第942話

 対のオーブを使ったエレーナとの会話を終え、ベッドで眠りに就いていたレイ。

 だが、ベッドで眠っていたレイは、不意に目を覚ます。

 トイレに行きたくなった訳でも、喉が渇いた訳でもない。

 殆ど反射的と言ってもいいような動きで飛び起きたレイは、寝起きにも関わらず起きた瞬間から周囲へ鋭い視線を向けていた。

 普段であれば寝起きは半ば朦朧としているような状態であるにも関わらず、今のレイはとてもそんな風には見えない。


「……何だ? 今、何かが……」


 ミスティリングからドラゴンローブを取り出して身に纏いながら周囲の様子を探るが、何がある訳でもない。


「一瞬感じた今の気配は何だ?」


 もしレイが千里眼を持っていれば、職員寮からかなり離れた場所にある建物の屋上でサルダートとスティグマの男が戦っている光景を目に出来ただろう。

 そして、自分が感じた気配がスティグマの発動によるものだというのも理解出来たかもしれない。

 だがレイに千里眼のような力がある筈もなく、出来るのは周囲の様子を探るという行為だけ。

 しかし……その行為をしていたおかげで、レイはその存在に気が付く。

 不意に自分へと向かって放たれた、その拳に。


「っ!?」


 咄嗟にしゃがみ込むと、一瞬前までレイのいた空間を拳が貫く。

 ……そう、それはまさに貫くと表現するのが相応しいだけの威力を持っていた。

 その拳を放った相手は、少し驚きの表情を浮かべて口を開く。


「ほう。この前とは違ってかなり本気を出したのですがね。まさか、これも回避されるとは思いもしませんでした」

「お前は……」


 拳を引き戻し、言葉通り感心したような表情を浮かべているその男の顔に、レイは見覚えがあった。

 非常に整っている顔立ちでありながら、右頬に刺青のようなものがあるその姿は、そう簡単に忘れられるものではない。

 エーランドを助けた時に自分を襲ってきた相手であり、最初はエーランドへの刺客の仲間かとも思った相手。

 だが学園長室でサルダートに聞かされたことで、今はもうその正体を正確に把握していた。


「スティグマ……だったな」

「正解。もっとも、今更それを知ったところで、どうしようもないですけどね」


 優雅な笑みを浮かべる男に向かい、レイは軽く舌打ちをする。

 寝起きの襲撃というのはともかく、迎え撃つ準備が万全ではないというのは痛い。

 ドラゴンローブを身に纏ってはいるものの、レイが戦闘で多用するマジックアイテムのスレイプニルの靴はまだミスティリングの中だ。それ以外にも敵の不意を突くのに適しているネブラの瞳も当然ミスティリングの中にある。

 デスサイズは取り出せばそのまま使えるが、スレイプニルの靴は履く必要があった。

 ネブラの瞳は腰に付ければいいだけなので、出せばそのまま使えるのだが。

 それをどうするか……と迷っていたレイだったが、すぐに決断する。

 どのみちここは部屋の中で、レイのように長柄の武器を使う者には向いていない戦場だ。

 それに比べて、向こうは格闘の使い手であり、狭い場所でもその威力は衰えない……どころか、寧ろ狭い場所での戦いを得意とする。

 向こうの有利な戦場で戦ってやるような律儀さがレイにある筈もなく、次の瞬間にレイが選んだのはミスティリングから取り出した短剣を男目掛けて投擲するという行為。

 手首の動きだけでの投擲だったが、レイの身体能力は人外と表現すべきものだ。

 短剣は空気を斬り裂きながら、男の顔面目掛けて飛んでいく。 

 普通であれば絶対に回避出来ない一撃。

 だがスティグマの一員である男は、特に苦労した様子もなく短剣の刃を指の間に挟んで受け止める。

 その行動にはレイも多少の驚きを浮かべたが、一瞬であっても男の動きが止まったのは事実。

 即座に床を蹴って窓の方へと走り、次の瞬間には窓を突き破って外へと飛び出すことに成功する。だが……


「がっ!?」


 窓の外へと飛び出し、これで思う存分戦えると思った瞬間、突然ドラゴンローブ越しに衝撃を受ける。

 空中にいるのが災いし、レイはそのまま吹き飛ぶ。

 もしいつものようにスレイプニルの靴を履いていれば、空中を蹴って体勢を立て直すということも出来たのだろう。

 だが、寝起きのレイはドラゴンローブを纏っているだけであり、そんな真似は出来なかった。


(くそっ! 何が……気配は全く感じられなかったぞ!?)


 背中に鈍痛を感じながらも、空中を吹き飛びながら視線を動かす。

 するとレイの視界に入って来たのは、直角に壁へと張り付き、杖を手にして立っている老人の姿。

 窓から飛び出た時に背中に感じた鈍痛の正体はあの杖らしいと理解する。


(あいつは……)


 自分の部屋に突然現れた男同様、その老人にもレイは見覚えがあった。

 最初にレイを襲撃して来た男と共にいた人物であり、つまりそれは壁に立つという非常識な真似をしている老人もまた、スティグマの一員であるということ。


(スティグマが二人……確かもう一人いたよな?)


 空中で体勢を立て直し、素足で地面に着地しながらも、レイは周囲の様子を探る。

 雪の上に着地したのだから冷たさを感じるが、今はそれどころではないとミスティリングからデスサイズを取り出し、大きく振るう。


「飛斬っ!」


 その言葉と共に放たれた斬撃は、未だに壁に立っている老人へと向かって突き進むが……その斬撃が老人に命中したと思った瞬間、まるで今までそこに老人がいたのが嘘のようにその姿が消える。


「な!?」


 何が起きたのかは理解出来ない。

 転移のマジックアイテムを使った訳ではないというのは理解出来たが、それでも飛斬が命中した瞬間に老人の姿は消えたのだ。


「ひょひょひょ。怖い怖い。このような老人相手にも容赦せずに攻撃してくるとはの。もう少し年寄りを労るもんじゃて」


 老人が再び姿を現し、笑みと共にそう告げる。

 だが、その表情には全く自分を怖がっている様子はない。

 それでもある程度の距離が開いたのを確認し、再び数発の飛斬を放って牽制してから、素早くその場を離脱する。

 真っ直ぐに向かったのは、職員寮からそれ程離れていない場所にある雑木林。

 林と呼ぶには木の数があまりにも少ないが、取りあえずレイにとって今はスティグマ二人から自分の姿を隠すことが出来れば十分だった。

 木の幹に背中を預け、ミスティリングの中からスレイプニルの靴やネブラの瞳といったマジックアイテムを取り出し、身につけていく。

 全てを身につけるのに掛かった時間は十数秒。

 だが、それだけあればスティグマの二人がレイを見つけるのには十分な時間だった。


「っ!?」


 微かな風切り音を耳にし、咄嗟に地面を蹴ってその場から離脱する。

 レイの姿が消えた瞬間、一瞬前までレイが背を預けていた木の幹が砕け散った。

 ……そう、折れるや斬れるではなく、砕け散ったのだ。

 そんな一撃に内心で舌打ちをしながらも、つい先程までとは違って戦闘準備を整えたレイに焦りはない。

 木の幹が半ばで砕けているのを見ながら、そのまま前へと進み出る。


「ほう? もう逃げるのはいいのですか?」

「ああ。何せ、俺の戦闘準備が整っていないのに襲撃してくるような奴がいたから焦ったけど、今はもう大丈夫だ。……それにしても、訪問する前に連絡を入れるってのは常識だと思うんだが、聖光教ではその程度の常識も教えてないのか? ま、所詮下らない宗教だから無理もないが」


 レイの言葉に、二十代の男の頬がヒクリと動く。

 だが、その隣に立っている老人は好々爺とでもいった笑みを浮かべて、レイの挑発を受け流す。


「ひょひょひょ。そう言わんでくれんかの。訪問前に連絡をするのは当然じゃが、儂等はそのような関係ではないであろう?」

「そうですね。大敵に対する神罰を与えるのに必要なのは、礼儀ではなく鞭。……いえ、私の拳です。そのような相手に礼儀など無用」

「ふん、結局聖光教とかいうのはそんな程度の低い宗教なんだろ。何が聖なる光の女神なんだか。俺に言わせれば、醜く汚い汚物の如き、不細工な自称女神にしか思えないけどな」


 そう告げたレイに、挑発の意図がなかったと言えば嘘になるだろう。

 ランクA冒険者相当の二人を同時に相手にするというのはレイにとっても初めての経験であり、更にそれが模擬戦の類ではなく自分に向かって殺意を抱いている相手なのだ。

 セトもいない状況では自分の方が不利なのだから、少しでもスティグマの……それも見るからに頭に血が上りやすそうな相手を挑発して冷静な判断が出来ないようにする。

 そんなレイの狙いは正しかった。……正しかったのだが、同時にそこには誤算もあった。

 それは、目の前にいるのが聖光教の敬虔なる信者……いな、狂信者だったことか。

 レイの言葉を聞いた二十代の男の方は、怜悧な美貌を憤怒に染めて大きく叫ぶ。


「大敵よ! 私はここに宣言しよう! 貴様は、我が信仰に懸けて生まれてきたことを後悔させながらこの世から消滅させると! それが、それこそがスティグマの一員であるビセンテが貴様に与えることが出来る慈悲だ! 神罰を受け入れよ、大敵レイ!」


 ビセンテと名乗った男の言葉と共に、その右頬に存在していた刺青が周囲に鋭い光を放ち始める。


(やばいっ!?)


 向こうが何をやろうとしているのかは分からない。

 だが、それでもレイはビセンテをこのままにしておいては危険だと判断し、魔力を集中させて炎帝の紅鎧を発動させながら大地を蹴る。

 ビセンテとの距離を縮めながら、レイの魔力は圧縮され、濃縮され、赤い色へと姿を変えてその身体へと纏わり付いていく。

 そんなレイの姿を見て、次に驚いたのはビセンテと老人の方だった。

 魔力を感じられる能力がある訳でもない二人なので、レイが身に纏っているのが魔力だとは気が付かない。

 あるいは、レイの指に魔力を普通の魔法使いと同じ大きさに隠蔽する新月の指輪がなければ、もしかしたら魔力を感じる力がなくてもレイの身体から溢れている力が何かを悟ることが出来たかもしれない。

 だが、それは全てもしもの話。

 目で見える程に圧縮され、濃縮された魔力を身に纏い、炎帝の紅鎧を完成させたレイは、一気にビセンテとの距離を詰める。

 炎帝の紅鎧を身に纏ったレイの動きは、それまでのものとは一線を画す。

 常人の目には、いつ動いたのかも理解出来ないだろう速度。……だが、ふと気が付けば自分の隣を併走している老人の姿があった。


(この速度についてくる!?)


 相手が老人だからと油断していた訳ではない。

 事実、窓から脱出した時には上からの一撃を食らったし、飛斬を当てたにも関わらず無傷でやりすごされたのだから。

 だがそれだけの強さを持っていても、自分と同じ速度で動けるというのは完全に予想外だった。


「ちぃっ! 飛斬!」


 ビセンテとの距離を縮めつつ、レイは併走している老人へと向かってデスサイズを振るう。

 そこから放たれた飛ぶ斬撃は、真っ直ぐ老人へと向かい……だが、次の瞬間には再び老人の姿が消えて夜空へと飛んでいく。

 だが、既に一度見た光景だ。

 レイもそれを見て先程のように驚いたりはしない。

 老人の姿が消えたのを幸いと、真っ直ぐビセンテとの距離を詰めることに専念する。

 レイが走り出してから、ここまで数秒。本来であればこのくらいの時間があればレイはビセンテの下へと辿り着いていた筈だった。

 しかし老人の妨害により、数秒の中のほんの僅かな時間ではあっても無為に浪費し……それが、ビセンテとの距離を縮めるのに間に合わなくなる。


「残念でしたね」

「くっ!」


 ビセンテの口からその言葉が出た瞬間、このまま進んでももう間に合わないだろうと判断し、これまでの距離を縮めるという行為から一転、間合いを取るべく行動を変える。

 ビセンテとの距離を縮める為に動いた速度のまま跳躍し、スレイプニルの靴を発動。空中を足場にして蹴り、真横へと向かって大きく跳ぶ。

 そのままスレイプニルの靴を発動しながら一歩、二歩、三歩と空中を蹴り、その度に少しずつ突っ込んできた速度を活かしながらビセンテとの距離を広げていく。

 だが、スティグマもこのままレイを逃がすような真似をする筈がない。

 四歩、五歩と離れていくレイの前に、再び老人が姿を現し……その手にした杖をレイへと向かって突き出してくる。

 先程窓を飛び出した時に自分が食らった攻撃の衝撃を思い出し、それを防ぐべく振るわれるデスサイズ。

 その巨大な刃が老人を斬り裂くかと思った瞬間、これまでと同様に老人は姿を消す。


(本当に転移じゃないのか!?)


 あまりにも自由にその場から消えたり現れたりを繰り返す姿に、レイは内心で吐き捨てる。

 だが、今は老人の能力を考えるよりも先に、やるべきことがあった。

 しかし、その動きは一歩……いや、二歩遅い。

 老人の妨害により、レイがその場から離脱する為の決定的な時間は失われた。


「大敵よ、神罰を受けよ!」


 ビセンテが叫ぶと同時に、その身体から何かが噴き出す。

 その何かは、瞬く間に周囲へと広がり……戦場となっている一帯を覆い尽くすのだった。

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