第949話

 ベッドへと向かって窓から日の光が降り注ぐ。

 その日の光は当然ベッドで眠っていたレイの顔にも降り注ぎ、嫌でも覚醒を促す。


「んん……んあ?」


 不明瞭な声を上げて目を覚ましたレイだったが、ベッドの上で上半身を起こしながら動きを止める。

 数分程ボーッとし、眠そうな表情で大きく伸びをするとベッドから降りて身支度を調えていく。

 時間はまだ朝であり、スティグマとの戦いが終了し、エリンデに事情を説明し終わってからまだ数時間しか経っていない。

 いや、寧ろ数時間は眠ることが出来たと言うのが正しいだろう。

 普通であれば、あれだけの激戦を潜り抜けた後では神経がささくれ立って眠れないものなのだが、レイはそんなのは関係ないとでも言いたげにぐっすりと眠りに付いていたのだから。


「えっと、ここは……ああ、そうか」


 自分に与えられていた部屋がスティグマの襲撃で使い物にならなくなったことを、そしてこの部屋が学園長室からそう遠くない位置にある宿直用の部屋の一つだと思い出す。


「……で、俺はこれからどうすればいいんだ? 職員寮で朝食? エリンデに起きたと挨拶? まさか、このまま授業って訳じゃないだろうけど」


 呟きながら視線を窓の外へと向けると、まだ授業をするような時間ではないのは明らかだ。

 早朝とまでは言わないが、普段起きるよりは若干早い時刻。

 数時間前にこの部屋に来た時は即座に寝てしまったので、これからどうするか迷っていると、不意に部屋の扉がノックされる。

 一瞬またスティグマかと思ったレイだったが、まさか敵が尋ねてくるのにわざわざノックをしてくる筈もないと判断し、中に入る許可を出す。


「失礼します、レイ様。エリンデ様からレイ様のお世話をするように命じられた、メイドのスィンと申します。短い間ですが、不自由させないように精一杯お世話させて貰います」


 レイに向かって深々と一礼したそのメイドは、朝食の乗ったカートを部屋の中へと持ってくる。

 ゴミや埃が入らないようにされていた金属の蓋を取ると、そこにはパンとスープ、サラダ、ソーセージといった簡単な朝食が乗っていた。

 もっとも、簡単な朝食ではあっても粗末な朝食という訳ではない。

 冬だというのに生野菜のサラダがあるのだ。

 パンやスープも、それぞれ十分に厳選された食材を一流の料理人が調理した料理だった。

 スープの匂いや焼きたてのパンから漂ってくる香ばしい匂いは、これ以上ない程に食欲をそそる。


「どうぞ。こちら学園長秘蔵の紅茶です」


 テーブルに着いたレイへと差し出されたのは、どこか果実のような香りが漂ってくる紅茶。

 レイには紅茶の善し悪しというのはそれ程分からなかったが、それでもエリンデ秘蔵の紅茶ということであれば、下手をすると金や銀と同じ値段がするのではないかと思ってしまう。


「いいのか? 秘蔵ってくらいだからそんなに量もないんだろ?」

「はい。今回の件ではレイ様に色々とご迷惑をお掛けしたので、そのご機嫌取りとのことです」

「……いいのか?」


 再びレイの口から数秒前と同じ言葉が出るが、それが意味しているのは大きく違う。

 最初のいいのかというのは、紅茶を奮発してもいいのかという意味でのいいのかであり、次に口にしたいいのかというのは、本当のことであってもご機嫌取りと言ってしまってもいいのか? という意味だった。

 だが、メイドはレイの言葉に笑みを浮かべながら頷きを返す。


「はい、大丈夫ですよ。学園長から聞かれたらそのように言うようにと命じられてましたので」

「また、随分と露骨な……」


 そう言いながらも、レイはエリンデには感謝していた。

 自分を守る為にランクS冒険者のサルダートを呼んでくれたのだから、当然だろう。

 ……もっとも、そのサルダートは護衛として正直どうかというのがレイの感想だったが。

 国王派がランクS冒険者を囲っている形になっている以上、他の派閥がサルダートを雇うよりは報酬や各種条件の面で安上がりになったのは間違いない。

 それでも、ランクSである以上はそう簡単に雇えるものではない。


(もっとも、サルダートの場合は頼まれればすぐにでも引き受けそうな性格をしているけど。特に女から頼まれれば、すぐにでも頼みを引き受けそうな気がする。……絶対そうだとは限らないんだけど)


 朝食を綺麗に食べ終えると、メイドがすぐに片付ける。

 それを眺めていたレイだったが、メイドが部屋を出る前に軽く一礼して口を開く。


「朝食が終わって一段落したら、学園長室に来て欲しいとエリンデ様からの伝言です」

「エリンデが? ……分かった。少ししたら学園長室に行かせて貰うよ」

「はい、ではそのようにお伝えしておきます」


 そう告げ、カートを持って部屋から出て行くメイドを見送ると、レイはメイドが最後に入れてくれた紅茶を口に運びながらこれからのことを考える。

 元々レイがグラシアールへとやって来たのは、国王派の綱紀粛正の件でいらない騒動に巻き込まれないようにする為だった。

 今回の綱紀粛正は、レイが原因であると考える者も多い為だ。

 また、原因ではないと理解していても、腹立たしい思いを八つ当たりでレイに何かを仕掛けてくるという可能性も十分にあった。

 そんな真似をすれば、ただでさえここ最近は落ちている国王派の威信は更に地へと落ちる。

 去年の春に行われたベスティア帝国との戦争で見せた醜態、ベスティア帝国の内乱で本格的に噛むことが出来なかったという遅れといった大きな失態以外にも、国王派というミレアーナ王国の最大派閥に所属する故の貴族の横暴な振る舞いというのもそこには存在していた。

 だからこその綱紀粛正であり、それにレイが巻き込まれないようにと国王派の中でも重要人物であるクエント公爵家の本拠地、グラシアールへとレイを依頼という名目で招待したというのに、その結果が聖光教の暴走だ。

 クエント公爵やその一派にしてみれば、大失態と呼ぶしかないだろう。

 クエント公爵達にとって幸いだったのは、レイが今回の失態をクエント公爵の失態と見ていないことか。

 もし今回の失態をクエント公爵のせいだとレイが主張すれば、国王派の中でも大きな発言力を持っているクエント公爵であっても影響力低下は避けられなかっただろう。

 もっとも、レイの目から見れば聖光教が自分を襲ったのは迷宮都市エグジルでのやり取りの結果であり、自業自得……というのは多少言い過ぎだが、それに近いという思いがあった。


「ま、何だかんだで結局今回の件もどうにかなるんだろうけど。……なるよな? 聖光教はともかくとして」


 呟き、紅茶の最後の一口を飲み終わると、そのまま立ち上がる。

 簡単に身嗜みを整えると、部屋を出る。

 レイが泊まったこの部屋から学園長室まではそう離れている訳ではない。

 人の気配があまりない校舎の中を進み、やがて見覚えのある扉が見えてきた。


「エリンデ、レイだけどいいか?」


 ノックをしながら声を掛けると、すぐに中に入るように言われる。

 そうしてこれまで通りに部屋の中へ入ると、そこには予想通りの光景と予想外の光景という、二つの光景が広がっていた。

 まず予想通りの光景は、学園長室の中にエリンデとサルダートの姿があったこと。

 二人とも昨夜の件の後始末で忙しかったのだろう。顔には疲れが浮かんでいる。

 ……もっとも、士官学校の中で真夜中にあれだけ大きな騒動が起きたのだから、それを収めるのに苦労するのは当然だろう。

 レイが派手な魔法を使わなかったので、生徒達の寮の方までには騒動が広がることはなかったが、レイが部屋を借りていた職員寮で全てを隠すのは無理だった。

 当然だろう。職員寮には元冒険者という者達も多く住んでいる。

 そんな者達がいる中、一つ屋根の下で窓を突き破って外へ脱出したり、寮からある程度距離がある場所ではあっても地面一杯に炎を広げたりといった行動をしたのだ。

 ビセンテが使った聖域に気が付いた者も少なくない。

 もっとも、それが得体の知れない何かだというのは分かったが、魔力以外の力を使って起こされた現象だというところまで理解出来た者は少ないが。

 ともあれ、そんな風に一晩で起きたにしては濃すぎる騒動があったのだ。全てを隠し、落ち着かせるような真似をするのはほぼ不可能に近く、それでも何とか騒動を収めるべくエリンデやサルダートが……具体的には、主にエリンデが走り回る必要があったのだろう。

 自分やサルダートから事情聴取をしたり、説教をしている時間を事態収拾に充てればもう少し余裕があったのでは? とも思うレイだったが、それを口にすればまた説教されそうなので口にはしない。

 そして、予想外の光景。

 それは、学園長室にある来客用のソファへと座っている人物達だった。

 一人は十歳になるかどうかといった年齢の少女。この人物が誰なのかというのは、レイも顔見知りの相手。

 だが、こんな朝早くからここにいるというのは普通有り得ない人物、マルカ・クエント。

 ソファの後ろに護衛として立っている二人のうちの片方が元ランクA冒険者であり、マルカの護衛でもあるコアン。

 そしてもう片方がレイがグラシアールへやって来た時に出迎えに来た人物で、それ以後はレイも士官学校の中にいることが殆どであった為に会うことがなかった人物。クエント公爵が擁する騎士団の騎士団長でもあるイスケルド。

 そして、最後の一人。マルカの隣に座ってレイの方へと視線を向けているのは五十代程の男。

 本人は身体を鍛えてはいるが、それでも一流の強者といった訳でないのは明らかだった。 

 それでも、こうしてただ同じ部屋にいるというだけで強烈な存在感を露わにしている。

 そんな相手を前にしてレイが緊張した様子を見せなかったのは、やはり同じような存在感を発する――こちらは本人が騎士として高い戦闘力を持っている――ダスカーや、何よりベスティア帝国の皇帝トラジストをその目で見たことがあったからだろう。

 トラジストの持つ圧倒的な存在感に比べれば、今ソファに座っている人物が無意識に放っているプレッシャーはそう大したものではないと言い切ることが出来た。

 その初老の男から感じる雰囲気で……何より隣にいるのがマルカであり、背後に護衛として立っているのがイスケルドであるという時点で、その人物が誰なのかを理解することは出来た。


(この男が……)


 貴族派、中立派を大きく凌ぐ勢力の国王派。

 ミレアーナ王国の最大派閥の中でも大物であり、今回の国王派の綱紀粛正を実質的に行っている人物。

 その人物の姿に一瞬だけ視線を向けると、レイは再びエリンデの方へと向かって口を開く。


「随分と朝早くから呼び出してくれたけど、昨日の件か」


 フードを下ろして顔を露わにしたレイの口から出た言葉に、エリンデは苦笑を浮かべる。

 エリンデやサルダートは昨夜から寝ずに事態の収拾に努めてきたのだ。

 そんなエリンデにしてみれば、朝早く……つまり寝て起きたレイは羨ましいとしか言えなかったのだから。


「そうだね。私達の方は色々と大変だったけど、レイ殿は多少なりとも眠れたようだね」


 徹夜明けであっても、やはりエリンデは男とも女とも取れない態度なのは相変わらずだった。

 そんなエリンデの言葉に、レイも思わず笑みを浮かべる。


「若干寝足りないけど、贅沢は言わないよ。……それで、俺を呼んだってのは……」


 一旦言葉を切り、学園長室のソファへと座ってじっとレイという人間を見定めるように見ている初老の男。

 その人物が自分に用件があって呼び出したというのは、レイにとってもすぐに理解出来たことだった。

 それでも男よりも先にエリンデへ声を掛けたのは、やはり自分をここに呼び出したのがエリンデだということもあったし、何より初老の男がまだエリンデから紹介されていない為だった。

 その人物が礼儀に厳しいという話は前もって聞いていたというのも大きいだろう。

 もしここに自分を呼び出したエリンデを無視してその人物に話し掛けていれば、恐らく向こうに不愉快な思いを抱かせたのは間違いなかった。


「ああ、勿論君の予想通りだよ。……正直なところ、レイ殿と会わせるのはもう少し先になると思ってたんだけどね。レイ殿、そちらにおられるのが、このクエント公爵領の領主でもあるクエント公爵、ロナルド・クエント様だ」


 エリンデの口から自分の名前が出され、ようやくロナルドは座っていたソファから立ち上がり、レイの方へとやってきて口を開く。


「レイ殿だな。今紹介された通り、儂はロナルド・クエントだ。お主には色々と迷惑を掛けてしまったな。済まぬと思っている」


 そう言い、レイに向かって握手を求めるように手を差し出すのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る