第950話

 クエント公爵。貴族派、中立派よりも多い貴族が集まっている、ミレアーナ王国の中でも最大派閥である国王派の重鎮。

 そんな人物が握手を求めて自分に手を差し出していることに、レイは驚きつつも差し出された手を握り返す。

 以前、目の前にいる人物が礼儀にはうるさいという話を聞いており、苦手な相手だと先入観から思っていた。

 だが今こうして握手をしている相手は、とてもではないが言われている程に礼儀にうるさい人物には思えない。


「ふむ、これが深紅の異名を持つ冒険者の手か。……不思議な手だな。儂はこう見えて、強い相手というのは見慣れている。だが、お主は儂の目から見てもとても強そうには思えない」


 そっとレイの手を離したロナルドは、レイの手の次に顔を見てしみじみと呟く。

 レイがこれまで行ってきた数々の行動……偉業と言ってもいいような行動を理解しているからこそ侮るような真似はしないが、もし何も知らなければ、レイをランクBという高ランク冒険者とはとてもではないが思えなかっただろう。

 それ程ロナルドの目の前にいる少年は奇妙な存在に思えた。

 もっとも、奇妙な存在に思えたからと差別するような気持ちはロナルドにはない。

 そもそも奇妙な存在というのであれば、自分の愛娘も十分に奇妙な存在なのだから。

 齢十歳程度で明晰な頭脳や幾つもの魔法を使いこなす能力を持ち、更には父親の代理として貴族としての仕事すらもこなす。

 そこまで考え、ロナルドは今はそのようなことを考えているような時ではないと、改めて自分の前にいる人物へと視線を向けて口を開く。


「お主のおかげで、現在国王派の中で大きな不正を働いていた者は次々と罰を受けている。勿論不正を働いている全ての貴族を処分出来る訳ではないが、それでもかなりの貴族が今回の件で爵位を落としたり、酷いところでは爵位剥奪にすらなる者もいるだろう」

「……そこまで、ですか?」


 ロナルドの言葉に、レイは意外そうに口を開く。

 綱紀粛正を行うという話は聞いていたが、それでも爵位剥奪まで踏み込むとは思ってもみなかった為だ。

 爵位剥奪……つまり、貴族から平民へと身分を落とされるということだ。

 今まで貴族として高慢に振る舞い、贅を尽くした生活をしてきた者が平民へと身分を落とされれば、まず生きていくことは難しいだろう。

 人間、一度贅沢を覚えてしまえばそれをやめるのは不可能……とまではいかないが、難しいのは事実なのだから。

 平民から恨みを買っている者であれば殺されるということもあるだろうし、生活の水準を下げられない為に借金を重ね、妻や娘は娼婦へと、本人や息子は奴隷となる……というのも、珍しい話ではない。

 それどころか、爵位を剥奪された者の結末としては一般的ですらある。

 勿論全ての貴族がそうなるという訳ではない。

 中には心機一転して商売の道へと走って商人として成功した者もいるし、冒険者となって大きな功績を挙げて再び貴族へと返り咲いた者、更には自分で国を興して国王となった者すらも存在している。

 それでも、そんな成功を収めた者は僅かであるのも事実なのだが。


「そうだ。中には領民に対してとんでもない税金を掛けている者もおったし、初夜権などというものを大真面目に自らの領地で施行していた者すらいる。……愚か者共め」


 思い出しただけでも我慢出来ないのか、ロナルドの眉が不愉快そうに顰められる。

 それを見ただけで国王派の貴族がどのような行為をしていたのか、ロナルドの口から出た言葉もあって、貴族嫌いのレイには何となく理解出来た。


「これでミレアーナ王国が少しでも過ごしやすくなるのなら、俺としても助かります」


 レイが自分のことを私ではなく俺と表現したことに、ロナルドの眉が一瞬だけ顰められる。

 だが、元々エリンデからレイが貴族に対する礼儀作法を苦手としているというのは聞いていた為、不満を口にすることはない。

 そんなレイの態度を承知の上で、こうして会いに来たのだから。

 それにレイが最も親しくしている貴族のダスカーもこのような態度を許容しているのだと思えば、自分がここでレイを叱責するのは自分の方が器が小さいようで面白くなかった。

 それ以上に今回の件では、レイを招いた上で襲撃を許してしまったのだから自分達が責められてもいいのに、それを許容して貰えているというのはロナルドの立場としては感謝するしかない。

 ……実はレイと最も親しい貴族は、エレーナ・ケレベルだというのを知れば、ロナルドも驚いてそれどころではなくなるだろうが。

 姫将軍の異名を持ち、貴族派の象徴的な人物がレイと恋仲だというのは、普通であればとても信じられる内容ではないだろう。


「そうだな。お主には国王派の件で色々と迷惑を掛けた。だが、この綱紀粛正が終われば、国王派は汚名を払拭出来るようになるだろう」


 そうであって欲しい。いや、必ず自分の力でそうしてみせるという意思を込めたロナルドの言葉には、レイも頷くしかない。

 半分期待を込めてであったが。

 ソファへと座るように促されたレイは、ロナルドの向かい、マルカの向かいへと座る。

 そうなれば当然ロナルドやマルカの護衛としてこの場にいるコアンやイスケルドと向かい合うことになるのだが、その二人はレイと視線があっても特に口を開く様子がない。

 コアンが軽く目礼するだけだ。

 この場において、自分達は単なる護衛でしかないというのを自覚している為だろう。


「それで、だ。お主はこれからどうするつもりだ?」


 テーブルの上にあった紅茶を一口飲んで、これからどうするつもりだと聞いてくるロナルドにレイは首を傾げる。


「どうするというのは、どういうことでしょう? 俺は暫くここで士官学校の教官を続けるのでは?」

「お主はそれでいいのか? こう言ってはなんだが、儂の庭とも呼べるこのグラシアールの……それも士官学校の中という場所で敵に襲われたのだぞ? 本来なら国王派の貴族による逆恨みの襲撃が起きないようにと、わざわざここまで来て貰った上で」


 自分で言っていて情けなく思ったのだろう。ロナルドは一旦言葉を切って溜息を吐く。

 公爵という非常に高い爵位を持っているロナルドにとって、今回の件は明らかに失態だった。

 幸いレイにその気はなかったが、もしレイがロナルドと敵対している人物であった場合、その気になればクエント公爵家は自分で招いた客人ですらも守ることが出来ないという噂が貴族社会に流れることになる。

 勿論そんな噂一つでクエント公爵家が潰れるといったことには絶対にならない。

 それでもクエント公爵家が無傷で済むという訳にはいかず、決して小さくないダメージを受けることになるだろう。


「そして、結局襲われた刺客を倒したのは儂の手の者ではなく、お主自身だ。そうであれば、このグラシアールの警備態勢を信用出来ないとして出て行っても儂は止めようがない。非はこちらにあるのだからな」


 ロナルドの言葉に、マルカは微かに不安の色を乗せた視線をレイへと向ける。

 父親から言われてのことではあったが、自分がレイをギルムからこのグラシアールまで連れて来た――正確にはレイが先行したのだから連れて来たというのは正しくないのだが――のだ。

 決してマルカに非がある訳ではないが、それでもやはり自分が責められているように感じてしまっても仕方がないだろう。

 そんなマルカを安心させるように、レイは小さく笑みを浮かべ、口を開く。


「安心して下さい。俺もここの生活は結構気に入っていますから、自分から出て行くつもりはないですよ。少なくても依頼の期限である春までは」


 レイの口から出た言葉が余程に意外だったのだろう。ロナルドだけではなく、コアンやイスケルドといった面々までもが驚きの表情を浮かべる。

 そんな中、エリンデやサルダートはレイがどう答えるのかが分かっていたかのように、当然といった表情を浮かべていた。


「……エリンデ、この者の教官としての資質はどうだ?」

「最上……とまではいかないけど、十分に為になっているよ。まだ教え始めてからそれ程時間が経ってる訳じゃないけど、三年と四年のSクラスはかなり腕が上がっているという話だし。模擬戦後の指摘も的確らしいね」


 エリンデの口から漏れたその言葉は、ロナルドに対して気安いと表現してもいいものだった。

 本来であれば礼儀には厳しいロナルドだったが、エリンデは自分が若い……いや、幼い頃からの友人であり、半ば無理を言って士官学校の学園長を務めて貰っている。

 そんな古馴染みの友人だけに、気安い言葉であっても公の場でない限りは特に問題なく受け入れていた。

 これが、少しロナルドと面識のある程度の人物が気安い口調で声を掛ければ、不愉快になったのだろうが。


「ふむ、なるほどな。……では、レイ殿。お主本格的に士官学校の教官になるつもりはないか? お主のように腕利きの人物が儂の部下になってくれると非常に助かるのだが。国王派としても、儂個人としてもな」

「いえ、残念ですがそのお話は受けることが出来ません。ダスカー様にも言ってるのですが、今回のように冒険者として依頼をうけるのであればともかく、仕官というのは全く考えてませんから」

「……儂からの頼みでも駄目か?」


 国王派の重鎮であるロナルドだ。持っている権力はミレアーナ王国の中でも上から数えた方が早い。

 そんな人物にじっと視線を向けられて尋ねられたのだ。普通の人物であれば、何も言えずに頷くしか出来なかっただろう。

 だが、その視線を向けられていたのはレイだ。

 特に何かを感じた様子もないままに、首を横に振る。


「貴族に仕えるというのは、俺の性に合わないんですよ。元々堅苦しいのは苦手ですし、俺自身色々と我慢弱いところがあったりします。そんな風に騒ぎを起こしやすい俺を部下にすると、それこそ余計な騒動が起きる可能性が高いかと」

「それを知っているのなら、余計な騒動を起こさないようにすればいいだけだと思うがな。……まぁ、いい。儂も無理にお主を引き抜こうとは思わん。そんな真似をしても、後々に災いをもたらすだけだろう」


 レイがどれ程の力を持っているのかというのは、国王派の重鎮でもあるロナルドであれば十分以上に知っている。

 特にサルダートですら足止めされてしまったスティグマ。そのスティグマ二人を相手にして、最終的には勝利を――セトがいたからこそだが――得たのだから、疑うまでもない。

 そんな人物を何らかの強引な手段で自分の部下にしても、何かあって裏切られた時に莫大な被害が出るのは確実だ。


(それに……)


 ロナルドは、隣に座っている愛娘へと視線を向ける。

 年齢不相応に明晰な頭脳を持っているマルカだが、同時に年齢相応のところも多くある。

 例えば食事の好み……苦い野菜が苦手であったりする。

 例えば日々の遊び……雪が降っていると外に飛び出して遊びたくなる。

 そして……お気に入りの人物に対する執着。

 この場合の執着というのは、自分の側に置きたいというだけではない。自分のお気に入りの人物が楽しく生きているということも意味している。

 そんな嗜好を持つ娘がここ最近気に入っているのが、ロナルドの前に座っている人物だ。

 それは、食事の時の話題でロナルドも十分に理解していた。……それがレイを自分に仕えさせたいと思った理由の何割かであるのも事実。

 レイの忠誠が完全に自分に向けられるのなら、まだ何らかの手段を講じる余地もある。

 だがロナルドがこれまで集めてきた情報や、今こうして話して得た感触ではとてもではないが忠誠を抱くようになるとは思えなかった。


(もっとも、マルカの側にこのような者がいるというのは、教育に悪いことなのかもしれん。そう考えれば、この者を取り立てられなかったというのは、決して悪いことばかりではない)


 今は自分に対して目上の者に対する態度で接している。

 だが、その内心が決して自分を尊敬しているというのではないのは、ロナルドの目から見ればすぐに分かった。

 貴族を貴族とも思わないその性格は、ロナルドが知っている限りでは異形とすら呼んでもいいような存在。

 そのような人物が愛娘の側にいないというのは、決して悪いことではないだろうと。

 もしそんなロナルドの考えをレイが知れば、悪い友人と遊んでいるのを許せない親という印象を覚えるだろう。

 それは決して間違ってはいなかったのだが。


「では、取りあえず以前からの契約通り、春までここで教官をやる。そう思ってもいいのだな?」

「はい。そのつもりです」

「そうか。では楽しみにしている。……ああ、それと今回の件で迷惑を掛けた詫びに、報酬には多少色を付けさせて貰おうか」

「ありがとうございます」


 こうして、再びレイは士官学校の教官として勤めることになるのだった。

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