第1373話
「レイ君、いる!?」
そんな声が響いたのは、夕暮れの小麦亭の食堂。
外が薄暗くなりかけている、夕食や宴会をするのに相応しい時間。……もっとも、宴会はそれこそ昼間から飲んでいる者もいるのだが。
ただ、夕暮れの小麦亭にあるのは基本的に食堂であって、酒場ではない。
勿論酒も出してはいるが、それはあくまでも食事に付属するものとしてだ。
酒を飲んで騒ぎたい者は、酒場にいって自由にどうぞというのが夕暮れの小麦亭のルールだった。
ともあれ、それでも食堂が食事時ともなれば宿の宿泊客以外にも客が集まるのは、それだけ夕暮れの小麦亭で出される料理が美味いからだろう。
今も、多くの客達がそれぞれ食事を楽しんでいた。
そんな場所にやって来たのが、ケニー。
叫び声が聞こえた周囲の客達の中には冒険者もおり、当然ケニーのことを知っている者もいた。
元々受付嬢として高い人気を誇るケニーだ。その顔を知らない冒険者の方が少ないだろう。
「ケニーちゃん、どうしたんだ? 良かったら俺と一杯……」
「はいはい、ごめんね。今はそれどころじゃないの。レイ君はどこ?」
ケニーを酒に誘おうと思った冒険者の男だったが、いつものように余裕たっぷりに返されるのではなく、切羽詰まった様子に顔を若干のアルコールで赤くしながらも真剣な表情を浮かべる。
冒険者として酒を飲む機会は多く、それだけに夕暮れの小麦亭で出されるような少量の酒くらいでは、飲んだところで酔っ払うまではいかなかった。
……もっとも、当然のようにアルコールは本人の思考に影響を与えているのだが。
「何かあったのか?」
「ええ。それで、レイ君は?」
それ以上は何を聞いても教えられないと思ったのか、男は無言で食堂の奥に視線を向ける。
それに釣られて視線をそちらに向けたケニーは、そこでレイとヴィヘラ、ビューネ……そしてマリーナまでもが仲良く食事をしている光景を見て、ピクリと眉を動かす。
レイ達が紅蓮の翼というパーティを組んでいる以上、一緒に食事をしていてもおかしくはない。
ましてや、マリーナ以外は全員がこの宿に泊まっているのだから。
(それだと、何でマリーナ様がここにいるのかが気になるけど)
マリーナが貴族街に屋敷を持っているというのは、当然ケニーも知っている。
そのマリーナが何故? と、若干不機嫌な思いを抱いてしまう。
理屈では分かっていても、レイに想いを寄せている乙女としては視線の先の光景に色々と思うところがあった。
だが、すぐに自分が……レノラではなく、猫の獣人で運動神経のいい自分が派遣されたことを思い出し、そちらに近付いていく。
レノラも決して運動神経が悪くはないが、それでもやはり純粋な身体能力という意味では猫の獣人のケニーには敵わない。
そして夜になる頃……つまり仕事で街の外に出ていた冒険者達が戻って混み始めたこの時間、馬車を使う訳にもいかなかった。
だからこそ、純粋に足の早いケニーがこの場に行くことを頼まれたのだ。
現在の状況に色々と思うところはあるのだが、それでもやはり今は仕事を果たす方が先だった。
「レイ君」
「……んぐっ。ケニー? どうしたんだいきなり?」
長時間煮込まれ、口の中で噛んだ瞬間に解れた肉を飲み込んだレイが、テーブルの近くに来たケニーを見てそう声を掛ける。
いつもであれば、レイに声を掛けられたケニーは笑みを浮かべて会話を交わすだろう。
寧ろ自分の魅力をアピールすることも忘れない。
だが、今レイの前にいるケニーは、そんなことはせず真面目な表情で口を開く。
「レイ君、ちょっと緊急の依頼があるの」
ケニーの口から出て来た真面目な声に、何かふざけているような状況ではないと判断したのだろう。
レイも真面目な表情で改めて口を開く。
「随分と物騒な依頼だな。……具体的には?」
一瞬緊急の依頼ということで、周囲に人が多いこの食堂で聞いてもいいのか疑問に思ったのだが、ケニーは周囲の状況にも関わらず口を開く。
今はそれを気にしていられる時間がないと、そういうことなのだろう。
「樵の人達が、少し前にギルムを出ていったの。恐らくだけどトレントの森に向かったと思われるから、至急迎えに行って欲しいのよ」
「……は?」
ケニーの口から出た言葉に、レイは間の抜けた声を出す。
夜になればモンスターの動きが活発になるというのは、常識以前の問題だ。
ましてや、ここは辺境のギルム。周辺にいるモンスターは、普通の村や街とは比べものにならない。
そして何よりレイを驚かせたのは、樵達が向かったのがトレントの森だということだった。
「トレントの森の危険性は、教えなかったのか?」
「勿論、言ってあるわ。けど……樵の人達はそれを信じなかったのか、それとも何かあっても自分達でどうにか出来ると思っているのか……」
黙って首を横に振るケニーを見れば、レイもそれ以上のことは言えない。
危険があると、そう理解しているにも関わらず、何故このような馬鹿な真似をするのか。
それがレイには全く理解出来なかった。
勿論、普段から斧で木を切っている樵だけあって、その力は普通よりも強い。強いのだが……それはあくまでも木を切る能力に対してであって、戦闘する為の筋力という訳ではない。
ましてや、今のトレントの森は夜になれば非常に危険な場所になる。
現に、二つのパーティが壊滅しているのだから。
しかもそれは、あくまでも現在分かっているだけだ。
実際にはもっと多くの冒険者が森に襲われ……いや、喰われてしまっていてもおかしくはない。
「とにかく、そんな訳で急いで樵の人達の救出に向かって欲しいの。本来ならもう正門は閉じてるんだけど、ギルドマスターの方で特別に許可を出して貰ったわ」
渡された書類には、ケニーの言葉通り門を開けることをギルドマスターの名に於いて許可すると書かれていた。
ご丁寧なことに、ダスカーのサインまで入っている。
(まぁ、この時間に正門を開けるんだし、ワーカーだけの判断じゃ無理……とは言わないけど、念には念を入れておいた方がいいってことか)
目の前にある肉の煮込み料理を残念そうに見つめ、レイは立ち上がる。
正直なところ、自分から死地に飛び込んでいったような樵達に、思うところはあった。
だがそれでも、トレントの森をこれからどうするのかというのを考えた場合、樵の数が減るというのは絶対に良くないことなのは間違いない。
そもそも、ギルムにいる樵は普通の街に比べるとそこまで多くはない。
何故なら、樵の仕事……木を伐採するには、ギルムの外に出なければいけない為だ。
トレントの森はともかく、普通の森や林であれば昼間からモンスターが出てくるのも珍しい話ではない。
冒険者程に危険はなくても、そのような仕事をやろうと思う者は決して多くなかった。
それだけに、ただでさえ多くない樵をこのような場所で失うのは避けたい。
何故こんな馬鹿なことをと思わないでもないが、今はとにかくその樵達を救うのが先だった。
そしてレイが立ち上がると、マリーナ、ヴィヘラ、ビューネの三人も立ち上がる。
「うん? お前達も行くのか?」
「ええ。そもそも、樵の護衛をしにいくんでしょ? いえ、救出かしら。なら、人数は多い方がいいと思うけど。そうよね?」
ヴィヘラがケニーに尋ねると、ケニーはすぐに頷きを返す。
「正門の担当をしていた警備兵から聞く限りだと、出ていった樵の人数は十人を超えてるらしいわ」
「ほらね? それだけの人数をレイとセトだけでどうにかするのは、難しいでしょ。幸い私やマリーナならセトの足に掴まって移動出来るわ。……ビューネ、貴方は残りなさい」
「ん!」
ヴィヘラの言葉に、ビューネは抗議の声を上げる。
自分も行くのだと、そう思っていただけに不満なのだろう。
だが、ヴィヘラはビューネに言い聞かせるように言葉を続ける。
「私とマリーナは、もうセトの足に掴まって飛ぶという方法をこれまでにも何度か試しているわ。けど、ビューネはまだセトに掴まって飛んだ経験がないでしょ?」
「……ん」
その言葉には言い返せなかったのか、ビューネは黙り込む。
(ビューネくらいの小ささならセトの上に乗せて飛ぶことも出来るんだけど……ここは言わない方がいいか)
純粋な戦闘力という意味では、ビューネはそれ程強くはない。
いや、冬の間の訓練で盗賊としてはそれなりに高い戦闘力を有するようになったビューネだったが、それはあくまでも一般的な盗賊としての話だ。
ヴィヘラやマリーナ……そして何より自分と比較すれば、ビューネの戦闘力は他の盗賊達とドングリの背比べだというのが、レイの感想だった。
相手がどのようなモンスターなのか明白な時ならまだしも、トレントの森はその辺が色々と怪しい。
スレーシャから聞いた限りでは、トレントの森という言葉通りトレントが相手なのではないか……そうも思っていたのだが、昨日襲撃されたと思しきパーティの存在を考えると、そう考えるのも難しい。
そこで襲撃されたにも関わらず、セトに臭いを感じさせないというのはトレントに出来るようなことではなかった。
「悪いな、ビューネ。お前はここに残ってくれ。もし何か新しい情報が入ったら、この宿に知らせが来ると思うからその受け取りを頼む」
ビューネでそういう情報の受け取りが出来るのか……より正確には、情報を持ってきた相手と意思疎通出来るのかといった疑問はあったのだが、少なくても今はビューネにそう言い聞かせることにする。
ビューネもそんなレイの態度に気が付いたのか、それとも気が付いていないのか……その辺りは分からないが、それでも今は異論を口にせず頷きを返す。
それを見て、レイは改めて立ち上がる。
幸いにもと言うべきか、今日はまだマリーナもヴィヘラも酒を飲んではいない。
元々レイが酒を好まないだけに、マリーナやヴィヘラもあまり酒を飲まないようにしていたのがよかったのだろう。
多少ではあっても酒を飲んだ者を、何か起こるか分からないトレントの森に連れていこうとは、レイは思わないのだから。
そうして話が決まると、レイは近くのテーブルに座っていた冒険者達……夕暮れの小麦亭を定宿にしていて、レイとも顔見知りの男に話し掛ける。
「この料理、よければそっちで食ってくれ」
「え? いいのか? いやまぁ、くれるっていうんなら、こっちも喜んで貰うけど」
レイ達が座っていたテーブルの上にあった料理は、まだあまり食べられていない。
料理によっては、全く手を付けられていないものもあった。
人によっては、手を付けた料理なんて絶対に食べられないといった者もいるが、幸いこの冒険者達は特にその辺りに拘りはなかった。
もっとも、冒険者として活動しているのであれば、人の食べている料理を食べるというのは普通にあることだ。
寧ろ、それを嫌がるような者が冒険者として活動するのは不可能だろう。
「ああ。残念ながら、俺達は用事があるからな。……それぞれ、準備を整えてくれ。マリーナは……」
レイが言葉を止める。
現在のマリーナの服装は、いつものようにパーティドレスだ。
以前にレイと共にセトの足に掴まってトレントの森に向かった時のように、ズボンを履いている訳ではない。
もっとも、昼とは違って夜は暗い。
パーティドレスで空を飛んでも、下から覗かれる心配はない。
……それでも、パーティドレス姿で空を飛ぶといった真似をしたくないというのは、マリーナの女としての矜持なのだろう。
また、短時間であっても空を飛ぶのにパーティドレス姿は向いてはいない。
だが、ここから貴族街にあるマリーナの屋敷に向かって着がえてくるとなれば、相応の時間が掛かる。
少なくても樵達の命が懸かっている状態では、そんなことに時間を使うのは避けたい。
少し迷うレイだったが、そんなレイに対してマリーナは首を横に振る。
「幾つかの服をヴィヘラの部屋に置かせて貰ってるから、こっちもすぐに準備が出来るわ。弓と矢も持ち歩いているし」
ギルドマスターとして働いていた時はともかく、今のマリーナは冒険者だ。
そうである以上、いざという時、すぐに行動に移せるようにしておくのは当然だった。
「分かった、ならそういうことで。……ケニー、その樵達を率いてるのは?」
「フェクツという名前の樵ね。若手の中では中心人物的な存在で、人望も厚いし樵としての腕も確かよ。……ただ……」
言いにくそうに言葉を濁すケニーだったが、これからそのフェクツを助けに行って貰う以上、情報は話しておくべきと判断し、再び口を開く。
「その、冒険者嫌いとして有名な人物らしいわ」
「……ああ」
ケニーの言葉で、昼間のことを思い出す。
冒険者を睨み付けていた樵がいたことを思い出したのだ。
フェクツと仲間に呼ばれていたのも思い出し、その人物で間違いないと確信する。
「分かった、そいつなら顔も覚えてるし大丈夫だ。ただ、冒険者嫌いとなると色々と面倒になる可能性もあるけど……」
「その辺は多少強引でも構わないそうよ。安全の確保を最優先にしてちょうだい」
ケニーの言葉に頷き、レイは準備を整えるべく行動を始めるのだった。
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