第1331話
スラム街での一件が終わった後、レイ達は当然のようにスラム街を出ていた。
そもそもスラム街に向かったのは、プレシャス達にプレッシャーを掛ける為であり、それが成功した以上、スラム街にいる必要性を感じなかったからだ。
スラム街は当然のように治安が悪く、何が起きるか分からない。
……もっとも、レイが来たという話は情報として素早く広まっているので、実際には余程情報に疎い者か、スラム街にやって来たばかりの者でもなければレイにちょっかいを出すような奴はいなかったのだが。
だが、不幸にも……スラム街の者達にとっては幸運にもと言うべきだろうが、レイは自分の情報がそこまで素早くスラム街に広まっているというのは知らなかった。
マリーナは元ギルドマスターとしてその辺りの情報は知っていたが、これ以上スラム街にいると色々と不味い出来事が起きそうだという判断から黙っていた。
「それで、プレシャスを半ば脅した訳だけど……これからどうするの? 正直なところ、今回の件で向こうはかなり慎重になると思うんだけど」
「そうだな……あ、ちょっと待った。少し喉が渇いたし、果実水でも飲まないか? ほら」
ヴィヘラの言葉に答えようとしたレイが視線を向けたのは、通りで果実水を売っている屋台。
春の果実を使った果実水は、この時季だけの限定品だ。
それを飲みたいと思ったレイは、そんなにおかしくはないだろう。
喉が渇いたというのも事実なのは間違いないのだから。
ヴィヘラやマリーナもレイの意見に異論はなく、ビューネは寧ろ率先して果実水を飲みたいとレイのドラゴンローブの裾を引っ張る。
セトはといえば、既に屋台に向かって歩いていた。
そうして屋台で果実水を買う。
「いらっしゃい。うちの果実水は美味しいよ。冒険者に採ってきて貰った果実を使っているんだ。それも、少し離れた森の中のかなり深い場所にある果実をね。しかも果実水を入れてある容器も特注品で、味が中々落ちないんだ」
「へぇ……なら、そうだな。全部くれ」
「うん? ああ、全種類かい? じゃあ……」
レイの言葉に、店主は早速果実水の入った入れ物に手を伸ばし……だが、レイは店主の行動に首を横に振る。
「いや、全種類じゃない。全部だ。ここにあるだけ全部。……ああ、勿論一人に売れる量が決まってるんなら、それでいいけど」
「は? え? ぜ、全部!? 本気かい!?」
男は、恐らくこの春にギルムにやって来たのだろう。
元からギルムにいる者であれば、それこそレイが屋台の食べ物を全部買うのは珍しい話ではないのだから。
もっとも、中にはレイだけではなく他の人にも自分の料理を味わって貰いたいと、一人に売る量を制限している屋台もあるのだが。
レイが売れる量が決まってるなら……と口にしたのは、それが理由だ。
だが、幸いこの屋台の店主は売れればそれでいいという主義だったらしく、喜んで果実水を全てレイに売ってくれた。
元々生活があったり、何よりギルムに来てからそれ程経っていないこともあり、取りあえず売れるのなら全部売ってしまおうという魂胆だろう。
「毎度ありぃっ! また、いつでも来て下さいね!」
店主は去っていくレイ達を満面の笑みを浮かべて見送る。
そしてレイ達がいなくなってから、空を見上げた。
まだ日は高く、今日という日が終わるまでにはかなりの時間がある。
果実の在庫はまだ幾らかあるから、それを使ってまた果実水を作ってもいい。
それとも、今日はいっそこのまま酒場に向かって昼間から酒を飲むという贅沢を楽しむか。
そんなことを考えながら、不意に訪れた幸運を楽しむべく行動に移すのだった。
屋台の店主が喜んでいるのを知ってか知らずか、レイはマリーナ達と共に道を歩く。
果実水は十分に美味かったのだが……それでも、レイは少し不満そうだった。
以前飲んだ果実水は、マジックアイテムによって冷やされていた。
だが、先程の屋台の果実水は、生温かったのだ。
勿論、マジックアイテムは高価だというのは分かっているし、それこそ普通なら屋台で使える物ではないというのも知っている。
しかし、前にそのような光景を見たからには、どうしてもそう思ってしまうのは仕方のないことだった。
(温いなら冷たく……ああ、こういう時こそミスティリングを使えばいいのか)
ふと、思いつく。
元々ミスティリングは中に入った物の時を止めるという効果がある。
だからこそ、ミスティリングから取り出した料理は、いつでも出来たてのものなのだから。
つまり、温かい料理が温かいものであれば、冷たいものは冷たいままということになる。
それこそ、冬に果実水を雪で冷やして、そのままミスティリングの中に入れておけば、夏に冷えた果実水を……それどころか、凍っていればシャーベットすら楽しめるのではないかと。
(いや、果実水はそこまで果汁が入ってる訳じゃないから、凍らせてもシャーベットにはならないのか? アイスってどうやって作るんだったか。牛乳を冷たくして振り回す?)
バターとアイスの作り方が混ざっていることを考えていたレイは、視線の先に知り合いの姿があることに気が付く。
そして知り合いは、そのまま真っ直ぐにレイ達へと向かってくる。……否、セトに向けて突っ込んで来る。
「セトちゃん、大丈夫だった!? 何だか私が護衛依頼でいない間に危険な目に遭ったって聞いたけど!」
レイ達など眼中にないと言いたげな、そんな様子の人物……ミレイヌに、少しだけレイは呆れの視線を向けた。
もっとも、そのような視線を向けられているミレイヌは全く気にした様子もなくセトを愛でることに全力を尽くす。
だが、それも無理はないだろう。
アジモフが襲撃を受けた時、ミレイヌはいなかった。
ミレイヌが率いる灼熱の風は、ギルムにいる若手の中でも出世頭と見なされている。
……出世頭ということなら、それこそレイもいるのだが、レイは色々な意味で例外的な存在なのだろう。
一般的な冒険者であれば、レイではなくミレイヌを目指すのが当然だった。
そんなミレイヌの率いる灼熱の風だけに、当然この時季になれば様々な依頼が殺到する。
中には今のうちに灼熱の風と繋ぎを作っておきたいと考えている者や、何をとち狂ったのかミレイヌを自分の妾にしようと考える者もいる。
(いや、別にとち狂った訳じゃないのか)
レイの前では……正確にはセトの前では甘々な感情を表に出すミレイヌだが、それはあくまでもセトの前でだけだ。
普段のミレイヌはマリーナやヴィヘラ程ではないにしろ、誰が見ても美人だと断言出来るだけの美貌を持っている。
それでいて灼熱の風を率いているだけあって、冒険者としても有能だ。
今はまだランクCパーティだが、近い内にランクBパーティになるのではないかと、そう噂されている。
美人で腕の立つ人物。性格も……セトの件を抜きにすれば、全く問題はない。
そう考えれば、ミレイヌを妾にしようと考える者が出て来てもおかしくはないだろう。
だが、当然ミレイヌはそのような人物は相手にしない。
力づくで何かをしようとした相手は、それこそ灼熱の風の有能さをその身を以て知ることになってしまう。
ミレイヌも、セトのいるギルムから離れて誰とも知らない男の妾になるつもりは全くない。
それこそ、レイが自分に言い寄ってくるのであればセトを目当てに検討しないでもないのだが。
しかし、レイが自分を見る目にはそのような色がないのは分かっていた。
「あー……こうしてセトちゃんを愛でてる時が、生きてる時ってしみじみ思うわね」
……蕩けた顔でセトに頬ずりをするミレイヌを見て、そのような気持ちを抱けという方が無理なのだが。
「で、ミレイヌは護衛依頼を終えて真っ先に俺達に……セトに会いに来た訳か」
「当然でしょ。ヨハンナも別の護衛依頼で今はギルムにいないって話だし……今この時にセトちゃんを愛でないで、どうするのよ!」
蕩けた顔から一転、拳を握り締め、天に掲げながら叫ぶミレイヌ。
周囲でその光景を見ていた者達は、多くの者がそんなミレイヌの様子に拍手する。
ギルムに住んでいる者であれば、ミレイヌとヨハンナのセトを巡っての愛憎劇は有名だ。
それこそ、見ている分には面白いのだから当然だろう。
セトも自分と一緒に遊んでくれたり、食べ物をくれるミレイヌやヨハンナには懐いており、誰も迷惑はしていない光景。
いや、セトと一緒にいるレイだけは、何度もそのような光景を見せられて思うところがない訳でもなかったが。
「そうか。……まぁ、今日やるべきことはもう終わったしな。ミレイヌと会って気も抜けたし、別にいいか」
今日の予定は、プレシャスに対して精神的な圧力を掛け……そして何か証拠が出ればいいと、そういう思いだった。
だが、レイ達が姿を現してすぐに向こうが行動に出るかと言えば……
(難しいだろうな)
自分を前にしても、そして飛斬を地面に放った時も、プレシャスは特に動揺した様子を見せはしなかった。
であれば、わざわざ自分が怪しまれていると……そしてレイ達が動いたその日に突然動くような真似はしないだろうという思いもある。
もし仮に動いたとすれば、情報屋が……もしくはレイ達に今回の件を教えてくれた裏社会の男が動いてくれる可能性は十分にあった。
普通なら裏社会の人間をそこまで信用してもいいのか? と思うのだろうが……レイは自分の実力を知っている。そうである以上、裏社会の人間が自分に対する印象を良くしたいと、そう思ってもおかしくはないと判断していた。
特に今回の件は、レイ達と関わった裏社会の人間にすれば、自分のところの新人がレイに向かって喧嘩を売った形だ。
そうである以上、少しでもレイの機嫌を取る必要がある。
それこそ何か情報があるのなら、すぐにでもレイに知らせるように。
レイ本人は裏社会の人間と直接揉めたことは殆どないのだが……それだけ、レイの持つ力というのは色々な意味で恐れられているのだろう。
また、裏社会側もレイと良好な関係を築きたいと、そう思っている者は多い。
そのような理由から、今は少しくらい気を抜いていいだろうと判断したレイは、セトに抱きついたまま持ち上げられているミレイヌを引き連れ、大通りに向かう。
ギルドに向かう訳ではなく、何か買い物をするつもりでもない。
冬に雪合戦をやった場所が公園になっている以上、そこでなら多少遊んでも構わないだろうと判断した為だ。
「ミレイヌ、落ちたりするなよ」
「落ちる訳ないでしょ。私はセトちゃんに乗ってるのよ? なら、これ以上安全で安心な場所はないわ」
自信に満ちた声で告げるミレイヌに、マリーナとヴィヘラが笑みを浮かべる。
嘲笑の類ではなく、純粋に微笑ましいと、そう思っている笑み。
全長三m程にまで成長しているセトなので、その背に乗っているミレイヌは巨大なヌイグルミに掴まっている人形のようにすら見える。
そう考え……レイは少し落ち込む。
自分よりも背の高いミレイヌがそんな様子であるのなら、自分が乗ったらどうなるのかと。
(俺もいつもはこういう風に見えてるのか?)
それが少しショックだったのだ。
だが、レイ以外の者達にとって、それは今更すぎることだろう。
セトに乗るレイというのは、ギルムでは最早普通の光景なのだから。
「あー! セトちゃんだ、セトちゃん! ミレイヌお姉ちゃんだけ乗ってるー! あたしも乗せてよー!」
空き地に向かって進んでいると、当然のようにその姿は目立つ。
セトに乗っているミレイヌを羨ましがり、多くの子供達が近寄ってきた。
「だーめ。これは私のご褒美なんだから」
「……いつご褒美になったんだかな」
少し離れた場所を歩きながら、レイはミレイヌの言葉にそう返す。
だが、小声だったこともあり……そして何より、ミレイヌがセトを愛でるのに集中しているせいで、その声は聞こえなかったらしい。
もっとも、聞こえていてもミレイヌの場合は堂々と自分がセトと共に遊ぶ権利を主張してくるのだろうが。
そうなれば色々と面倒なことになっていたのは間違いない。
「レイ、今日は遊ぶって決めたんでしょ? なら、あまり考え込まないで、少しゆっくりした方がいいんじゃない?」
レイの隣を進むマリーナの言葉にレイは頷き、被っていたドラゴンローブのフードを脱ぐ。
フードを被っていたので今まではそこまで眩しくなかったのだが、今は太陽の光が直接レイの顔に当たる。
春の柔らかな日射しだから、そこまで眩しいという程ではないのだが……
(いや、気分的なものか?)
夏の太陽と春の太陽。
その違いに思いを馳せながら、レイは取りあえず今日はゆっくりすごすことにするのだった。
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