第1053話

 身体中がエアロウィングの肉と骨と内臓に塗れてしまったセトは、五感が鋭いだけに現状に我慢出来なかった。

 悲しげに喉を鳴らしてレイの方へと視線を向けてくるセトに、レイは黙ってミスティリングから流水の短剣を取り出す。

 普通の冒険者であれば水の入った革袋……馬車の類があれば、水の入った樽を常備している者も多い。

 森の中でなら川がある可能性もあるが、それも絶対ではない。

 そして人、エルフ、ドワーフ、獣人、それ以外の希少種族も、基本的には水がなければ生きていくことは出来ない。

 ここで基本的にとしたのは、希少種族の中には水を全く必要としない種族もいる為だ。

 ともあれ、冒険者であれば水を持ち歩くのは必須といえる。

 そんな中では、レイはかなり稀少な存在と言えるだろう。

 ミスティリングを持っている為に、それこそ水の入った樽は幾らでも持ち歩ける。

 そして実際ミスティリングの中には水の入った樽が幾つかあるのは事実だ。

 しかし……基本的にレイが水を使う時に使用するのは、流水の短剣と呼ばれるマジックアイテムだった。

 本来は持ち主の意思に応じて水を武器として操る能力を持った短剣なのだが、炎の属性に特化しているレイは、世界樹を全快させるだけの魔力を持っているにも関わらず出せるのは少しの水だけ。

 だがレイの魔力を使用して生み出された水は、天上の甘露と呼ぶべき程の美味さを持つ。

 それこそエルジィン全体で見ても屈指の水と言えた。

 そんな水を、レイは特に躊躇することなくセトへと掛ける。

 もしこの場をレイが流水の短剣で作り出す水の美味さを知っている者が見たとすれば、悲鳴を上げていただろう。


(よく考えれば、この水を売れば俺は金に困ることはないんだよな。……まぁ、この水がいつまで味を維持出来るのかとかは、試したことがないから分からないけど)


 セトの毛についた羽毛や血、肉や骨の内臓の破片といったものが少しずつ流れ落ちていく。流れ落ちていくのだが……セトは残念そうに喉を鳴らす。

 何故なら、流水の短剣から流れている水はチョロチョロと表現するのが相応しい程度の勢いでしかなく、とてもではないがセトの二mを超える身体を洗い流すのに水の量が足りなかった為だ。

 この場合に必要なのは、水の質ではなく量。

 それを悟ったレイは、困ったようにセトに水を掛けつつ、話し掛ける。


「なぁ、セト。このままだといつまで経ってもしっかりと洗い流すことが出来ないだろ? 確か障壁の結界と迷いの結界の間に泉とか川があるって話だったし、そこを探してみないか?」

「グルルゥ?」


 本当にあるの? と首を傾げるセト。

 普段であれば愛らしいと表現出来る仕草なのだが、生憎と今のセトは身体中にエアロウィングの残骸が付着している状態だ。

 今の状況で首を傾げるような真似をしても、それはどこか不気味な様子ですらあった。

 だが、レイはそんなセトの様子に全く怯えた様子も見せずに言葉を続ける。


「ジュスラがそういう場所で昼寝をしていたところを連れ去られたって言ってたから、あるのは間違いないと思うぞ。それがどこかは分からないけど」

「グルルルルゥ! ……ギャンッ!」


 任せて! と喉を鳴らしたセトだったが、次の瞬間には悲鳴が上がる。

 嗅覚上昇のスキルを使用したのだが、それを使用したのがここ……エアロウィングの残骸が散らばっている場所だった為に、予想外の悪臭に悲鳴を上げたのだろう。


(水の匂いを嗅ごうとして、血臭を嗅いだのか。……ただでさえ嗅覚が鋭いのに。普通に戦ってるだけだと全くセトに勝てなかったエアロウィングだけど、まさかここで一矢報いるとはな。まぁ、嬉しくはないだろうけど)


 自分の死体の肉片がセトの嗅覚にダメージを与えたと言われても、レイならとても喜べない。

 そもそも、自分が死んでいるのでは一矢報いたとしてもそれで終わりなのだから。


(やっぱり自分が生き残ってこそ、だよな)


 自分が生き残ってこそ意味がある。

 それはレイの中では覆しようのない事実だった。


「グルルゥ……」

「っと、悪い。じゃあ少しここから離れるか。それと、川を探すのなら水の匂い以外にも水の音を探すって方法があるぞ。……まぁ、水の流れがないと駄目だから、泉とかを探すのは難しいだろうが」

「グルゥ!」


 先程の失敗を取り返そうというのか、セトが元気よく鳴き声を上げる。

 そうして早速水の音を聞き取ろうと、目を瞑って聴覚へと集中を始めた。


(嗅覚上昇のスキルはあるけど、聴覚上昇のスキルは持ってないから、ここからは完全に素の能力次第だな。それでもセトの素の能力だと考えれば、不安はないけど)


 聴覚に集中しているセトの邪魔をしないように、レイは黙ってセトを見守る。

 また、周囲に存在するエアロウィングの残骸へと視線を向けると、そこには既に虫が……それも体長十cmくらいもある巨大な虫や、他にも小さな蟻の集団も集まってきていた。


(セトを恐れた様子がないってことは、多分そこまで高い知能とか持ってないんだろうな。いや、知能が発達してないってことは野生で、そうなるとセトの脅威を感知してもおかしくはない、か?)


 虫達にとっては、エアロウィングの肉や内臓というのはご馳走以外のなにものでもないだろう。

 特に肉が砕け散っており、わざわざ小さく食い千切る必要がないというのは小さな虫には助かってる筈だ。


(エアロウィングの肉を食って、モンスター化したりしなければいいんだけど)


 次第に多くなっていくのは虫のみで、動物の類は存在しない。

 この辺はセトに対する恐怖を感じている者が多い為か。


「グルゥ!」


 小さな蟻が行列を作り、次々と肉の破片を運んでいる光景を眺めていたレイの耳に、セトの鳴き声が響く。

 その鳴き声には嬉しそうな色があるのを考えれば、恐らく水の音か何かが聞こえたのだろうというのは理解出来た。


「水の音が聞こえたのか?」

「グルゥ!」


 その通り、と喉を鳴らしたセトは、クチバシでドラゴンローブを引っ張って早く行こうと態度で示す。

 エアロウィングの肉片が散らかっているここには、セトも長居したくはないのだろう。


(酒池肉林って言葉があるけど、ここは酒池はともかく肉林ではあるよな)


 近くの木の枝にエアロウィングの内臓がぶら下がっている光景を見ながら、レイはセトと共にその場を後にする。


「グルゥ……グルルルゥ……」


 森の中を歩きながら、セトは尻尾で身体に付いている肉片や内臓を落とす。

 レイもそんなセトに協力し、尻尾の届かない場所についている肉片や内臓といったものを取り除いていく。

 時々セトの毛に絡まるようにして骨の破片があるので、適当にやるのではなく注意深く毛を梳かなければレイの手に骨が刺さったり、セトの毛が抜けたりする。


「何だってこんな真似をしてるんだろうな、俺達」

「グルルゥ」


 レイの言葉に、セトはごめんなさいと小さく喉を鳴らす。

 パワークラッシュの威力にセトが有頂天になっていたのは事実だろう。

 その上で剛力の腕輪と落下しながらの一撃を放ったのだから、この有様にあるのはある意味当然だった。

 悲しそうなセトの様子に、意図してなかったとはいっても今の言葉がセトを責めているようにも取れることに気が付いたレイが、慌ててセトを撫でる。

 ……手に血や肉片がこびりついたが、今は特に気にした様子も見せずにセトへと声を掛けた、


「失敗は誰にでもあるから気にするな。それに、パワークラッシュのレベルが上がって俺の為になるって思ってくれたんだろ? なら、別に責めるつもりはないから」


 落ち込むセトの頭を撫でながら告げるレイに撫でられ、そのまま数分。撫でられながら歩き続けているうちにセトもようやく立ち直ってきたのか、歩く姿には元気が満ち溢れ始めていた。

 そうして歩き続けること十数分。ようやくレイの耳にも水の流れる音が聞こえてきた。


「川があったな」

「グルゥ!」


 レイの呟きに、セトが嬉しそうに喉を鳴らす。

 そして森の木々を抜けると……次の瞬間には、レイとセトの前には川が姿を現した。

 ただ、そこまで大きな川という訳ではない。

 深さは足首から、もっとも深い場所でも膝くらいまで。

 川の向こう岸までは七mから八m程度といったところか。

 潜ったりは出来ない程度の浅い川だったが、それでもセトの身体を洗う程度は問題がない。


「グルゥ……」


 少しだけセトが残念そうに鳴いたのは、出来れば川に潜って遊びたかったという思いがあるからか。

 潜って魚を追うのは楽しそうだと思うのは、セトが猛禽類の要素も持ったグリフォンだからだろう。魚を好むという意味では、獅子……正確には猫科の要素が入っているせいかもしれないが。


「ほら、セト。身体を洗うんだろ? こっちに来いって」


 ドラゴンローブとスレイプニルの靴をミスティリングへと収納し、身軽になったレイがセトを呼ぶ。


「グルルルゥ!」


 レイの呼び掛けに、セトはすぐに潜って魚を獲ることよりもレイに洗って貰う方を望んでそちらへと向かう。

 ある程度は移動中に肉片や内臓の破片といったものを取り除いたとはいっても、それでもやはり完全にという訳にはいかない。

 今の状態のまま突っ込んでこられれば、レイもまた身体に肉片や内臓を付けてしまう……ということで手早く川の水をセトへと掛けて洗い始める。


「グルルルルゥ!」


 自分の身体を洗ってくれるレイの手が気持ちよかったのか、セトは嬉しそうに鳴き声を上げる。

 そんな様子を見ていたレイは、知らず知らずのうちに自分の口元にも笑みが浮かんでいることに気が付く。

 やはり自分のやっていることで喜んで貰えるというのは、それだけ嬉しいのだろう。


「ほら、あまり暴れるなって。……この辺、血が固まり掛けてるな。もうちょっと水を掛けるから待ってろよ」

「グルゥ!」


 頷き、そのついでなのか、グリフォンとしての本能なのか、セトはまるで犬が水で濡れた時のように身体を震わせる。

 そうなれば当然近くにいるレイにも水飛沫が掛かる訳で…… 


「うわっ!」


 大量に掛かった水飛沫に、レイは小さく悲鳴を上げる。

 それでも今の季節は春であったおかげで、川の水はそこまで冷たくはない。

 晴れの今日は森の中にいても少し暑く、水の冷たさは気持ちいいと言ってもよかった。

 それでも身体が濡れたのはレイにとってもあまり面白くなく、川の水をすくってセトへと掛ける。


「グルゥ! ……グルルルルゥッ!」


 セトの方もいきなり水を掛けられて驚くが、次の瞬間には前足を水面へと叩きつけ、レイへと水を掛ける。


「うおっ、やったなセト。ならこっちも!」


 こうして川の中で行われた水の掛け合い。

 一人と一匹は、夢中になってお互いに水を掛ける。

 ……レイにしろセトにしろ身体能力は並の人間を大きく上回る為、自分の方へと向かってきた水を回避し、そのまま反撃で相手へと水を掛けようとし……それをまた相手が回避してと、とてもではないが戯れとは言えない程に高度な身体能力を使ったやり取りが行われていた。


(普通ならこういうのって、恋人とかとやるんじゃないのか?)


 セトと遊び……否、戦いながら、ふとレイの脳裏に日本にいる時に読んだ漫画の古典的な光景が蘇る。

 川ではなく海やプールが舞台だったが、そこで相手に水を掛けて『えいっ!』『きゃっ、やったなぁ! ならこっちも、えーい!』『うおっ、やるな』といった恋人同士のベタなやり取りの光景が。


(何で俺はセトとキャッキャウフフと遊んでるんだろうな。……別に嫌じゃないんだけど)


 水の掛け合いをしながらそんなことを思い、ふと視線の先……水底に小さな蟹がいるのに気が付く。


「お、蟹だ。セト、蟹がいるぞ」

「グルゥ?」


 蟹? とレイの言葉に興味を持ったのか、セトはレイに水を掛ける行為を一旦止めて近づいて行く。

 別にセトも蟹を見るのはこれが初めてという訳ではない。

 港街のエモシオンへと行った時、何度か食べた経験がある。


(まぁ、俺は蟹よりもエビ派な訳だけど)


 指先程の小さな蟹を見ながら、レイは内心で呟く。

 こうして見ている分にはいいのだが、それでも食べるとなればレイは蟹よりもエビの方が遙かに好きだった。

 何よりエビの食感がレイの好みにあっており、エビであればレイは幾らでも食べられそうな気さえしている。

 食感が好みだからこそレイが好むのは大きめのエビであり、小さなエビというのはエビであってもレイの好みではなかったのだが。


(エビフライ食べたいな)


 そんな風に考えながら、レイはセトと共に川遊びを楽しむのだった。

 ……森の異変について調べるということはすっかりと忘れて。

 一人と一匹がそれに気が付くのは、もう少し後の話。

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