第943話

 得体の知れない何かが周囲一帯に広がった瞬間、レイは自分の身体の動きに違和感を抱きつつ地面へと着地する。

 スレイプニルの靴を使って何度も空中を跳ぶ、三角跳び、四角跳び、五角跳びとも呼べる移動方法を行ったレイだったが、予想外の出来事により、着地した瞬間に動きを止めた。


「これは……何だ?」

「何だか分からないのかな? これこそが神罰。聖なる光の女神の力を、その身を以て味わうがいい」


 レイの様子にビセンテが哄笑を浮かべる。

 その右頬にある刺青のようなものが光っており、激しく自己主張をしている。


(スティグマってくらいだ。つまり、あれが聖痕なんだろうな。とんだ聖痕もあったものだが。……となると、あの爺さんの手の刺青もそのスティグマか? となると、さっきから俺の攻撃が当たった瞬間に姿が消えているように見えるのもあのスティグマの効果? けど、だが、そうなると)


 色々な考えが脳裏を過ぎるが、ビセンテにとってはわざわざそれを待つ必要はない。

 相手は大敵であり、唯一絶対たる神を侮辱したのだ。

 その罪に相応しい罰を与える必要がある。


「さて、大敵よ……己が罪の報いを受けよ。神罰を執行する」


 ビセンテの宣言に、老人の方も普段は浮かべている穏やかな笑みを消し、真摯な表情で同意するように頷く。

 手に持つ杖を、まるでエストックのように構える老人の隣で、ビセンテは拳を握り締め……次の瞬間には地を蹴る。

 真っ直ぐに自分へと向かってくるビセンテの動きに、レイは手に持つデスサイズを構え、迎え撃つ体勢を整えた。

 そんなレイを見て、ビセンテは口元に笑みを浮かべる。

 その笑みを見た瞬間、レイは自分の背筋にまるで氷柱を突き刺されたような、猛烈な悪寒を感じた。


「っ!?」


 その悪寒に促されるように、レイはビセンテを迎え撃つのではなく真横へと飛ぶ。

 考えての動きではなく、反射的な動き。

 だが、その動きを行った瞬間、レイの中にあった違和感はこれまで以上に強くなった。


(遅い!?)


 そう、普段であれば一瞬でこなせる動きが、数倍近い時間を消費してようやくこなせる。

 勿論それでも普通の人間にとってはかなり素早い動きではあるのだが、それでもレイの感覚では鈍重と呼ぶに相応しい動きであり、何よりビセンテを迎え撃つのにも支障を感じる程の遅さだ。

 相手が普通に動いているのに、まるで自分だけが時間の流れに置いていかれているような、そんな感覚。

 このまま防御しても、その行動は間に合わない。

 咄嗟に判断したレイは、ビセンテの攻撃をデスサイズで防ぐのではなく、自分の魔力によるスキル……炎帝の紅鎧の熱量を急速に上昇させることで防ごうとする。

 細かな熱量の調整はまだ完全に極めたという訳ではないが、それでも温度を上げるか下げるか程度の選択程度は難しい話ではない。

 自分に向かって放たれた拳を燃やしつくしてやろうと炎帝の紅鎧へと魔力を込めると、周囲の気温が加速度的に上がっていく。


「なっ!?」


 これに驚愕の声を上げたのは、ビセンテだった。

 その声には、こんなことは絶対に有り得ないという思いが強く宿っている。


「ビセンテッ!」


 絶対に有り得ない現象に頭が真っ白になってしまったビセンテを我に戻したのは、老人の声。

 先程までの好々爺とした態度ではなく、鋭い、スティグマの一員であると納得出来るだけの鋭さを持った声だ。

 その声で我に返ったビセンテは、レイへの攻撃を諦めて一旦後ろへ跳び、距離を取る。


「老師、あれは一体……スティグマが発動された聖域の中で、何故……」


 後方へと跳躍したビセンテの隣には、いつの間にか杖を手にした老人の姿があった。

 その老人へと尋ねるビセンテだったが、それに返ってきたのは首を横に振るという行為だった。


「分からん。動きは間違いなく鈍っておるから、聖域が効果を発揮していないという訳ではないじゃろう。だとすれば……いや、今はそのようなことを考えている暇はない、か」


 レイを中心に、周囲の温度が急速に上がっていっている。

 今は冬……それも真夜中だというのに、戦闘が始まる前に周囲に積もっていた雪は、全てが解けて水となっていた。

 その水が、更にレイの放つ熱気により蒸発し、水蒸気となって周囲の湿度を高め、その上で気温も三十度近い温度になっている。

 レイから離れた状態のビセンテ達ですらこの熱さなのだから、もしレイの近くに行けばどうなるのか。

 特にビセンテは先程レイへと拳を振るおうとしていただけに、あのまま殴っていれば拳が焼かれていたのは間違いないと思うと、周囲の熱さにも関わらず背筋が冷たくなる。

 勿論大敵へ神罰を下す為であれば、自らの肉体や命がどうなってもいい。

 だが、自分は聖光教の中でも選ばれた存在であるスティグマの一員なのだ。

 そのスティグマが何も出来ず、それどころか攻撃しようとして大怪我を負ってしまったということになれば、聖光教自体が笑いものになりかねない。


「老師……」


 どうすればいいのか、知恵を貸して欲しい。

 そんな目でビセンテが隣に立つ老人へ視線を向けると、その老人は杖を手にして少し考え、口を開く。


「ふむ、では少し手を出してみるかの」


 老人が告げると同時に、その姿が不意に消え失せる。

 そうして次の瞬間、唐突にレイの目前へと姿を現す。


「なっ!」


 まさか近づくだけで身体が燃えるだろう温度の中でいきなり近くに現れるような真似をするとは思わなかったのか、レイは一瞬驚きの声を上げるも、次の瞬間には魔力を通したデスサイズを振るっていた。

 炎帝の紅鎧の効果もあって、瞬時に振るわれたデスサイズの刃は音すら置き去りにしたかのような速度で老人の胴体を真っ二つにするべく空気を斬り裂きながら老人へと向かい……だが、再び刃が老人に触れたと思った瞬間にはその姿が消えていた。


「ふむふむ、なるほど。反応が早いの」


 再びビセンテの横に姿を現した老人の呟きに、ふとレイは違和感を抱く。


(今のは……何かおかしくないか? いや、確実におかしい。そもそも、あんなに頻繁に転移出来るものなのか? ベスティア帝国の作り出した転移石ですら、色々と厳しい条件があるってのに……だとすれば、転移じゃない?)


 もしかしたら老人の能力は転移ではないのではないか。

 そんな疑問を抱き、デスサイズを構えつつ炎帝の紅鎧の熱量をそのままに、視線の先にいる老人へと視線を向ける。

 つい先程レイのすぐ近くに姿を現したというのに、顔に汗の一つも掻いていないように見えるのはスティグマという者達であってもおかしくはないだろうか。

 一度怪しいと思えば、次々に疑問が湧き上がる。

 例えばレイの飛斬を回避した時にも姿を消したが、飛斬が老人の代わりに壁を斬り裂いた後に老人が再び姿を見せたのは、消える前と寸分違わぬ場所ではなかったか。

 転移を使ったとしても、寸分違わぬ場所に姿を現すというのは非常に難しい筈。

 勿論それだけの技量を持っていると言われれば納得せざるを得ないのかもしれないが、それでも今のレイの目から見れば疑惑しか残らない。


(けど、窓から出た時に食らった攻撃は間違いなく本物だった。……もう少し試してみるか。出来れば消える直前に手で直接触れることが出来れば問題ないんだろうが。けど、試す……試すにしても、どうやって試す?)


 内心で相手の打倒方法を考えている間、スティグマの二人も何もせずに黙って見ていた訳ではない。

 だが、そもそも近づけばそれだけで己の身体にダメージが与えられるような、攻防一体のスキルを相手にどうにかするというのは、ビセンテにしても難しいものがあった。

 そして何より……


(何故聖域の中であれだけの力を発揮出来る?)


 そう、ビセンテにとって最大の疑問はそこだった。

 本来、この聖域を展開すればその領域内にいる全ての者は、持てる力の半分も発揮出来ない状態になる筈だった。

 その中で唯一の例外が、スティグマを持つ者。

 スティグマを持つ者に限って言えば、この聖域内では普段よりも高い能力を発揮出来る。

 だというのに、そんな状況になったとしても視線の先にいる大敵はまともな……それこそ自分達とまだ渡り合えるだけの力を残していた。

 これは本来有り得ないことであり、下手をすれば聖光教の教義に関しても問題が出てくるかもしれない事案だった。

 だからこそビセンテは、視線の先にいる存在が理解出来ず……それ故に、許容することも出来ない。


「聖なる光の女神の力に、不遜にも対抗する者よ……やはり貴様は私達の大敵!」

「落ち着け、ビセンテよ」

「ですが、老師!」


 ビセンテを落ち着かせようと言葉を挟む老人だったが、ビセンテはそんな老人へと即座に言い返そうとする。

 だが次の瞬間、老人からビセンテへと向けられる視線は射貫くかの如き鋭いものへと変わる。


「儂は落ち着け、と言ったのじゃがな。その言葉を理解出来なかったのかの?」

「それは……はい。申し訳ありません」


 その視線の前ではビセンテもそれ以上何を言うことも出来ず、ただ落ち着く。

 そんなビセンテの様子を見て、老人はいつもの好々爺とした表情へと戻り、笑う。


「ひょひょひょ。お主は真面目なのはいいのじゃが、頭に血が上りやすくなっているのはいかんのう。何度も言っておるじゃろう」

「……はい」

「まぁ、お主が奴をそこまで気にする理由は分かるが、恐らくこの件に関しての問題はそこまで複雑ではないじゃろうて」


 老人が半ば確信したように告げるその言葉は、ビセンテにとって驚愕に値すると同時に、尊敬に値するものでもあった。

 何故レイが聖域の中であれだけの戦闘力を発揮しているのか。自分では全く分からないというのに、既にその疑問を解いたというのだから。


「それは、何故ですか?」

「何、それ程難しいことではない。そもそも、疑問を解く鍵はいくつもあった。例えばじゃ、奴の動きそのものは聖域の恩恵により鈍くなっておる。それは理解しているな」

「はい。私の攻撃に対する反応速度も確実に落ちています。ですが……」

「そう答えを急ぐでない。つまり、今も言ったように動きが鈍くなっているということは、奴には間違いなく聖域の効果が発揮している。じゃが、あの赤い何かに減衰している影響はない。……一見すると、そう見える」

「一見すると?」


 老人の言葉に、ビセンテは改めて炎帝の紅鎧を発動しているレイの方へと視線を向ける。

 こうまで離れていても感じる、圧倒的な熱量。

 もし何も知らない者がここにいたとしても、今の季節が冬であるとは絶対に信じられない筈だ。

 春……いや、夏と認識する。

 もし自分が先程レイへと攻撃をしていれば、恐らく……いや、間違いなく自らの拳は燃やしつくされていただろう。


「うむ。率直に言ってしまえば、奴の能力が高すぎて聖域の効果により減衰してもあれだけの強さを持つのじゃろう。儂はそう判断した」

「馬鹿なっ!」


 尊敬する人物からの言葉ではあったが、それでも男は反射的に否定してしまう。

 当然だろう。聖なる光の女神の加護により相手の力を半分以下にまで抑えているというのに、それでも尚自分達を傷つけることが出来る能力を持っているということになるのだから。

 それはつまり、レイの力が聖光教の女神の加護を受けた自分達よりも上だということを意味している。

 許せない、我慢出来ない、許容出来ない、有り得ない。

 そんな思いがビセンテの心を満たし……最終的にはレイに対する絶対的なまでの怒りが心だけではなく身体までをも満たす。


「落ち着け。これも、神が儂やお主に与えた試練なのじゃろう。その試練を討ち破ってこそ、儂等は神に対する真摯なる祈りを示すことになるのじゃ。その相手が大敵であるというのは、この者を倒して、儂等の信仰の力を見せよ。つまりそういうことなのじゃろう」


 老人の言葉にビセンテの憤怒に染まっていた表情が一瞬にして静まる。

 自分の信仰により視線の先にいる大敵を倒せば、それは己の信仰を示すこととなり、同時に神の喜びとなる。

 そう聞かされては、一瞬前まで怒り狂っていたのが自分の未熟さ以外のなにものでもないように思えた。


「分かりました、老師。私が未熟でした。……奴に、大敵に神罰を与える。ようはそれだけを考えればいいのですね。そうすれば、神は私の信仰を受け取り、私もまた神の愛に抱かれる。……この世の全てを聖なる光の女神の愛で包ませ、皆が穏やかに、幸せに暮らせる日々を作り出す為に」

「うむ。儂も気持ちは一緒じゃ。あのような者が存在してはならん。聖なる光の女神の名の下に、大敵に神罰を」

「神罰を!」


 鋭く叫び、ビセンテは地面を蹴って前へと出る。

 レイもこのまま事態が膠着してしまうよりはと、行動を起こすべく炎帝の紅鎧を纏ったままビセンテを待ち受ける。

 奇しくも、事態を動かすという決断をしたのは双方共にほぼ同時であった。

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