第1209話

「ジャーダ?」


 レイの声が部屋の中に響く。

 今までアンブリスと呼んできた存在が、実は別の名前だった。

 対のオーブの向こう側のグリムにそう言われて驚いたのは、レイだけではなくエレーナやマリーナも同様だった。

 だが、その中でもマリーナはすぐにグリムの言葉に納得して口を開く。


「そうよね。アンブリスというのは三百年前に遭遇した人達が付けた名前だもの。だとすれば、それ以前にアンブリスが……いえ、ジャーダが現れていてそう名付けられていてもおかしくはないわ。その名前が伝わっていないのは疑問だけど」

『娘よ、別に無理に儂が使っているジャーダという名前を使う必要はない。元々この名前も、お主等と同じく遭遇した者が仮に名付けた代物じゃからな。今の時代、既にこの名前が残っていないのであれば、アンブリスで構わんじゃろう』


 自分の呟きに、突然グリムが言葉を返してきたことにマリーナが驚く。

 レイと友好的に話をしているのは見ていたが、まさか自分に対してもこうして友好的に接してくれるとは……と。


「その、いいのですか?」


 自分よりも遙かに永き時を生きているグリムに、マリーナはそう尋ねる。

 そんなマリーナの態度を気に入ったのか、グリムは再び笑い声を周囲に響かせた。


『ふぉふぉふぉ。構わんよ。お主はレイにとっても大事な存在なんじゃろう? それで、そのジャーダ……いや、アンブリスがどうしたんじゃ?』

「これを見てくれ」


 レイは対のオーブを動かし、ベッドで意識を失っており、眠っているように見えるヴィヘラを見せる。


『ほう?』


 年の功と呼ぶべきか、グリムは対のオーブ越しにベッドの上のヴィヘラを見ただけで、それがどのような状態なのか把握したらしい。

 少しだけ興味深そうな様子で呟く。


「アンブリスを倒そうとして、かなり追い詰めたんだが……その時、アンブリスがいきなり転移して、ヴィヘラ……このベッドで寝ている女の側に現れたかと思ったら、亜人型のモンスターを進化させる時のように身体に沈み込んでいった」

『ふむ、レイが戦ったアンブリスは亜人型のモンスターを進化させる能力を持っていたのか』


 呟くグリムの言葉に、マリーナはふと何かに気が付いたかのように口を開く。


「そういえば、グリム様は先程特定のモンスターを進化させると……では、ジャーダと呼ばれていた時は、亜人型のモンスターを進化させている訳ではなかったのですか?」


 ダスカーに対しては子供に接するかのような態度を取るマリーナだったが、やはりグリムを相手にしてはそのような態度を取ることは出来ないのだろう。

 丁寧な口調で尋ねる。

 そんなマリーナの態度を気にした様子もなくグリムは頷き、口を開く。


『うむ。儂が知っておる限りでは獣型のモンスターのみを進化させるアンブリスや、鳥型のモンスターだけを進化させるアンブリス、虫型のモンスターのみを進化させるアンブリス……というのも聞いたことがあったの』

「そんなにアンブリスを知っているのですか?」


 今回の件で出て来たアンブリスは三百年ぶりに発見されたものだ。

 それが、こうも何種類ものアンブリスを知っていると言われれば、混乱するのも当然だった。


『そうじゃな。ただし、これは別に儂が全て見て確認した訳ではない。中には人伝に聞いた話というのもあるから、全てをそのまま信じるのは危険かもしれぬな』

「……なるほど」


 マリーナにとっては、人伝であっても幾つものアンブリスの話を知っているというのは驚き以外の何ものでもないのだが。

 それでもこうしてアンブリスの情報を聞けるのだから、それは願ってもないことだった。


(もっとも、ここで入手した情報を広めると、何故それを知っているのかという話になるでしょうし……その辺は少し難しいでしょうね)


 迂闊にグリムから聞いた情報を漏らすと、それこそ罪人にされかねない。

 モンスターと通じ合うということ自体は、それ程珍しい話ではない。

 それこそ、テイマーはモンスターと通じ合って自分の力になってもらっているのだから。

 だが……その通じ合っているのが、リッチロード……それも魔人と呼ばれたゼパイルが生きていた時代の死霊術士の成れの果てとなれば、話は別だろう。

 どう考えても、外聞が悪すぎた。

 そしてマリーナに対して悪意を持っている者がそれを知れば、嬉々として悪名を広めていくだろう。

 マリーナも、冒険者として活動していた時にはそれなりに恨みを――逆恨みだが――買っているし、それはギルドマスターとして活動している今も同様だ。

 また、それらのものよりも圧倒的に多いのは、マリーナの美貌を見初めた貴族や大きな商会の会頭といった、マリーナを己の物にしようと策略を張り巡らせようとしている者達だろう。

 財力や権力を持っているそのような者達にとって、下手をしたら自分の身の破滅だというのを知っていながらもマリーナの美貌を見れば自分の物にしたくなるのは当然だった。

 当然マリーナはそのような者達に自分の身を好きにさせる気はない。

 だからこそ、アンブリスについての情報はそう簡単に公に出来るものではなかった。

 また、ある程度の裏付けが必要という理由もある。

 何もグリムが嘘を言っていると思っている訳ではなく、単純にモンスターというのはその時、その場所によって行動に変化が起きるというものだ。

 事実、マリーナが知っているアンブリスというのは三百年前のものも含めてゴブリンを始めとした亜人型モンスターを進化させるという能力を持っていたが、グリムの説明ではそれ以外を進化させる能力を持っているアンブリスもいたというのだから。


「アンブリスの個体差はともかくとして、だ」


 マリーナとグリムの言葉にエレーナが割り込むように言葉を挟む。


「それで、グリム殿。レイの言う通りの流れでアンブリスがヴィヘラの身体に融合……と言っていいのかどうかは分からないが、とにかくそのような状況になってしまったのだ。そうだな?」


 エレーナに確認の視線を向けられたレイとマリーナは、即座に頷く。


「ああ。回復魔法の使い手にも医者にも診て貰ったんだけど、身体に異常は全くないのに一切目を覚ます気配がない。もう、意識を失ってから二ヶ月近くが経つ」

『ふむ……考えられる可能性としては、アンブリスがヴィヘラとか言ったか? その女の身体を乗っ取ろうとしているのじゃろうな。それでも目を覚まさないのは、その女がアンブリスと戦っておるからじゃろう』


 グリムの口から出た言葉に、やっぱり……と全員が納得する。

 その予想は、医者や回復魔法の使い手からも指摘されていたものだからだ。


「つまり、次に目を覚ました時はヴィヘラか……もしくはアンブリスのどちらなのかが分からないってことか」

『そうじゃな』

「それでも……それでも、何かヴィヘラの助けになる方法はないのか?」


 このまま大人しくヴィヘラとアンブリスの戦いをじっと見ていなければならないというのは嫌だ。

 そう告げるレイの言葉に、エレーナとマリーナの二人もまた同様に頷きを返す。

 そんなレイ達の様子に、グリムは少しだけ柔和な笑い声を上げ……やがて口を開く。


『お主達に出来る事と言えば、その女……ヴィヘラとか言ったか。そのヴィヘラの精神世界に入り込んでそれを助けるといったことじゃろうが……正直なところ、かなり厳しいぞ?』

「厳しい?」

『うむ。他人の精神の中に入るのじゃから、当然相応の負荷が掛かる。それも、入られる方だけではなく、入る方にもじゃ』


 そう言ってくるグリムの言葉には、レイを心配する色がある。

 グリムにとって、レイは色々な意味で貴重な存在だ。

 自分と気軽にやり取りをするというのもそうだし、ゼパイル一門の生み出した魔獣術を継承しているという点でも同様だ。

 そして、今回のようにレイの側にいる人物は、自分を見ても混乱したり騒いだりしないということを知ることも出来た。

 だからこそ、他人の精神世界に入り込むような真似はあまり勧められなかった。

 もっとも、それを口にしたのがグリムである以上、今更なかったことには出来ないのだが。


(ふむ?)


 何か代わりの案はないのか。

 そう考えたグリムの視線が向けられたのは、マリーナ。

 正確には、人よりも長い耳だ。

 その耳と褐色の肌は、マリーナがダークエルフであることの証だ。

 そしてダークエルフと言えば……そう考えたグリムが、ふと以前に聞いた話を思い出す。


『お主、ダークエルフじゃな?』

「え? あ、はい。そうですが」

『ならば、お主の故郷には世界樹があるな?』


 何故グリムの口から世界樹という言葉が出て来たのか。

 そのことに疑問を覚えながらも、ここでそれを否定することは出来なかった。

 もしかしたら……そんな思いがマリーナの中にあったのも事実だろう。

 そんなマリーナの様子を見ながら、グリムは再び口を開く。


『世界樹の力を使えば、その者の精神的な強さを増すことが出来る……つまり、現在意識を失っている女にとってアンブリスと対峙する為の大きな力になるじゃろうて』

「……世界樹にそんな力があるのですか?」


 世界樹の巫女とも呼べる血筋のマリーナだったが、そんな話は聞いたことがない。

 グリムの口から出た以上、全くの嘘という訳ではないのだろうが……そう思いつつ、それでもやはり完全に信じることは出来ない。

 そんなマリーナの様子を見て取ったのだろう。グリムは一つ頷いてから口を開く。


『信じられぬのも無理はない。じゃが、試してみる価値はあるのではないかな? 儂としては、出来ればレイを精神世界などという場所に送りたくはないのじゃ。そうである以上、ここで嘘を言っても仕方がないと思うがな』


 対のオーブに映し出されているレイの姿を見ながら告げるグリムの言葉は、マリーナにとって嘘を言っているようには感じられなかった。

 それはエレーナにとっても同様で、ただ黙ってそのグリムの顔を見ることしか出来ない。

 グリムとマリーナの間に生まれる沈黙。

 それを破ったのは、レイの一言だった。


「マリーナの故郷にある世界樹は、つい数ヶ月前にちょっと問題が起きたんだ。それを考えると、あまり無理はさせたくない」

『じゃが、儂が知る限りではそれが一番その女の意識を取り戻す近道じゃぞ?』

「……そう言われてもな」


 レイは改めて視線を自分の横にいるマリーナへと向ける。

 そのマリーナは、美しく形の整った眉を寄せて悩んでいた。

 マリーナもダークエルフであり、世界樹に連なる血筋の生まれだ。

 そうである以上、集落にいない今でも世界樹に対する強い思いはある。

 今年の春に起きたばかりの騒動で、間違いなく弱まっている世界樹。

 その世界樹の力を借りてもいいものかどうか……正直なところ、マリーナには判断出来なかった。


「グリム様、他に何か方法はないのですか?」


 出来れば他に方法があって欲しい。

 そう願うマリーナだったが、対のオーブに映し出されているグリムはその骸骨の顔を横に振る。


『勿論他に何か心当たりがあるか……と言われれば、あると答えよう。じゃが、竜の心臓やフェニックスの涙、九尾の狐の癒しの尾といった物が入手出来るか?』

「それは……」


 今グリムが口にしたのは、そのどれもが非常に稀少な……それこそ伝説や英雄譚といったものに出てくるような代物だ。

 とてもではないが、探してすぐに見つけるという訳にはいかない。

 おまけに、今グリムの口から例として出されたモンスターは、そのどれもがランクSモンスターだ。

 倒そうと思ってそう簡単に倒せるような相手ではない。


「竜?」


 少しだけ不安そうな表情で呟いたのは、エレーナだ。

 自分の使い魔のイエロが黒竜の子供であることを案じてのものだろう。

 そんなエレーナの態度が気になったのか、対のオーブの向こう側でグリムの視線がエレーナに向けられる。


『竜について何か心当たりでも?』

「私が竜言語魔法で生み出した使い魔が、黒竜の子供なのだ」

『ふむ、残念じゃが必要なのはエンシェント・ドラゴン……とまではいかぬが、それに近い年月を生きた竜の心臓じゃ。生み出されたばかりの使い魔では今回は役に立たんの』


 グリムの言葉に、エレーナは安堵の息を吐く。

 使い魔という立場ではあっても……いや、だからこそと言うべきか、エレーナにとってイエロは大事な存在となっていたのだ。


(それに、もしイエロの心臓でヴィヘラが意識を取り戻したとしても、間違いなく喜ばないだろうしな)


 それどころか、怒り狂うだろうというのはレイにも容易に想像出来た。


「他に何かないのか? 別のモンスターの心臓とか魔石とか……」


 怒り狂ったヴィヘラを想像して背筋が冷たくなったレイは、その考えを振り払うようにグリムへと尋ねる。


『ふむ、そうじゃな。先程言った物程効果は劇的ではないが、ランクSモンスターの心臓なら儂が多少手助けをすれば何とか出来るが……』


 そう言われ、なら最初からグリムがやってくれればいいのでは? と皆が思うが、こうして話をしていてもグリムはモンスターなのだ。

 元人間ではあっても、今はアンデッドであるグリムの思考を無理にどうこう出来る筈もない。

 ともあれ、ランクSモンスターと言われてレイの脳裏を過ぎったのは、ランクAモンスターの希少種ということでランクS相当とされているセト。

 だが、当然セトを犠牲にするような真似は出来ない。


(他に……他に何か……うん? ランクS? ちょっと待て、もしかして……)


 グリム、エレーナと順番に視線を巡らせ、レイは口を開く。


「銀獅子」

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