けようとレイに向かって襲ってくる者はいなかった。

 何人かの使用人とは遭遇したのだが、レルダクトの様子を見て、そしてレイの姿を見ると即座にその場から走り去る。

 ……それは、レルダクトがどれだけ下の者に慕われていないかということの証明でもあった。

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