第1278話
サンドリーヌの、トマトソースを大量に使う訳にはいかないという言葉は、考えてみればおかしなことではなかった。
そもそも、食材を大量に作ってもそれを腐らせてしまえば意味はないのだから。
ある程度の余裕はあっても、それはあくまでもある程度でしかない。
そう考えれば、サンドリーヌの言葉に異論を挟める筈もなかった。
「え? ちょっ、サンドリーヌ? 出来ればその……少しだけでも、どうかな?」
レイはサンドリーヌの言葉に納得したのだが、何故か慌てた様子で何とかトマトソースを使いたいと、そう口にしたのはロドリゴ。
ロドリゴにとって、料理というのは仕事であると同時に趣味でもある。
そんなロドリゴが新しい料理を試せるという話をレイから持ちかけられて、それに乗り気であったにも関わらず、サンドリーヌからの待ったの声だ。
普段は内気なロドリゴだったが、それでもなんとかならないかと必死に娘に頼み込む姿は、何故自分ではなくロドリゴが……とレイも思ってしまう。
「お父さん? じゃあ、聞くけど……そのピザという料理を出す為に、トマトソースを使う他の料理は出せなくなってもいいの?」
「それは……」
そう言われれば、ロドリゴも言葉を濁さざるを得ない。
新しい料理に興味はあるが、だからといってトマトソースを好きなだけ使うことは出来ない。
「そうだな、ならどこか余ってる店なり人なりから譲って貰うことは出来ないのか?」
「うーん、保存食……正確には保存の利く調味料として、それなりに持ってる人はいると思うけど……それを譲ってくれるかと言われれば、難しいところね」
溜息を吐くサンドリーヌ。
「そもそもトマトソースの材料に使っている魔草は高い……って訳でもないけど、決して安い訳でもないのよ。だとすればそれを譲って貰うにしても無料で譲ってくれたりはしないと思うわ」
「……なるほど。なら、どうする? ピザに関しては来年まで持ち越すか?」
トマトソースが手に入らない以上、レイも本格的なピザを作ることは出来ない。
それでもトマトソースを使わないピザもどきなら作れるだろうが……それはあくまでも自分で食べるようなものであり、とてもではないが食堂で出せるような代物ではないだろう。
「いえ、メニューとして出すのは今すぐに出来なくても、来年の為に今のうちから研究しておくのはいいと思います。レイさん、トマトソースなら多少余裕がありますのでお願い出来ますか?」
「全くもう……お父さんったら」
ロドリゴの言葉にサンドリーヌは不満そうにしながら、それでも口の端は微かに弧を描いていた。
サンドリーヌにとって、父親のこういう部分は見ていて決して嫌なものという訳ではないのだろう。
「いい? あくまでも少しだけだからね。使いすぎて料理をする時にトマトソースがありませんなんてことになったら、絶対に許さないんだから」
「うん、分かったよ。じゃ、早速厨房に行きましょうか」
ロドリゴが判断し、レイを厨房に誘う。
レイもピザを作るのに特に異論はないので、ロドリゴと共に厨房へと向かう。
そんな二人の後を追うように、サンドリーヌも厨房へと向かった。
トマトソースがどのくらい使われるのかと、それが心配なのだろう。
厨房の中には肉まんを作った後の調理器具が置かれている。
肉まんには関係ないが、夕食用の為なのかパンを焼く窯もしっかりと熱せられていた。
「レイさん、ピザというのはパン生地を丸く広げるんですよね?」
「ああ。一応魅せる調理ってことで、生地を空中で回して丸くしていくって方法もあるらしいけど……まぁ、その辺は慣れてきてからだな」
「はぁ……そんな真似をする必要があるんですか?」
「どうだろうな。ただ、注目を浴びればピザに興味を持って食べたくなるって人もいるだろうから、決して無意味って訳じゃないと思うけど」
ピザがどういう料理かを知っており、更にその作り方も大体分かるレイだったが、それでもピザの生地をどうやって伸ばすのかと聞かれれば、首を傾げるしかない。
普通に考えれば麺棒のような物で伸ばすのだろうが、TVで生地を空中で回転させながら伸ばすというのを何度も見たことがある。
「うーん、ピザ生地は伸ばすんですよね? 具体的にどのくらいの厚さにすればいいんですか?」
「硬いタイプだとかなり薄く、柔らかいタイプだとそれなりに厚く……だと思う」
「そうなると、薄い方が焼き上がるのは早いですね」
「……多分。でも、最初は普通のパン生地に近い、厚い方がいいんだろ?」
尋ねるレイに、ロドリゴは頷く。
「トマトソースの関係を考えると、やっぱり確実な方から作っていった方がいいかと」
その言葉には、レイも頷くしかない。
元々使えるトマトソースが少ない以上、失敗する可能性は可能な限り避けたい、と。
(トマトソース……ピザまんって、トマトソース入ってるのか? 『ピザ』まんなんだし、多分入ってるんだよな? トマトソース……ケチャップ? まぁ、その辺はプロに任せるしかないか)
肉まんの蒸し器を見てそんなことを考えながら、レイは食材を探す。
「取りあえず基本的なピザを作るとして……今使える、余ってる材料を用意してくれ。ああ、肉は出来ればハムかソーセージがいい」
「どちらもありますけど、どっちにします?」
ハムもソーセージも、保存食だ。
当然春までの食材としてある程度は用意してあるし、この手の物であればいざなくなれば買うことも出来る。
「あー、そうだな。じゃあ、ソーセージで」
「分かりました。野菜は……正直、あまりないのですが」
申し訳なさそうにロドリゴが頭を下げる。
だが、元々冬で野菜が少ない上に、料理として出す分の残りという条件でピザの試作をしているのだから、レイはロドリゴを責めるつもりはない。
「いや、出せる奴だけでいい。……ああ、でも茸の類はあればいいな」
そんなレイの言葉にロドリゴは安堵し、使える野菜を集めていく。
緑や青、紫の葉野菜に、白い根野菜といったレイが見たことがない野菜から、何故か冬なのに新鮮そうなピーマンにしか見えない野菜といった物が集められる。
「さっきも言ったけど、ピザってのは丸く、薄く伸ばした生地の上に具材を乗せてチーズを振り掛けて窯で焼くだけの簡単な料理だ。……言うは易しって奴だな」
生地の厚さの加減や、具材の選択やバランス、そして何より窯の温度を操るといった行為は、すぐに出来る訳ではない。
だが、幸いにもと言うべきか、この黄金のパン亭ではその店名の通り、自家製のパンが売りの店だった。
そのパンもロドリゴが自分で焼いているものであり、そういう意味ではパンをパン屋から仕入れている他の食堂よりも有利だと言ってもいいだろう。
もっとも、レイは単純に窯があるからピザを焼けると考えているが、普通にパンを焼く時の温度はピザが四百℃以上なのに対して、パンは二百五十℃前後だ。
その温度差は、倍近い。
「そうですね。じゃあまずは試しに作ってみましょうか。レイさん、基本的なピザというのはどういう具を?」
「生地にトマトソースを塗ってから、具を乗せる。具はソーセージがメインで、茸や野菜を載せて最後に上からチーズを掛ければ出来上がりだな」
本来はマッシュルームを使いたいレイだったが、残念ながら使える具材の中にマッシュルームは存在しない。
いや、エルジィンにマッシュルームがあるかどうかは、レイにも分からなかったが。
(ああ、でも以前何かの料理でマッシュルームを食べたことがあるような?)
レイがどこでマッシュルームの入った料理を食べたのかを思い出そうとしている間に、ロドリゴは手早く調理を進めていく。
パン生地を丸く広げて――空中では回していなかったが――いき、そしてあくまでも試食用ということで、手よりも若干大きい程度の広さになると、トマトソースを塗り、具材を乗せていく。
ソーセージ、ピーマン、茸、鮮やかな青いタマネギのような野菜……といった具合に。
あくまでも今回は試食というだけあって、材料もそれ程多くは使わない。
そして最後に細かく切ったチーズを上から振り掛けると、窯の中へと入れていく。
「どうでした? 何か気になるところはありましたか?」
「そう言われてもな。俺が知ってるのはあくまでも概略で、実際にピザを作ったことはないから、何とも言えないけど……まぁ、手際は食堂をやってるだけあって素早かったと思う」
「あはは。ありがとうございます。後は、上手く焼けてくれればいいんですが」
気弱なロドリゴだったが、やはり自分の仕事……いや、趣味の料理ともなれば、普段よりも熱心になるのだろう。
いつもの気弱さを全く表に出さず、窯の中へと視線を向けていた。
そんな自分の父親の姿を、仕方がないなといった表情ながら、それでも笑みを隠すことが出来ない。
(ファザコンって奴か)
そんな風に考えている間に、一分、二分が過ぎ……上に掛かっているチーズが溶けてきたのを見計らい、ロドリゴが窯の中からピザを取り出す為に巨大なヘラのよう物を窯の中へと突き入れる。
だが、ピザを取り出そうとした瞬間、ロドリゴの表情は訝しげなものになった。
「これは……」
「どうしたの、お父さん?」
「……いや、ちょっとこれはこのままだと食べられないね。チーズの方は溶けてるけど、パン生地はまだ完全に焼き上がってない」
その言葉通り、ピザの生地はまだ半分……もしかしたらそれ以上に生に見えた。
「焼く時間が短すぎたってことか?」
生地が半生となれば、当然それは焼く時間が短かったということになる。
そんな疑問を抱いて尋ねたレイだったが、ロドリゴは複雑な表情で頷きを返す。
「そう、ですね。パン生地そのものを考えれば、焼く時間が短かったんだと思います。ですが、これ以上長時間焼いていれば具材やチーズが焦げてしまうので……」
難しい表情を浮かべるロドリゴの肩を、サンドリーヌが励ますように叩く。
「初めて作る料理なんだから、失敗くらいしてもしょうがないでしょ。お父さんなら出来るってば」
「そうかな?」
「そうそう。それより、どうやったら美味しいピザを作れるかを考えた方がお父さんらしいわよ?」
サンドリーヌの言葉で多少は元気を取り戻したのか、ロドリゴは生焼けのピザへと視線を向けたまま、レイに尋ねる。
「レイさん、どうすればいいと思います?」
「いや、さっきも言った通り、俺は料理は知ってるし、大体の作り方は知ってるけど専門家って訳じゃないんだ。……ただ、そうだな。単純に考えて生地が生焼けだったってことは、生地が厚かったからじゃないか?」
「そう言えば、薄い生地のピザもあるって言ってましたね?」
調理前の説明を思い出しながら尋ねるロドリゴに、レイは頷きを返す。
「ああ。……ただ、そうなると生地が厚い方のピザはどうやって作るのか分からないんだが……」
「その辺は、恐らく窯の温度でしょうね。中途半端に長時間焼くと焦げるでしょうから、恐らくもっと高温で一気に焼き上げるのではないかと」
気弱な性格はともかく、黄金のパン亭という大通りにある食堂を切り盛りしてるだけあって、ロドリゴはレイの疑問にあっさりと答えを出す。
この点も普段からパンを焼いており、その辺のパン屋に負けないだけの……もしくは勝るだけの腕を持っているロドリゴだからこそ素早く結論を出せたのだろう。
「高温で? ……ああ、何かそういう風なことが書かれていたような気がする」
ロドリゴのアイディアを聞き、レイはTVで見た内容を思い出す。
その時ピザを作ってた人物も、ピザは火力が勝負と言っていたような……と。
「もー! レイさん、知ってたなら最初から教えてくれてもいいじゃないですか!」
「いや、そう言われても、俺も今まで忘れてたし」
頬を膨らませるサンドリーヌに対し、レイはそう抗弁する。
「ははは。レイさんだって全てを覚えてる訳じゃないんだから、サンドリーヌもそう怒らないで。それより、これはうちとしては結構いいと思うよ? 今まではパンを焼くのにしか窯を使ってなかったけど、これからはピザでも使えるんだから」
「……パンは基本的に店が開く前に纏めて作るから、店をやってる時は窯でピザを作るってこと? お父さんの考えは分かるけど、そうしたら今まで以上に薪代が掛かりそうなんだけど」
「そうかもしれないけど、薪は他から買えばいいだろ? ピザや肉まんで収入が上がれば、そのくらいは何てことないさ」
「いや、それはそうかもしれないけど……」
色々と父親に言いたいことがあったサンドリーヌだったが、それでも納得出来ることはあったのか、それ以上の文句は口にしない。
結局この日はトマトソースの件もあってあまり試作を作ることも出来ず。ピザの概要だけを聞いて解散することになる。
まず、ロドリゴはピザ生地と火力の関係を研究することを最優先にしたらしい。
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