第944話
自分へと向かって突っ込んで来るビセンテを見ながら、レイは炎帝の紅鎧を操って飛ばす。
炎帝の紅鎧の一部分は、真っ直ぐにビセンテの方へと向かって飛んでいき……その進路上に落ちると、次の瞬間には周囲に莫大な炎が壁のように燃え上がった。
「なっ!?」
突っ込んできたビセンテが、咄嗟に斜め前へと跳躍する。
そのまま真っ直ぐに炎の壁に飛び込んでいれば、間違いなく大火傷を負っていただろう。
普通であればスティグマが身につけている金属鎧は魔法による付与効果で大抵の攻撃を軽減……もしくは無力化する。
だが、聖域という自分達にとって絶対的に有利な空間にいながらも、まだ抗っているレイの攻撃だ。それをまともに食らった場合、果たして無事で済むかどうかが分からなかった。
その判断は正しかったのだろう。
もしあのまま炎の壁に突っ込んでいれば、レイの圧縮された魔力により生み出された炎で頼りにしていた鎧諸共に焼かれていたのだろうから。
反射的な行動だったのだろうが、それはこれ以上ない程に正しいものだった。
だが……それでもビセンテの苦戦はまだ止まらない。
回避方向を読んでいたかのように放たれた次の炎帝の紅鎧の一部は、地面に着弾すると同時に粘着質な性質を持つ炎となり、まるで投網のように広がってビセンテの身体を包み込もうとする。
「ぐっ!」
そのまま突っ込めば炎による網に絡め取られると判断し、ビセンテは身体に掛かる負担を承知の上で更に強引に進行方向を変える。
普段であれば確実に膝や足首といった場所を痛めかねない行為だったが、聖域の中にいる今であれば不可能ではなかった。
「そっちも、大人しくしていろ!」
ビセンテが一旦距離を取ったのを一瞥すると、次にレイが炎帝の紅鎧の一部分を切り離して放ったのは、老人のいる場所。
「ひょひょひょ。無駄と分かっていても、儂の方に攻撃するのかね?」
笑みと共に告げる老人だったが、レイが放った炎帝の紅鎧の一部は空中で破裂すると次の瞬間には無数の小さい炎へと分散し、老人がいた周囲一帯を広範囲に焼き尽くす。
(どうだ?)
レイの視線の先で、当然のように炎が着弾する瞬間に老人の姿は消え……そして炎によって周囲が大きく焼かれている場所から離れた場所へと姿を現す。
「しつこいっ!」
そんな老人の姿を確認せず、炎による投網を回避したビセンテが大きく遠回りしながら自分の方へとやって来ているのを見て、再び炎帝の紅鎧の一部を投擲する。
ビセンテの機先を制するかのように地面に着弾した炎帝の紅鎧の一部は、瞬時に大きく燃え広がる。
先程同様、自分の方へと向かってくるような炎が生み出されるのかと思っていただけに、再びビセンテは驚きの表情を浮かべて地面を蹴って炎から距離を取る。
「忌々しいっ!」
吐き捨てるその言葉は、ビセンテの心の底からの言葉なのだろう。
とてもではないが、同じ攻撃方法とは思えない多種多様な炎の数々。
もしもこの場にノイズがいれば、同感だといった風に頷くのは間違いない。
この攻撃方法こそが、炎帝の紅鎧から派生したスキル、深炎。
レイの魔力を圧縮した炎帝の紅鎧を投擲し、それをレイの思うような炎の形にするというものだ。
威力自体は炎帝の紅鎧に比べるとそれ程強いという訳ではないのだが、炎の形がレイの思うがまま……想像力次第というのは、攻撃される方にとっては対処が非常に難しいことを意味している。
ランクS冒険者にして、深炎という名前を付けたノイズですら厄介だと感じたのだから、ビセンテが対処出来ないのは仕方がないのだろう。
寧ろ未だに深炎の攻撃を食らっていないのは、周囲に展開しているスティグマの固有スキルでもある聖域があるからこそだ。
「私を近づけさせないつもりか。それなら、こちらにも考えがある」
ビセンテが忌々しそうに吐き捨てると、その場で拳を構える。
レイとの距離は数歩といったところではない。十mを超える程の距離が離れているにも関わらず、ビセンテはそんな距離など全く関係ないと言いたげに拳を強く握る。
そこに込められるのは、魔力……ではなく、ビセンテ自身の信仰心。
この聖域を発動している時だけ使える、聖なる光の女神への強烈な思い。
そんなビセンテの力が一身に集約し……次の瞬間、弾ける。
「聖なる力を受けよっ!」
雄叫びと共にその場で前方へと拳を振るうと、次の瞬間には光によって形作られた拳が生み出され、炎帝の紅鎧を展開しているレイへと向かって飛んでいく。
その一撃がどれ程の力を備えているのかを察知したレイが、微かに眉を顰める。
(このままで受けきれるか?)
もしここが普通の空間であれば、何の問題もなく受けきれると判断しただろう。
ノイズと互角にやり合った炎帝の紅鎧には、それだけ深い信頼を抱いている。
だが……最大の問題は、この場所だった。
レイにも理解出来ない、妙な何かに満たされたこの一帯は、明らかに異常だ。
現にレイの身体能力がかなり落ちるという効果により、今はろくに動き回ることすら出来ず、どうしても後手に回らざるを得ない。
一瞬にも満たない短い時間迷った末、最終的に選択したのは回避。
炎帝の紅鎧を使用しているにも関わらず、それでも動きが鈍く感じる中で回避する為、レイは大袈裟に動くのではなく身体の半分を引いて半身の状態になり、光の拳の通るだろう空間を空ける。
それだけの動きだというのに、まるで身体全体に数十、数百kgといった重しを付けたかのように動きが鈍い。
その動きの鈍さに苛立たしいものを感じながらも、何とか体勢を整えたレイは、光の拳に炎帝の紅鎧を接触させれば何が起きるか分からないと、身に纏っている炎帝の紅鎧の大半を深炎として老人のいる方へと向けて放つ。
光の拳がレイのすぐ真横を通るのと、深炎が老人のいる場所へと着弾するのはほぼ同時だった。
「ぐっ!」
回避したにも関わらず、感じる痛み。
それは、レイの着ているドラゴンローブの上からでも強烈な衝撃を伝えてくる。
刃や魔法の類には強いドラゴンローブだったが、そのドラゴンローブの上から衝撃を直接伝えてくる技には決して強いとは言えない。
ビセンテが放った光の拳はまさにそのような技だった。
それでも光の拳の衝撃に吹き飛ばされることはなく、その場で痛みに耐えることが出来たのは、直接命中せずに回避そのものには成功したからだろう。
もし命中していれば、どうなっていたのか。それを考えるとレイはビセンテを自由にしておく訳にはいかないと判断する。そして……
轟っ! と。
そんな音が周囲に響く。
その音が何が原因で聞こえてきたものなのか、レイは疑問には思わない。
自分が行った攻撃なのだから当然だろう。
その結果を見る為に視線を音のした方へ向けると、そこでは炎の海とでも表現出来る光景になっていた。
先程放った深炎が地面に着弾した瞬間、急激に炎を広げていったのだ。
一手前に放った、空中で爆散して広範囲に攻撃を行った時と比べて、数十倍にも及ぶ攻撃範囲。
「ぬぅっ!」
そして聞こえてきた苦悶の声。
(やっぱりな)
その声が聞こえてきたのが先程まで老人がいた場所から大きく離れた場所であることを理解し、痛みを堪えながらも納得の表情を浮かべる。
そう、今の一連のやり取りは、レイもダメージを受けたが、それよりも大きな収穫があった。
戦闘が開始した直後から散々引っかき回してきたスティグマの老人。
攻撃を受けた瞬間に転移したのかと思うように姿を消したその動きが、もし転移ではないとすれば?
戦闘の最中に疑問を持ったレイだったが、幾度かの攻撃を行っても全く手応えがなく、自分の考えがもしかしたら間違っていたのではないか。
そんな思いを抱きつつも、ビセンテの攻撃を回避するのを利用して放たれた深炎。
それによって生み出された面制圧とでも呼べる炎の広がりは、老人にとっても完全に予想外だったのだろう。
本来であれば自分がいる場所までは炎が来ることはないと思っていたのだろうが、その読みは大きく外れた。
その結果、小さくない火傷をその身に負うことになってしまう。
……そう、レイが深炎を飛ばした先にいた老人ではなく、そこから大きく外れた場所にいた老人が、だ。
(幻影、か。しかも、あそこまでリアルな幻影ってのは凄いな)
ようやく解けた謎に安堵しながら、深炎として消費してしまった炎帝の紅鎧に再び魔力を注ぎ込む。
すると、次の瞬間には再びレイの周囲には可視化出来る程に圧縮され、濃縮された赤い魔力が纏わり付く。
そうしながらも、レイの眉は微かに顰められる。
炎帝の紅鎧へと注ぎ込む魔力が、いつもの数倍……下手をしたら十数倍も消費してしまった為だ。
元々炎帝の紅鎧は、その基となった覇王の鎧に比べて魔力の消費量はそう多い訳ではない。
レイですらそう長時間維持出来なかった覇王の鎧と比べると、炎帝の紅鎧は魔力消費量が大きく減っている。
だが、それはあくまでも覇王の鎧と比較しての話だ。
炎帝の紅鎧であっても、普通の魔法使いであれば十数秒維持出来るかどうかといったところだ。
それだけの魔力を消費する炎帝の紅鎧をレイが運用出来るのは、莫大な魔力のおかげだった。
(これも聖域とやらの力か。……厄介な能力を持ってるな。あのスティグマとやらの力なんだろうが)
それでもレイの持つ魔力があれば、炎帝の紅鎧を再び使用するのは難しくなかった。
そうして炎帝の紅鎧が発動したレイは、遠くから厳しい表情を浮かべて自分を睨み付けているビセンテと向かい合う。
「貴様……よくも私の信仰が込められた一撃を回避したな。まさか聖域の中でそんな真似が出来る者がいるとはな。いや、だからこそ大敵なのか」
「言葉使いが最初と随分違ってきてるぞ。それが地か? ……聖域、ね。よくもまぁ、自分に都合のいい言葉を口にするものだ。俺から見ればこれは聖域なんて代物じゃない。寧ろ瘴気に満ちた邪神の領域と言われた方が納得出来るけどな」
「っ!? 貴様ぁっ!」
これまでに見せた中で、最も大きな怒り。
まさに般若の如き表情と表現するのが相応しい顔付き。
整っている顔立ちだからこそ、余計にその異様さが表れていた。
自らの信仰を汚されたと感じたのだろう。その怒りに任せて一気にレイとの距離を縮めようとし……
「落ち着かぬか、馬鹿者が。そう簡単に相手の挑発に乗ってどうする。奴は儂とお主を分断させ、各個撃破するつもりじゃ」
「それくらいは私も分かっています! ですが、私の信仰に懸けて私は大敵であるあの男に神罰を与えてみせます! それに、この聖域で神の加護のない奴は動きが鈍っているのです。今が絶好の好機!」
「……だから落ち着けと言うてるじゃろうが。そう急くではない。儂にとっても奴は大敵であるのは変わらん。である以上、お主の気持ちも十分に理解出来る。……見よ、この腕を、奴をこの杖で貫くことが出来るだろう嬉しさに震えておるわ」
「老師……」
感動した様子で老人の方へと視線を向けるビセンテだったが、レイにとってはここでビセンテに落ち着かれるというのは困る。
聖域というこの得体の知れない存在のおかげで、自分の身体能力や魔力といったものは軒並み下がっているのに対し、スティグマの二人は寧ろ上がっているのだ。
(その点だけでは羨ましく思うな。出来ればこのスキルも使えるようになればいいんだが……)
相手の能力を軒並み強制的に下げ、自分の能力を上げる。
そんなスキルは、特にソロで活動しており多数を相手にすることの多いレイの目から見ると非常に羨ましいものだった。
だが、すぐに沈黙を保ったまま首を横に振る。
先程からの言動で、このスキルが刺青……スティグマによるものだというのは理解出来た為だ。
このスキルには前提条件のようなものがあり、それがビセンテ曰く聖なる光の女神に対する信仰心のようなものなのだろうと。
そこまでではなくても、聖光教の秘匿技術である可能性は十分以上に高い。
そうなると、聖域を使えるようになる為には聖光教の信者にならなければいけない訳で……
「俺はごめんだな」
ポツリと呟く。
その言葉が何の切っ掛けになったのか、レイには分からない。
だが、何でもない筈のその言葉が致命的にビセンテを激昂させたのは確実だった。
「貴様ぁっ! 絶対に許さん、許さんぞ! 聖なる光の女神の名の下に、大敵である貴様には死を望む程の神罰を下す!」
再び拳に光を集め始めたビセンテと、その隣で溜息を吐く老人。
それを見ていたレイは……ふと視線をビセンテの背後へと向けると、小さく笑みを浮かべる。
何故なら、それは……
「グルゥ!」
レイの相棒にして、半身とすら言ってもいい存在のセトがいたからだ。
短い叫びと共にセトの姿は消え、そのまま上空から急降下したのだろうセトの前足の一撃は、セトの接近を察知し、何とか回避したものの、次の瞬間には返す刃と言わんばかりの一撃がビセンテの身体へと叩き込まれたのだった。
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