第1332話

 レイ達が去っていった後、プレシャスの姿は再び建物の中にあった。

 だが……現在部屋の中に漂う雰囲気は、レイ達が来る前とは大きく変わっていた。

 まず、スレインの影武者としてプレシャスと共にいた男は、見て分かる程に疲れ切っている。

 特にレイを相手に何かした訳ではない。

 軽く……そう、本当に軽く話をしただけなのだが、それでもこの有様だ。

 ましてや、この建物の護衛としてレイの周囲にいた者達は、立つのもやっとといった雰囲気だった。


「あれが……異名持ちの……」


 そう呟いたのは誰だったのか。

 その辺の相手であれば、向き合った程度でここまで疲れるようなことはないだろう。

 だが、相手が異名持ちのレイであれば、話は違う。

 普段から高ランクモンスターとも戦っている人物だけに、レイから放たれるプレッシャーや殺気というのは裏社会の人間で荒事に慣れている人物であっても、耐えるのに非常に気力が必要だった。


「……どうだ? あれがお前が甘く見ていた人物だ」


 スレインが、椅子に座りながら目の前のプレシャスに向かって告げる。

 甘く見ていたツケだと、そう言いたげなスレインに、プレシャスは苦笑を浮かべるしかない。


「正直予想以上ではありましたが……それでも、私がやるべきことは変わりません。トリスさんの方に手を回して貰えますか?」

「待て」


 プレシャスの言葉に、スレインは即座に言葉を挟む。

 そして、どうしました? と不思議そうに自分を見ているプレシャスの姿に、目の前の人物は本気で言ってるのだと……レイが現れ、釘を刺してきたのにまだ敵対しようとしているのだと理解する。


「お前、本気か? 本気であのレイを敵に回してまだ行動するつもりか? まだお前が怪しまれていないのならいい。だが、さっきの向こうの様子を見る限り、明らかにお前は怪しまれてるんだぞ?」

「そうでしょうね。そもそも、トリスさんが私が怪しいとレイさんに教えたのでしょうし。……ですが、安心して下さい。勿論私もレイさんを敵に回そうなどとは考えていませんので」


 プレシャスの目から見ても、レイというのは一種の異常者……というのは言いすぎだが、それでも自分とは全く違う理で生きている相手だというのは理解出来た。

 そのような人物を相手にして、わざわざ自分から手を出すような真似はしたくない。

 それに、今のままであればレイに手を出す必要も、特にないのだ。


「違う!」


 だが、そんなプレシャスの考えを遮るようにスレインが叫ぶ。

 そこにあるのは、恐怖。

 昨日までであれば……いや、ほんの数時間前までであれば、プレシャスがまだトリスに手を出すと聞いても、ここまで反対はしなかっただろう。

 しかし、今は不味い。

 何故なら、レイが自分達の存在を把握してしまったからだ。

 もし今の状況で下手にレイと敵対しようものなら、向こうは即座に倒すべき敵として自分達を把握するだろう。

 そして敵対した相手にレイが容赦をするということは、まずない。

 レイに絡んで喧嘩を売った程度であれば、怪我はするかもしれないが命の心配まではいらないだろう。

 だが……今回は違う。

 先程の件で、自分達の存在を認識してしまっているのだ。

 この状況でレイと敵対しようものなら……それも錬金術師を襲撃した件が向こうに知られれば、間違いなくやってくる。

 深紅と呼ばれ、一軍とすら互角に戦えるだけの力を持つ者が自分達を殺しに。

 そんな状況になれば、とてもではないがどうにか出来る自信はない。

 だからこそ、プレシャスの言葉を遮るように叫んだのだ。


「レイと敵対した。それはいい。まだ向こうはこっちを認識してなかったんだからな。けど……今は駄目だ。とてもではないが、今の状況でこっちは動きを見せることが出来ない」

「……何故です? レイさんに仕掛ける訳ではないのですよ?」

「もうそんな話じゃねえんだよ。……ったく、分からねえのか? 今の俺達に出来るのは、すぐにこの場を撤退することだ。何とかレイに見つからずに……いや、さっきの様子を見る限りだと、今ならまだ見つかっても手を出してはこないだろう」


 スレインはすぐにでもギルムを出ていくべきかと考える。

 本来であれば、プレシャスに自分の……そして自分達の雇い先を紹介して貰い、その上で今回の件の報酬と共にギルムを出ていくつもりだったのだが……レイと敵対し、更にはまだトリスに手を出そうとする相手に付き合ってはいられない。

 もしこのままプレシャスと行動を共にしようものなら、自分も破滅に巻き込まれてしまう。

 そんなことは、絶対にごめんだった。

 プレシャスによる新たな就職先の紹介を諦めるのは残念だが、このまま共に絶望に落ちるというのは絶対に許容出来ない。

 ましてや、今のままだと自分の部下達もそれに巻き込んでしまいかねないのだから。


「スレインさん? 何を言ってるのですか? それではまるで……」

「ああ。ギルムを出る。出来れば今すぐ、今日これからでもギルムを出たいところだが……」

「兄貴、それは色々と不味いです。他の組織との間に約束がありますから」


 スレインを兄貴と呼んだのは、影武者としてレイの前に立った男。

 そんな男の言葉に、スレインは分かっていると苛立ちを隠すように頭を掻く。


「分かってるよ。それに、俺と一緒にギルムを出ていきたいって奴もいるしな。それに他の場所に派遣してる奴が戻ってくるまでにも時間は掛かるし」


 プレシャスの伝手を頼ってギルムを出ていくつもりのスレインだったが、物好きにも自分と一緒にギルムを出ようとしている存在がいる以上、そのまま放って置く訳にもいかなかった。

 スレインにとっては正直なところ、何を好き好んで自分と一緒に……と思わないでもなかったが、それでも自分を慕っている相手を残していく訳にはいかない。


(ましてや、こうして明確にレイと敵対してしまった以上はな。……本来なら、表だって敵対するつもりはなかったってのに)


 アジモフの件で自分達がレイに狙われているというのは知っていた。

 だが、それでも以前運良く入手したマジックアイテムで臭いを誤魔化すことが出来たのだから、自分達のことが知られるとは思わなかったのだ。

 にも関わらず、プレシャスがトリスの行動に手を焼いてそちらをどうにかしようと……そこまで考え、スレインは首を横に振る。


(いや、こいつがそのくらいのことを考えない筈がない。そもそも、俺達に用事があるなら別に本人がこうして出向く必要もないんだからな。だとすれば、やっぱりこいつは最初から俺をもっと大々的に巻き込むつもりだった、か)


 その気持ちは分からないではない。

 色々と人員を連れてきているプレシャスだが、それでもここはギルムだ。

 トリスが支店を構えたことにより、ここはトリスの勢力圏内ということになってしまっている。

 そうである以上、スピール商会の縄張りで自分が戦力を集めるのも難しい。

 勿論他の商会や冒険者、傭兵のような者達を雇おうと思えば雇えるだろう。

 だが、大々的にそんな真似をしては、トリスに見つかってしまう。

 だからこそ、こうして自分達のような裏社会の人間を雇ったのだろう。

 裏社会の人間なら、冒険者達を雇うよりは発覚しにくいと。

 そこまではいい。いいのだが……レイに疑われている状況で堂々とスラム街に来るというのは、スレインにとっては許容出来ないことだった。

 つまり、このまま済し崩し的に巻き込んでしまえと。

 そう思っての行動だったのだろう。


「悪いが、俺はお前の自殺行為に付き合うつもりはない。この関係もここまでだ」

「……よろしいのですか? ここで私と手を切るということは、お約束していた紹介状の件も……」

「ああ、分かっている」


 プレシャスにとって、スレインに渡す紹介状というのは切り札に等しいものだった。

 この切り札があるからこそ、スレインも今回の件に協力してアジモフの襲撃という手段を行ったのだから。

 アゾット商会とレイをぶつける振りをし、それにスピール商会が関わっていると見せつける。

 その結果として、トリスは責任を取り……あわよくば自分がその後釜に座るというのが目的だった。

 だが、その為に使う手が自分から離れようとしている。

 勿論プレシャスが目を付けていた戦力はスレイン達だけではない。

 ギルムのスラム街で一定の勢力を築いてはいるのだが、それでも唯一の存在という訳ではないのだから。

 同じだけの勢力や戦力を持っている集団は、他に幾つも存在する。

 だが、それでもプレシャスがスレインと繋ぎを持ったのは、スレインが一番誠実……言うなれば、仁義を重んじるからだ。

 スラム街の中には、それこそ何かを依頼しにやってきた相手を騙したり殺したりといった行為をとる者も少なくない。

 そういう意味で、契約した内容をきちんと実行するスレインというのは貴重な存在だったのだ。

 戦力という意味では、それこそプレシャスがギルムに来る時に連れてきた者も多い。

 父親から引き継いだ孤児院からの人材や、他にも様々な伝手で手に入れた者達。

 しかし、そのような者達はプレシャスにとって大事な戦力であり、使い捨てに出来るような存在ではない。

 だからこそ、こうして使い捨てにしてもいい戦力を求めてスラム街にやってきたのだから。

 そのプレシャスにとって、こうしてスレインが自分から離れていくというのは何とかして防ぐべきことだった。

 このまま紹介状だけではどうにもならないと判断したプレシャスは、懐から取り出した拳大の革袋をテーブルの上に置く。

 周囲に響くのは、何かがぶつかる音。

 その音は金貨が発するような音ではなく、もっと違う……それでいてどこか軽い、そんな音だ。

 スレインも含め、部屋の中にいた者達はテーブルに視線を向ける。

 そこにある革袋の口から見えているのは、赤、青、緑、黄色、紫……様々な色の宝石だ。

 数にして、二十個程か。

 普通に考えれば、スラム街に持ってくるような代物ではない。


「どうでしょう? この宝石を対価として、もう暫く私に雇われてくれませんか?」


 その様子を見ていたプレシャスの護衛……その中でも孤児院育ちでプレシャスに強い恩を感じているギフナンは驚きに何かを口にしようとし……それを他の護衛に止められる。

 机の上の宝石の価値は、相当のものだ。

 何故それをこのような者達に……と、ギフナンにはそう思えてしまうのだろう。


「そうだな、その宝石にどの程度の価値があるのかは分からねえ。ただ、こうして出すんだから、相応の質なのは間違いねえんだろうな」

「ええ。勿論偽物の類は入っていません。正真正銘本物の……質の高い宝石です。それこそ店に持っていけば、白金貨……いえ、光金貨にも交換出来るかもしれません。どうです? これを報酬として支払いますので」


 それは、普通であれば間違いなく引き受けるだけの報酬なのは間違いない。

 多少の危険であっても、目の前の宝石の価値はそれ以上の代物なのだから。

 ……そう。普通であれば、そして多少の危険であれば、の話だ。


「悪いな、断る」


 スレインにとっては、自分の正体が知られていない上であればまだしも、この建物の前にまで踏み込まれた時点で多少の危険とは言えなくなっている。

 一応影武者を見せたが、それもどこまで通じているのかは分からない。

 下手をすれば……いや、間違いなく見破られていると思った方がいい。

 そんな状況で、この宝石をやるからレイと敵対しろと言われても、スレインの常識ではそれを引き受けるというのは有り得ない。

 寧ろ、ここでプレシャスとその護衛達の命を奪い、この宝石を持ってギルムを脱出、他の街に向かうといった選択をするほうが賢いようにも思える。

 もっとも、スレインはスラム街に住んでいてもそのような真似をしようとは到底思わない。

 何故なら、自分の中にある誇りを裏切るようなそんな真似をすれば、間違いなく後で後悔することになるからだ。


「なっ!? ……本気ですか!?」


 プレシャスも、まさかこの条件で断られるとは思っていなかったのだろう。

 ただ唖然とした様子を見せながら呟く。


「ああ。それだけ、今の状況は悪いと思ってくれ。悪いが、俺達はこれで手を引かせて貰う。勿論このまま手を引く以上、紹介状を寄越せとは言わないさ。すぐにでもギルムを出て、どこか他の場所で……レイなんて存在がいない場所でやり直す」


 スレインの言葉に、プレシャスの護衛達が目を尖らせる。

 自分達の主人にここまで言わせ、それでも途中で手を引くのかと。


「言っておくが」


 護衛の中の誰かが何かを言うよりも前に、機先を制するようにスレインが口を開く。


「ここはスラム街。……俺達の場所だ。何か行動をするにも、それを承知した上で行動に出ろよ」


 そう告げられれば、ギフナンを始めとしたプレシャスの護衛達も行動に移すことは出来なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る