第1015話
周囲に響いた、ズボズの右肘の折れる音。
生々しい音だけに、余計にその痛みを想像して何人かは顔を顰めていた。
だが今の異形と化したズボズが、右肘の骨が折れたくらいでどうにかなる訳がない。
テコの原理を利用したとはいえ、ヴィヘラの胴体程もある太さの腕の肘を折ったのだから、普通なら油断してもおかしくはない。
しかし、ヴィヘラは肘の骨を折るや否や、即座にズボズから距離を取る。
実際、その行動は決して間違っていた訳ではない。いや、寧ろ正解だったと言えるだろう。
何故なら、ズボズは折れた右腕をそのままに、空いている方の左腕を強引に振るったのだから。
一瞬前までヴィヘラの顔があった位置を通り過ぎて行く左拳。
拳の感触がなかったのは不満そうだったが、それでもヴィヘラが自分の身体の上から消えたおかげで身体の自由を取り戻すことが出来たズボズは、そのまま立ち上がる。
自分から離れたものの、それでもまた近くにいるヴィヘラへと向かって右拳を握ろうとするが……肘が折られたことにより、拳を握ることは出来ない。
「ガァァ?」
何でだ? と言いたげに訝しげに鳴くズボズだったが、やがて自分の右腕がろくに動かなくなっていることに気が付く。
左腕で右肘を押さえ……瞬間、その場から大きく跳ぶ。
空気を斬り裂く音と共にやって来たミラージュの剣先が、ズボズが立っていた場所を貫く。
「ちょっと、エレーナ!」
ミラージュを見ただけでそれが誰の武器なのか分かったヴィヘラが不満も露わに叫ぶ。
そんなヴィヘラの言葉に、エレーナはミラージュを手元に戻しながら口を開く。
「ヴィヘラの満足の為だけにこの戦闘を行っている訳ではないだろう。そもそも、ヴィヘラはそこの男との戦いを既に済ませたのだ。それを考えれば、欲を掻きすぎると自滅するぞ」
「……それを言うなら、エレーナだってそうで……しょ……」
ヴィヘラの言葉は途中で途切れる。
それは、エレーナがスレイプニルの靴でアドリアの背中を踏み、身動き出来ないようにしている姿を見た為だ。
連接剣のミラージュという攻撃手段がある以上、エレーナが遠距離から攻撃するのはおかしくない。
それでも迂闊に攻撃に集中すれば、アドリアが逃げ出した時に対処出来ない。
そう考えたエレーナの選んだ解決策が、そもそもアドリアが逃げようとしても逃げられないようにしてしまえばいいというものだった。
(それは分かるんだけど……)
右肘を押さえているズボズへと視線を戻しながらも、ヴィヘラは今見た光景で一気に戦闘意欲が失われていくのを実感する。
まるで女同士の艶事を見てしまったような、そんな感覚。
勿論真実は大きく違うというのはヴィヘラにも理解は出来た。
現に、今もアドリアはエレーナの足の下から逃げ出して、どうにかこの場から逃げ出そうとしているのだから。
それでもまるで嗜虐趣味を見せられてしまったかのようで、ヴィヘラの戦意は急激に下がっていく。
それを見たレイは、炎帝の紅鎧を発動したまま叫ぶ。
「ヴィヘラ、退け! そいつには俺の方が相性がいい!」
「分かったわよ!」
何となく締まらない思いを抱きつつ、ヴィヘラはレイの言葉に従ってその場から離れるべく跳躍する。
そんなヴィヘラを逃がさんと、ズボズは既に再生が終了して自由に動かせるようになった右腕でヴィヘラを殴ろうとするが……
「この私が、そんな真似をみすみすさせると思うのか!」
アドリアを踏んだまま、ミラージュを振るう。
鞭状になったミラージュは、その刃でヴィヘラの追撃を行おうとするズボズを牽制する。
ミラージュの刃は、ズボズの身体を次々に斬り裂いていく。
長剣の刃が幾つもに分解されている為、一つずつの刃は小さい。
だが、それを振るうのは姫将軍の異名を持ち、エンシェントドラゴンの魔石を継承したエレーナだ。
刃で斬り裂くというよりは、鞭状の刃を叩きつけるといった一撃をズボズへと与える。
「ガアアアアアアアアアアアアアァァッ!」
ヴィヘラに殴られ、蹴られ、爪や刃で斬られ、浸魔掌を使われてもここまで苛立たしげな声を上げなかったズボズだったが、今の一撃はかなり効いたらしい。
いや、ズボズに与えたダメージとしてはそれ程大きくはないのだが、純粋に痛覚をより鋭く刺激した一撃だったと言うべきか。
既にヴィヘラを追うことはズボズの頭に残っておらず、ただ自分に痛みを与えたエレーナに憎悪の視線を向ける。
「おいおい、お前が憎んでいるのは俺だろう? なのにエレーナに行くのか?」
「ガァッ!?」
炎帝の紅鎧を展開したままのレイが、いつの間にか……本当にいつの間にかズボズのすぐ横に立っていた。
レイの存在に気が付くと同時に、暴走してるが故の勘の鋭さかズボズはレイへと向かって拳を振るう。
炎帝の紅鎧のすぐ側にいた為、ズボズの皮膚は見て分かる程に酷い火傷を負っていた。
それでも持ち前の高い回復力で火傷した場所を再生していくのだが、その速度も炎帝の紅鎧が放つ熱気の前では次第に遅れを取るようになる。
振るわれる拳をデスサイズを持っていない左手で受け止める。
肥大化したズボズの拳は、本来であれば容易にレイの身体くらいは砕けるのだろう。
だが、今のレイは炎帝の紅鎧を展開しており、その身体能力は極端に上がっている。
ズボズが振るう拳をその手で受け止める程度は全く問題がなかった。
そして拳をレイによって受け止められたズボズは、その拳を襲った刺すような痛みに絶叫を上げる。
「ガアアアアアアアァァァァッ!」
皮膚が焼け、肉が焼け、拳の骨までもが炭と化すような、そんな火傷。
本来なら再生するのだろうが、その再生も追いつかない程の熱によりズボズの右腕は炭と化し、地面へと落ちるとそのまま夕日の空へと砕けた炭の粉が舞う。
「お前、もう救えないな。……もう意識が残ってないんだろ? なら、このまま生かすよりも死んだ方がいいな」
「がうがががががががぁぁぁうううぁぁあっ!」
レイの言葉に何か危険なものを感じ取ったのか、ズボズは暴走した本能に任せて大きく後方へと跳ぶ。
何とかレイから距離を取りたいという思いからの行動だったが、それはあまりにも迂闊すぎた。
炎帝の紅鎧を発動したレイは、確かに身体能力が著しく強化されている。だが、同時に深炎という遠距離攻撃のスキルもあるのだから。
距離を取ったズボズを追いかけるように、炎帝の紅鎧の赤い魔力が投擲される。
素早く空中を飛んだその炎は真っ直ぐズボズへと向かい……
「ぐわぉおおおぉっ!」
その赤い魔力の危険性に本能的に気が付いたのか、ズボズは再び跳躍して距離を取る。
ズボズのいた場所へと命中した深炎は、着弾した場所に数m程の炎の柱を生み出し、周囲の気温を急激に上げていく。
もしズボズがその場所にいたままであれば、間違いなくズボズの身体全てが焼き尽くされていただろう火力。
それを間近で見たズボズは、暴走していても……いや、暴走しているからこそ本能で死の恐怖を感じたのだろう。
このままレイと戦えば間違いなく死ぬと判断し、一旦この場から離れようと……
「させんよ」
その瞬間、エレーナのミラージュが鞭状になりズボズの足へと絡みつく。
純粋な鞭ではなく、連接剣のミラージュだ。当然ズボズの足に絡みついている部位には刃も混じっており、触れたズボズの足を斬り裂いていく。
「があああああああああああああああぁぁっ!」
苛立たしげにズボズが叫んだのは、足の痛みからか、それとも逃亡しようとしたのを邪魔されたからか。
ともあれ、ズボズは足に絡みついた痛みよりも、レイから距離を取ることを優先してそのまま跳躍しようとする。
自分の足に絡まっている先にいるのは女が一人。
暴走しているズボズでも、そのくらいは分かったのだろう。
そして、自分の今の力であれば女が一人くらいで止めようとしても無駄だと。
……この時、明らかにズボズの中には新たな知性が生まれつつあった。
元々あったズボズの知性ではなく、暴走して巨大になった、元ズボズと表現すべき存在独自の知性。
勿論その知性の中にはズボズの影響が皆無という訳ではないだろう。
いや、ズボズの肉体が基になっているのだから、その影響は間違いなくある。
だが……それでも生まれたばかりの知性では、自分の足に絡みついている武器の先にいる者……エレーナの異質さには気が付けなかった。
「ぐおおおおおおおおおおおっ!」
足に巻き付いているミラージュ諸共にエレーナを強引に引きずって移動しようと地面を蹴ったズボズだったが、次の瞬間にはまるで大地に繋がれているかのような重さを感じ、そのまま地面へと引きずり倒される。
「ぐるらぁ? ぐろろぁっ!」
何が起きたのか、全く理解出来ないのだろう。
戸惑った声を上げつつ、ズボズは周囲を見回す。
そして、自分の足に絡まってる何かを持っているエレーナが、全く動じた様子がないのを見て、より大きな混乱に襲われる。
自分よりも圧倒的に小さな女一人に、何故自分の力が負けるのかと。
全く理解出来ない様子のズボズだったが、エレーナはそれが当然とばかりにミラージュを引っ張る。
すると、ズボズの身体は地面に引きずられてエレーナの方へと強制的に移動させられる。
「がががあぁぁぁぁぁああぁぁぁぁあっ!」
必死に耐えようとするズボズ。
だが……エレーナはエンシェントドラゴンの魔石を継承しており、その身体能力は今のズボズと比べても全く問題にならない程強力になっている。
それを知らないズボズは必死に地面を踏みしめ、掴まり、エレーナから逃げようとするのだが……
「俺の事を忘れてないか?」
肌に感じる熱気と共に、ズボズの動きが一瞬にして止まった。
そう、目の前の出来事だけに意識を奪われていたズボズは、いつの間にか自分に確実な死をもたらす存在を完全に忘れてしまっていたのだ。
完全な暴走であれば本能的にレイの存在を察知したかもしれないが、中途半端に知性があったのも影響しているのだろう。
レイの振るうデスサイズが、空中を走る。
横薙ぎの一閃は、一瞬光が走ったようにしか見えない程の鋭さだった。
だがその一撃は紛れもなく殺意が篭もった一撃なのは間違いなく、元のズボズとは比べものにならない程に巨大化したその姿の腹部を上下に分けるだけの一撃だった。
体内で鈍く蠢いていた戦闘自動反応神経も、何が出来るわけでもなくデスサイズの一撃を受けるしかない。
「がっ……がああああ? がぁっ!」
その一撃の鋭さに、ズボズは一瞬戸惑ったような声を出したものの、すぐに悲鳴を口にする。
胴体がずれていくその感触は、ズボズにとっても未知の感覚だったのだろう。
痛みではなく、熱さすら感じていた。
いや、炎帝の紅鎧を使っているレイがすぐ側にいるのだから、皮膚が焼けていく過程で熱さを感じても当然なのかもしれないが。
レイが攻撃をするということで、ズボズの足に絡んでいたミラージュを手元に戻したエレーナは安堵の息を吐く。
その力を信じてはいたが、それでもやはりズボズのような存在と戦う以上、何があってもおかしくはなかった。
それでも暴走しているズボズを逃がす訳にはいかない以上、絶対にここで倒す必要があり、その為にはレイの力が必要だった。
いや、エレーナの力でもズボズを倒すことは決して無理ではなかっただろうが、それでもレイほどに迅速に倒すことは難しかっただろう。
また、エレーナが行える最も威力が高い攻撃方法は、エンシェントドラゴンのレーザーブレスだ。
そんなものをこの場で使えば、周辺にも大きな被害が出る。
それこそ、下手をすればスラム街そのものを破壊するだけではなくギルムにも被害が出る可能性が高い。……領主の館が破壊される可能性すらあったのだ。
そう考えると、エレーナとしても簡単にレーザーブレスを使う訳にもいかない。
ミラージュを構え、何かあったらすぐに攻撃出来るようにズボズを眺めるエレーナとは裏腹に、レイは胴体から上下二つに分かれても、まだ生きているズボズへと視線を向ける。
レイの視線にあるのは、しぶとい敵を倒した喜びよりも哀れみの色が強い。
自分を狙ってきた相手ではあったが、最終的には自我が崩壊して使用したマジックアイテムの暴走によりその存在そのものすら消えてしまったのだ。
半ば自業自得の結果ではあると知っていても、若干の哀れみを覚えざるを得ない。
それは、カバジードという自分と同じ出身の人物をズボズが慕っていたことにもあるのかもしれないが。
地面に崩れ落ちた上半身が、内臓を零しながらも動こうとしている。
炎帝の紅鎧の近くにいる為、血は蒸発し、内臓は焼けていく。
「……もう、眠れ。深炎」
その言葉と共に炎を圧縮した深炎を飛ばし……次の瞬間、ズボズは地面に立っていた下半身諸共急激に焼かれていく。
「カバ……ド……様……」
最後にレイの耳にそんな声が聞こえてきたが、それもすぐに終わり……数十秒後にそこに残っていたのは、炭と化したズボズだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます