第1325話
レイ達がパミドールに会いにいってから、数日。
鍛冶工房で決めたように、プレシャスに対して精神的なプレッシャーを掛けるべく動き始めた紅蓮の翼の面々だったが、その第一歩から躓くことになってしまう。
何故なら、プレシャスの居場所が判明しないからだ。
マリーナが警備兵に話を聞きに行ったところ、まだギルムから出ていってはいないという話だったので、まだ街中にいるのは確実なのだが……それがどこにいるのかが分からない。
セトの嗅覚で探そうにも、セトはプレシャスと会ったことがなく、臭いで探し出すことも出来ない。
「向こうも、自分が疑われているというのは分かってるんでしょうね」
貴族街にあるマリーナの屋敷のリビングで、紅茶を飲みながらヴィヘラが呟く。
「そうね。……向こうもその辺りはしっかりと考えていたということかしら」
「グルルルゥ」
マリーナの言葉に、中庭で寝転がっていたセトが喉を鳴らす。
……そう、いつもであれば夕暮れの小麦亭の食堂で打ち合わせをすることの多かったレイ達だったが、わざわざ貴族街にあるマリーナの屋敷までやってきた最大の理由が、これだった。
リビングに接している中庭で、寝転がっているセト。
夕暮れの小麦亭では基本的に厩舎にいなければならないセトだったが、それはあくまでも夕暮れの小麦亭……大勢が使う宿屋だからだ。
勿論、普通の宿に比べればセトは随分と気楽にすごすことが出来ている。
だが、それでもやはり宿屋という場所ではどうしても限界があるのだ。
どうしても客商売である以上、女将のラナも含めてレイだけに便宜を図る訳にはいかない。
それは数年単位で宿に泊まっているレイであっても、当然だった。
多少の便宜であれば、お得意様ということで何とかしてくれるだろう。
しかし、セトを自由に行動させるというのは客商売である以上、まず無理な出来事だった。
尚、夕暮れの小麦亭はギルムの中でも高級な宿の一つとして知られている。
主な客層は商人達なのだが、このような者達は基本的にギルムにやって来て滞在している間だけ泊まる。
それに比べると、レイのように定宿にしている者達は、それこそ数年……場合によっては十数年、更には数十年の単位で夕暮れの小麦亭に部屋を取り続けている者もいた。
だからこそ、普通の客とは違って色々と多目に見てくれたり、サービスをして貰えたりするのだが……それでも、セトの件は無理だった。
そんなレイに救いの手を差し伸べたのが、マリーナだ。
自分の家なら、他に人もいないからそんな心配をしなくてもいい、と。
そうして……結果として、紅蓮の翼を結成してからはレイ達が打ち合わせをする時はマリーナの屋敷ですることになっていた。
今も庭で春の日射しを受けながら寝転がっているセトには、ビューネが寄り掛かって半分眠っている状態となっている。
そんな一人と一匹の様子に、プレシャスの件があまり進んでいないことに対する苛立ちが少しではあるが抜けていくように感じられる。
(まぁ、この光景を見ても苛立ったままってのはそうそういないだろうけど)
余程の変わり者ではない限り、視線の先にある光景を見てほんわかとした思いを抱かないという者はいないだろう。
普段は非常に無愛想なビューネだったが、こうしてセトに寄り掛かって眠っている光景を見れば、普段のビューネは想像出来ない。
「やっぱり情報屋の方に期待するしかないんじゃないか?」
干した果実ではなく、生の果実……サクランボ程の大きさ――ただし色は紫の斑模様――に手を伸ばしながら、レイが呟く。
そのまま口に果実を運べば、爽やかな酸味を感じさせる甘みが口一杯に広がる。
甘い果物は好きなレイだったが、酸味のある果物もレイは好きだ。
「うん、美味い。ここに来る途中の店で買ったんだけど、当たりだったな」
そう呟くレイは、アジモフを傷つけられ、スレイプニルの靴を盗まれたことによる怒りを忘れたようにすら見える。
だが、それはあくまでも今だけであり、実際に今回の件を企んだ相手とぶつかった時にどうなるのかというのは、レイのことをよく知っているマリーナやヴィヘラには分かりきっていた。
今もレイの中には怒りの炎が渦巻いているのだ。
ただ、今はそれを表に出していないだけにすぎない。
もし今目の前に敵対すべき相手がいれば、その者は自分が何に手を出したのかというのを、これ以上ない程に思い知ることになるだろう。
それを分かっていながら、マリーナとヴィヘラはそんなレイの様子を気にすることもなく、口を開く。
「クルスの実ね。丁度春が旬の果物よ。……ただ、中には苦い実が混ざっていることもあるんだけど……レイの様子を見る限り、問題はないみたいね。恐らく、採った人の腕が良かったんだと思うけど」
レイが食べている果実……クルスの実に手を伸ばし、その果実を口の中に入れながらマリーナが呟く。
紫の斑模様という、一見するととてもではないが口に入れたいとは思えない果物。
だが、その果物はギルムの近くにある森になっている果物であり、ギルムに住んでいる者にとってはお馴染みの味だった。
ミスティリングを持っているレイにとっては、その時季にしか食べることが出来ない旬の食べ物というのは他の者よりも意識が薄い。
旬の食べ物を大量に買うなり狩るなりしてミスティリングに入れておけば、それこそいつでも旬の味を楽しめるのだから。
ガメリオンの肉が、その好例だろう。
レイやセトにとって、食事の中でも重要な位置を占めるガメリオンの肉は、それこそ四六時中食べることが出来るようになっている。
……もっとも、ガメリオンの肉もミスティリングに収納されている量には限りがあるので、何か祝いのようなことがあったような時でなければ食べることは出来ないが。
そしてガメリオンの肉よりも更に稀少な肉が、銀獅子の肉だろう。
こちらは正真正銘非常に限られた量しか存在せず、余程のことがない限り食べる機会はない筈だった。
あまりの美味さに、数日程味覚が麻痺してしまうという贅沢な欠点があるのも問題だろうが。
「にしても……暇だな。情報屋が来るまで全くこっちに動きようがないというのは痛い」
「そうね。ここで下手に依頼を受けて、その間に何か事態が動いたら見逃す可能性もあるしね」
「昨日対のオーブで会話した時にエレーナにも聞いてみたけど、スピール商会については名前くらいしか聞いたことがないらしいな」
「ふーん……まぁ、スピール商会はそこまで大きな商会って訳でもないんだから、エレーナが名前を知っていたという時点で驚くべきかもしれないわね」
ケレベル公爵令嬢に名前を覚えられているというのは、商会にとっては非常に幸運と言えるだろう。
……ただし、昨日レイから事情を聞いたエレーナが、スピール商会にどのような印象を持ったのかを考えれば、話は別かもしれないが。
そのまま暫くレイとマリーナ、ヴィヘラの三人は会話を交わし、ビューネはセトに寄り掛かって春の日射しの下でうたた寝をする。
セトもそんなビューネを起こさないようにと、中庭に寝転がっていた。
傍から見れば、ビューネを羨む者が多いだろうその光景だが、本人は特に気にした様子もない。
「……ねぇ、レイ。このままゆっくりとしているのもいいんだけど、ちょっと身体を動かさない?」
丁度クルスの実の最後の一つを食べ終わったところで、まるでそれを待っていたかのようにヴィヘラが聞いてくる。
「うん? 身体を? ……まぁ、いいけど。その代わり、程々にだぞ」
レイの言葉に、ヴィヘラは少しだけ残念そうな表情を浮かべていた。
それでもレイと模擬戦を行う機会を逃すつもりはないのか、文句を言わずに窓から中庭に向かう。
リビングと中庭を繋ぐ窓は、かなり大きなガラスで出来た窓だ。
それこそ、下手をすれば白金貨数枚分の価値を持っていてもおかしくない。
そのような窓ガラスを普通に使っているあたり、マリーナの屋敷は小さくても貴族街にある屋敷だということなのだろう。
(一応精霊魔法とかで強化されてるって話だったけど……精霊魔法、便利すぎないか?)
そんな風に思いながら、レイもヴィヘラを追うように中庭に出る。
そして日向ぼっこを楽しんでいるセトやビューネの邪魔にならないよう十分に離れてから、お互いに向き合う。
もっとも、先程レイが言ったようにお互い本気ではないために、レイが手に持っているのは穂先を潰した模擬戦用の槍だし、ヴィヘラの方も手甲や足甲に魔力の刃を生み出したりはしていない。
「あまり無茶をしないのよ。私が止めたら、すぐに模擬戦を中止すること。……じゃあ、始め!」
リビングから、紅茶を手にしたマリーナが開始の合図を告げる。
少し呆れのような感情が入っていた声だったが、それを聞くレイとヴィヘラは特に気にした様子も見せず動き出す。
真っ先に動いたのは、ヴィヘラ。
槍を手にしているレイと比べて、格闘で戦うヴィヘラはどうしても攻撃範囲が狭くなる。
そしてレイが手にしている槍の間合いを殺す為にも、機先を制する必要があった。
「はぁっ!」
庭の地面を蹴って、一気にレイとの間合いを詰める。
そんなヴィヘラを迎え撃つように、レイは槍を振るう。
……そう。振るう、だ。
槍で突くのではなく、より攻撃範囲が広い、払い。
ヴィヘラもそんなレイの攻撃は予想していたのだろう。自分の肩を狙って横薙ぎに振るわれる槍の一撃を、軽く上半身を沈めながら回避し、レイとの間合いを詰める。
至近距離と呼ぶのに相応しい間合いに入った瞬間、ヴィヘラの拳が突き出される。
狙うのは、ドラゴンローブのフードを被っているレイの顔。
ドラゴンローブは強力な防御力を持っているのだが、それでも打撃の衝撃そのものは殺すことが出来ない。
それでも攻撃すべき場所が広い胴体ではなく顔を狙ったのは、やはり少しでも威力の高い攻撃を与えようという思いからだろう。
もっともヴィヘラの技量を考えれば、胴体よりも小さい顔を狙うのはそれ程問題ではない。
普通であれば、女の細腕と言ってもいいのかもしれないが、ヴィヘラの手には手甲が嵌められている。
また、その見かけとは裏腹に、腕力も相当に強い。
そして何より、腕力とはほぼ無関係に当たれば敵に対して大きなダメージを与えることが出来る浸魔掌がある。
……もっとも、今回の模擬戦はあくまでも身体を動かす程度の模擬戦だ。
当然浸魔掌の使用はヴィヘラも考えておらず、レイの顔を狙った一撃はその証でもあったのだろう。
自分の顔目掛けて近付いてくるヴィヘラの拳を、レイは軽く顔を逸らしつつ、身体を少しだけ後ろに下げることで回避する。
レイの顔の真横の空間を貫くヴィヘラの拳。
模擬戦ではあっても、その一撃は当たれば普通の人間ならそれだけで意識を失ってしまうだろう威力を持つ。
だが、レイはそんな一撃を回避しながら、槍でヴィヘラの足下を払う。
大抵の者が攻撃しているときはそちらに意識を集中しており、防御が疎かになる。
ましてや、レイの放った一撃はヴィヘラの視界の外からの一撃だ。
普通であれば、間違いなく回避出来ずに足下を払われて地面に転ぶのだが……ヴィヘラは軽く跳躍して槍の一撃を回避した。
レイの動きを読んでいたというのもあるが、槍が空気を斬り裂く音を耳にして半ば本能的に動いたというのもあるのだろう。
「ふっ!」
軽い跳躍をしたヴィヘラは、そのまま空中でレイに向かって蹴りを放つ。
軽い跳躍ではあっても、空中にいるのは間違いない。
つまり、ほんの一瞬であっても身体が空中に浮いているのだ。
普通ならそんな一瞬の隙を突けるような相手はいないだろうが、現在ヴィヘラが相手をしているのはレイだ。
事実、今ヴィヘラが一瞬でも蹴りを出すのが遅ければ、レイの槍が振るわれていただろう。
一瞬早くヴィヘラの蹴りが出たことにより、それが牽制となってレイの動きを止めることとなる。
そうして蹴りを放ちながら一度レイから距離をとったヴィヘラは、再び前に出た。
槍を手に、それを待ち受けるレイ。
自分に向かって突っ込んでくるヴィヘラに向け、身体の捻りを利用した突きの一撃を放つ。
達人の一撃と呼ぶに相応しい速度の突き。
だが、ヴィヘラは踏み出した右膝の力を抜き、意図的にバランスを崩すことによってレイの突きを回避する。
そうして不十分な態勢ではあったが、それでも前に出てレイに一撃を与えようとして勝利を確信する。
……だが、次の瞬間には突きから払いに転じたレイの槍がヴィヘラに向かって迫り……
「そこまで!」
マリーナの声が響いた時、レイの槍はヴィヘラの身体にぶつかる寸前で止まり、逆にヴィヘラの一撃はレイに届かずに模擬戦は終わるのだった。
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