第1228話
部屋の中に響いた声の主が誰なのかというのは、その場にいる誰もが考えるまでもなく明らかだった。
セトに対してそこまで執着しているのは、今回ダンジョンに潜ったメンバーの中ではヨハンナしかいなかったのだから。
勿論レイを抜きにしての話なのだが。
ともあれ、部屋に入ってきたヨハンナが最初に見たのは、当然のように巨大な銀獅子……そして銀獅子の側に集まっているレイ達であり、そして何よりもレイの側で嬉しそうに喉を鳴らしているセトだった。
それだけであれば特に問題はなかったのだが、セトが身体中から血を流しているというのを見れば、ヨハンナが黙っていられる筈もない。
背負っているヴィヘラを男達に命じて床の上に敷いた布へと寝かせると、慌ててセトの方へと向かっていく。
「ちょっと、セトちゃん。大丈夫なの!?」
「グルルルゥ」
ヨハンナの言葉に、セトは喉を鳴らして大丈夫と示す。
そんなセトの声を聞いてもヨハンナは安心出来ず、セトの身体を直接調べていく。
突っ込んでくるヨハンナから避けたアーラだったが、今のヨハンナにはそんな様子も目に入ってはいない。
しっかりとセトの身体を調べ……やがて本当にセトには重傷と呼べるような傷がないのを確認すると、安堵の息を吐く。
「ふぅー……良かった。傷は殆ど残っていないみたいね。セトちゃん、大丈夫だった? 痛くなかった?」
「グルルルゥ!」
ヨハンナの心配そうな問い掛けに、セトは大丈夫! と元気よく喉を鳴らす。
銀獅子は防御力は高いが、攻撃力はそれ程でもない――勿論他のランクSモンスターに比べてだが――からこそ、傷もそこまで深くはなかった。
だが、側で聞いていた者達の殆どはセトの鳴き声に、まだ元気があるんだなという思いを抱く中、ヨハンナはそっとセトの頭を撫でる。
「そう、疲れたのね」
「え? 疲れてるのか? 俺は元気だっていう風に聞こえたんだけど」
ヨハンナの仲間の一人が、首を傾げながら呟く。
それは他の者達も同様だったのだろう。
ヨハンナの仲間や……エルクやミンといった者達までもが意外そうな表情を浮かべている。
普段から冷静沈着なことが多いミンにとって、ここまで露骨な表情を浮かべるということは滅多にない。
そういう意味では、この場にいる者達の多くが幸運だったと言えるのだろうが……それを理解している者は殆どいなかった。
「ま、銀獅子のような自分よりもランクの高いモンスターと戦ったんだ。セトも疲れるだろ」
レイの言葉に、何人かが意外そうな表情をセトへと向ける。
それは、銀獅子との戦いを見ていない者達。
逆に銀獅子との戦いを一緒に乗り越えた者達は、セトが疲れているというのにも納得の表情を浮かべる。
レイやセト、エルクやアーラの傷をポーションで回復し終えると、いよいよ皆の意識が銀獅子へと向けられた。
「……レイ、そろそろいいんじゃない? 心臓は時間が経てば経つ程効果が低くなるんでしょ?」
マリーナに促され、同様にエルクとミンの二人に強い視線を向けられたレイは、まだ身体が痛むのを理解しながらも寄り掛かっていた銀獅子から立ち上がる。
特にエルクとミンの視線が強いのは、やはり最初にヴィヘラの意識を取り戻し、その後でロドスの意識を取り戻すということになっている為だろう。
つまり、ロドスの意識を取り戻すには少しでも早く銀獅子から心臓を取り出し、グリムに行動して貰う必要があるのだ。
「グリム、聞こえているか? グリム」
対のオーブを使い、グリムへと呼び掛けるレイ。
顔にあった傷は殆どが回復しているが、ドラゴンローブ越しに振るわれた銀獅子の攻撃で受けたダメージは、見て分かるような傷ではないだけにポーションでの回復も難しい。
いや、ポーションを飲めば体内からの回復も出来るのだが、それをすると味覚が暫くの間麻痺してしまうという難点もある。
食事を楽しみにしているレイにとって、それは出来れば避けたい出来事だった。
勿論これからまだ戦闘があるのであれば……もしくはダンジョンを自分達の力で脱出しなければならないのであれば、無理をしてポーションを飲んだだろう。
だが、レイ達が最下層までやってきたのはグリムの力を使ってだ。
そして地上へと……より正確にはダンジョンの出入り口付近へと戻るのも、グリムにやってもらう予定だった。
明確に約束をした訳ではないが、それでもレイのこれまでの経験から考えるとグリムはやってくれるという予想が出来る。
もしそれが駄目であったとしても、レイ以外の戦力も十分以上に強力な面々だ。
(ヴィヘラの意識が戻れば、間違いなく戦闘をしたがるだろうし)
そんな風に考えならも、対のオーブの反応を待っていると……
『む? おお、レイか。こうして連絡してきたということは、勝ったのじゃな?』
「ああ、結構苦戦したけど何とかな」
『苦戦、か。ふむ。銀獅子はそれなりに強力なモンスターじゃが、ゼパイ……』
ゼパイル殿ならここまで苦戦することなく、容易に倒せただろう。
そう口に出しそうになるグリムの言葉を、レイは慌てて遮る。
自分の件を詳しく知っている者は、ここだとエレーナとマリーナの二人だけだ。
正確にはヴィヘラも知っているのだが、今は意識を失っている。
それ以外の面々には自分の秘密を話すつもりは毛頭なかった。
「それより、約束通り銀獅子は倒した。こっちに来て、ヴィヘラとロドスの意識を取り戻してくれ」
『分かっておるよ』
「っ!?」
聞こえてきたその声は、対のオーブからではなくレイのすぐ横から聞こえてきたもの。
咄嗟に振り向くと、そこにはレイにとっても見覚えのあるグリムの姿があった。
数秒前までは対のオーブで会話をしていたというのに、気が付けばいつの間にか自分の隣にいる。
転移魔法の類を使ったのだというのはレイにも十分理解出来たが、それでもやはり驚くなというのは無理だろう。
突然のグリムの登場に驚いているのは、レイ以外の者達も同様だった。
特に今日初めてグリムに会った者達にとっては、これが二度目だ。
それだけに、グリムが隠そうとしても隠しきれない威圧感に床へと腰を落としそうになりながらも、何とかその場に踏み止まる。
そんな周囲の様子には目もくれず、グリムの頭蓋骨が見たのは当然のように床に倒れている銀獅子の姿。
『ほう、中々の大きさの銀獅子じゃな』
「なかなか? ……これでか?」
全長六m程もある銀獅子だけに、中々だという表現になるとはレイも思わなかったのだろう。
グリムの方に、ただ唖然とした視線を向ける。
『うむ。平均より多少上……といった程度の大きさじゃ』
「なるほど。……うん?」
今、変なことを聞いた。
そんな考えがレイの脳裏を過ぎり、軽く首を傾げる。
そして少し考え……その理由を理解した。
「ちょっと待ってくれ。平均って……銀獅子はそんなに多くいるのか?」
『うむ。群れを作るという程ではないが、それなりに数はいるぞ』
レイの問い掛けにグリムはあっさりと答え……それを聞いていた――特に実際に戦闘に参加した――者達が頬を引き攣らせる。
これだけの戦力でようやく倒すことが出来た銀獅子が、他にもまだ多くいるというのが信じられなかったからだ。
そんなレイ達の様子を見て、グリムは面白そうに笑い声を上げる。
『ふぉふぉふぉ。世界というのは、お主達が思っているよりも遙かに広いものじゃ。それが分かっただけでも、よかったじゃろう? ……さて、それではそろそろ本題に入ろうか』
そこで言葉を止めたグリムは、改めて銀獅子へと視線を向ける。
そうして何気なく……本当に何気ない様子で手を振るった瞬間、銀獅子の巨体が空中に浮き上がり、仰向けの状態になって床へと置き直される。
だが、驚くのはそれだけではない。再びグリムが軽く手を振るうと、銀獅子の腹部に切れ目が入ったのだ。
……戦っている最中、銀獅子の体毛がどれだけ固いのかというのを実感しているレイ達にとって、その光景は信じられないものだった。
「嘘だろ……」
何もしていないのに腹が割かれていく光景を見ながらエルクが思わずと言った様子で呟く。
銀獅子と直接戦っただけに、エルクには目の前で容易に解体されている銀獅子がどれだけの強さだったか……そして何より、刃で斬り裂けなかったということを知っている。
だからこそ、銀獅子を相手にするのに必要なのは長剣や槍といったように鋭利な斬れ味を誇る武器ではなく、エルクが持っている雷神の斧やアーラのパワー・アクスといった武器であり、他に有効な武器としては棍棒や鎚といった代物だったのだから。
だが……今、エルクの前で行われている光景は、手すら使わずに銀獅子を解体していくというものだ。
勿論生きている時に比べると銀獅子の体毛の効果は落ちているのだろうというのは予想出来るのだが、それでもこうして容易く銀獅子の死体が解体されていくというのは信じられないものがある。
『ふむ、何か樽のようなものはないのか? 銀獅子の血はそれなりに稀少な素材じゃぞ?』
「え? あ、うん。樽はある」
グリムの言葉で我に返ったレイは、ミスティリングの中から樽を取り出す。
それも一つではなく、二つ、三つ、四つといった具合に次々とだ。
当然ながら、全長六m程もある銀獅子の身体に流れている血の量は相当なものだ。
それを余さず保存するとなれば、このくらいの樽の量は必要だった。
もっとも、戦闘の途中……最後に銀獅子を倒す時に、眼球を黄昏の槍で貫き、デスサイズで上顎か頭部を貫くといった真似をしているので、そこで血が流れていたのだが。
武器を引き抜いても、当然そこからは血が流れ続けている。
その為に全ての血を手に入れるという訳にはいかなかったが、それでも殆どの血を取り出すことには成功した。
グリムの操る死霊魔術によるものなのだろう。腹を裂かれた傷口から空中に血が浮き上がり、そのまま血の球となってレイ達の前にその姿を現す。
それを見ている者は呆気にとられている者も多かったが、中には羨ましそうな表情を浮かべている者もいる。
モンスターの解体をする時、最初にやるのが血抜きだ。
基本的には首や足といった太い血管に斬り傷を入れ、木にぶら下げるなどして血を抜くことが多い。
だが、その血抜きもそれなりに時間が掛かる。
それに比べると、グリムのとった方法は対象から直接血を取り出すという方法であり、正直なところこの魔法が使えるというだけでパーティ内では非常に重宝されるのは間違いないだろうし、それどころかこれ一本で食っていくことすら出来るだろう。
それだけ便利な魔法をこうもあっさりと使っているのだから、目を見張って当然だろう。
同時に、リッチロードだけのことはある。
そんな思いもその光景を見ている者達の中にはあった。
血の球が次々と樽の中に分けられていき、空中から消えていく。
血の処分が終わった後で、次にグリムが手を付けたのは内臓だった。
こちらもまたグリムが軽く手を振るうだけで、腹を裂かれた銀獅子の体内から次々に内臓が飛び出て空中に浮かんでいく。
『レイ』
「分かってる」
皆まで言わずとも何を促されているのかを理解したレイは、次々にミスティリングから保存用の容器を取り出していく。
普通の……もっと低ランクのモンスターであれば、内臓で使える場所も限られており、使えない場所は捨てるなりなんなりする必要がある。
だが、ランクSモンスターの銀獅子の内臓ともなれば、基本的に捨てる場所はなかった。
そして内臓の中でも、最も重要な……心臓。
今回銀獅子と戦ったのはこの心臓を手に入れる為であり、それが目の前に現れたことに、その場にいた全員が目を奪われる。
既に銀獅子は死んでおり、更には心臓も体内から抜かれている。
にも関わらず、銀獅子の心臓は空中で脈動を止めていない。
(おい、もしかしてこれって……実は銀獅子が死んでなかったんじゃないか?)
脈動を止めていない……つまりまだ動いている心臓を見て、レイの背中に冷たいものが流れる。
早めにグリムを呼んだから良かったが、もしグリムを呼ぶのが遅れていたら、もしかして銀獅子は蘇ったのではないかと。
勿論デスサイズと黄昏の槍によって脳を破壊されている以上、大丈夫だろうとは思ったのだが……それでもランクSモンスターというのは、レイの予想を超える存在だ。
それでも、やはり死んだと判断した後でも心臓が動いているのを見るというのは、レイにとっても驚き以外のなにものでもなかった。
それはレイ以外も例外ではない。
脈動している心臓に目を奪われ、ただ呆然としている。
『ふむ……ほれ』
グリムの言葉と共に、心臓に埋まっていた魔石が取り出され、レイの方へと飛んできた。
ランクSモンスターの魔石……それだけで一財産といえるだろう代物を、レイはそっと受け取る。
もっともレイにとって魔石というのは金に換えるべきものではなく、セトやデスサイズを成長させる為のものなのだが。
(銀獅子の魔石。それに……)
受け取った魔石をミスティリングに収納しながら、レイはこの部屋から続くもう一つの部屋、ダンジョンの核があるだろう部屋へと視線を向ける。
(このダンジョンも、今日で終わりか)
そんな風に考えながら、レイは銀獅子の心臓を空中に浮かべているグリムが次に何をするのかを見守るのだった。
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