第945話

 その夜、セトはいつものように厩舎の中で眠っていた。

 ただし、野営の時のようにすぐにでも行動に移れるような体勢ではなく、まるで猫のように丸くなってだ。

 ここが厩舎であり、自分と敵対する相手がいないというのを十分に理解しているからこその眠り方。

 猫科の動物……ではなく、そのまま巨大な猫の如き眠り方だったが、厩舎にいる他の馬は何か騒ぐでもない。

 厩舎にいる他の馬も、当初はグリフォンであるセトを怖がっていた。

 だが、セトが自分達を襲うような真似は一切しないことを理解すると、怯えは次第になくなっていく。

 勿論完全に信用した訳ではないのだが、それでも何の理由もないままに自分達を襲いはしないだろうという安堵を抱くには十分だった。

 もっとも、今までセトが行動を共にしてきた馬に比べると、随分と慣れるまで時間が掛かったのも事実だが。

 それでもセトがレイに呼び出されない限りは一日中厩舎で行動を共にする為、厩舎にいる馬達とセトは自然に長く一緒の時を過ごし、こうして妥協的とも呼べる穏やかさが厩舎の中には出来上がりつつあった。

 ……もっとも、以前に一度セトが厩舎から飛び出していったこともあり、その当時は馬達も大きく騒ぎになったのだが。

 ともあれ、今の厩舎は夜ということもあって自然と静かな時間が過ぎていく。

 それが変わったのは、真夜中とも呼ぶべき時刻になった頃。

 猫のように丸まって眠っていたセトの身体が、不意にピクリと動く。

 そのまま顔を上げたセトは、何か気になることでもあるのか、しきりに周囲を見回す。


「グルゥ?」


 喉を鳴らしながら周囲を見回していたセトに、厩舎の中にいた他の馬達も気が付いたのだろう。眠っていた馬が起きて、次第に騒がしくなる。

 そんな周囲の様子を全く気にせず、胸中の違和感に導かれるように辺りの様子を窺っていたセトだったが、不意にビクリとその動きが止まる。

 それは、レイが炎帝の紅鎧を使ったのを察知したからこその行動。

 魔力的にレイと繋がっているセトだからこそ察知出来た。

 だが、それでもすぐに厩舎を飛び出るような真似はしない。

 何故なら、以前レイが炎帝の紅鎧を使った時に厩舎を飛び出た時には何もなかった為だ。

 しかし……それでも、とセトは迷う。

 前回のように、ただ炎帝の紅鎧の発動を感知したからという訳ではない。

 それ以外にも、胸中にある違和感がその迷いの原因だった。

 迷いに判断を下し、レイの下へと向かおうと判断するのに要した時間は、十数秒。

 もしかしたらレイが何らかの危機になっているかもしれないと、そんな声が自分の内心にあった為だ。


「グルルルルルルゥ」


 喉を鳴らし、丸まっていた状態から立ち上がる。

 瞬間、セトの纏う空気は日常ではなく戦場でのものになる。

 そんなセトをきちんと理解した訳ではないだろうが、厩舎にいる他の馬達がしきりに鳴き声をセトへと向けてくる。

 その鳴き声は、まるでセトを応援しているかのような、そんな鳴き声。

 勿論セトに馬の鳴き声を理解出来る訳ではないのだから、もしかしたらその声に感じたのは気のせいかもしれない。

 だがそれでも、今のセトには他の馬達が自分を応援してくれているように感じられた。


「グルルゥ……グルルルルルルゥッ!」


 高く鳴き、そのまま厩舎の中にいる動物が自由に外へと出られないようにしてある扉を破壊し、厩舎の通路へと出る。

 そんな真似をすればレイに迷惑が掛かるというのは、十分に承知している。

 事実、前回厩舎を飛び出した時も厩舎の職員からレイが軽くだが注意されていた光景を目にしていたのだから。

 扉は中の動物が外に出ないように、外側からかんぬきが掛かるようになっている。

 鍵と呼べる程に精巧なものではなく、ただ木で扉が開かないようにしてある簡単な物だが、それでも内側からかんぬきを開けることは難しい。

 いや、セトの場合はスキルを使えばどうにかなるかもしれない。

 しかしそんな真似をしていては時間が掛かりすぎると判断した為に強行突破を選んだのだ。


「グルルルルゥ!」


 扉を破って通路へと出ると、そのままセトは走って厩舎を出て行く。

 そんなセトを送り出すように、厩舎の中にいる馬は高く鳴くのだった。


「グルルゥ!」


 背後から馬の声によって送り出されたセトは、厩舎の外に出るとそのまま翼を羽ばたかせて空中へと飛び上がる。

 ギルムと同じく、グラシアールでもセトが自由に飛ぶというのは禁止されている。

 だが、今はそれどころではないと本能的に悟ったセトは、そんな決まりなど知ったことかと言わんばかりに空を飛ぶ。

 元々空を飛ぶというのは、移動手段としては地を駆けるのとは比べものにならない程に優れている。

 ましてや飛んでいるのがセトともなれば、その速度は圧倒的と言ってもいい。

 だからこそ、飛び立ってから数秒としないうちに眼下で戦いを行っている場所へと到着した。


「グルルゥ!」


 だが、セトは眼下で行われている戦いはそのままに、その近くを何もせずに突っ切る。

 エルフと思しき者と月明かりが反射している鎧の持ち主との戦いは、普段なら興味を抱いたかもしれないが、今は別だ。

 そんなことよりも、自分の大好きなレイの異変の方が重要だった為だ。






(あれ? 今のはグリフォンだよね。なるほど、グリフォンと言えばレイの従魔だ。だとすれば……私が援軍に向かうまでもないかもしれないな)


 弓を手に、サルダートは視線を男の方へと向ける。

 その視線の先にいる男は、致命傷こそ負っていないものの、鎧に覆われていない場所には大小様々な傷が付けられていた。

 また、手駒として用意した者達も、既にその全員が意識を失うか、命を失うかして地面に倒れ伏している。

 苦々しげな表情で自分を見てくる男に、サルダートは小さく笑みを浮かべて口を開く。


「どうやらこの奇妙な空間の中では力の大小が様々な要因によって変わるようだけど……慣れてしまえばどうということはないね」

「おのれ……」


 いともたやすくといった風に告げるサルダートに対し、男は歯ぎしりをする。

 勝てると思っていた訳ではない。

 それでも、ここまで相性が最悪だとは思っていなかった。

 自分のスティグマによって展開された聖域の効果を容易く見破られ、その上で無効化すらしてくる。

 勿論相手がランクS冒険者、天弓のサルダートだと分かっていた以上、簡単に自分が勝てるとは思っていなかった。

 それでも、ここまで圧倒的に自分が押されるというのは予想外と言うしかない。

 普通であれば、力の大小が様々な要因で変わる男の聖域は、相手に対して一方的に自分が有利になる筈だった。

 だが、サルダートは最初こそ若干戸惑ったものの、すぐにこの聖域の特性を理解し、対応する。

 どのような能力があればそんなことが出来るのか、男には理解出来なかった。

 今まで自分の聖域を使った相手の中でこんな風に対応されたことがなく、男は動揺する。

 ただでさえ元々の地力が違うのだ。そんな状況でサルダートとまともに戦える筈もなく、次第に押され始めていた。


「私が戦ったスティグマは、こういう妙な技は使わなかったけど……これが君の力なのかな? だとすれば、私との相性は悪かったね。寧ろ、以前に私と戦ったスティグマの方が、まだ可能性はあったと思うよ。……それで、どうする?」

「……例えここで俺が勝てなくても、お前を足止めすることが出来ればそれでいい。元より俺がお前に敵わないということは分かっていた」

「ああ、時間稼ぎね。その隙にレイへ攻撃しようとしてたんだろうけど……可哀相に」

「何?」


 サルダートが示した予想外の反応に、男は訝しげに眉を顰める。

 ここでそんな反応が戻ってくるとは思わなかった為だ。


「可哀相、だと? どういう意味だ? 俺はお前に勝てない。これは認めよう。だが、それでも負けない戦いをするのは不可能ではないのは、お前にも分かる筈だ。そうすれば、大敵であるあの男もスティグマ二人を相手に……」

「そうだね、その可能性はあったかもしれない」


 男に最後まで言わせず、サルダートは頷く。

 ならば何故? そんな疑問の視線を向けてくる男に対し、サルダートは笑みを浮かべながら口を開く。


「実際、私も最初はそう心配しなかったと言えば嘘になるしね。けど……その心配も、たった今消えた」

「……今、消えた?」


 サルダートが何を言ってるのか理解出来ない男だったが、呟いた本人はそれに答える気はない。

 わざわざ相手の疑問を解いてやる必要はないし、今与えた情報が丁度いい具合に男を混乱させていると理解している為だ。

 そして……


「そういう訳で、悪いけどそろそろ決めさせて貰うよ!」


 そう告げ、自分が立っている建物の屋上の床を蹴る。

 その際に聖域の効果によって床から反発して戻ってくる力が異様に強くなっていたが、サルダートはその力を受け流しつつ適度な力だけを自分の推進力として使う。

 必要以上に力が戻ってくるのであれば受け流せばいいし、戻ってくる力が足りなければ更に力を入れればいい。

 言うだけなら簡単なことだが、それをやれと言われてすぐに出来る者が、それも戦闘中に出来る者がどれ程いるだろうか。

 もっとも、そのような行為が出来るからこそ冒険者の頂点でもあるランクS冒険者という地位にいるのだろうが。

 男は、この聖域の中でも平気で自分に向かって突っ込んで来るサルダートをやり過ごすべく身構える。


(この聖域の中でも普通に動ける辺り、ランクS冒険者というだけはある。だが……それでも、普段通りの力が発揮出来るわけではない以上、時間稼ぎは出来る筈。何やら先程意味ありげなことを言っていたが、それで心を揺らす訳にはいかん)


 結局サルダートが口にした言葉は自分を動揺させる為のものだと判断し、男はしっかりと構える。

 内心で考えたように、この領域内であればまだ少しの間はサルダートの相手をしても待ち受けることが出来る筈、と。

 そう考えた己の判断を信じて。






「グルゥッ! ……グルゥ?」


 レイが関係していない地上での騒ぎなど全く気にした様子もなく、空を飛んでいたセトは地上に探し求めていた気配を感じ取り、一瞬嬉しげに喉を鳴らすものの、次の瞬間には不思議そうに首を捻る。

 セトの鋭い五感が、そして第六感までもが現在地上に異常を感じていた為だ。

 このまま地上に降りてもいいのか? 一瞬そう迷ったセトだったが、炎帝の紅鎧に包まれているレイが一瞬だけだが自分の方を見たと理解した瞬間、自分に何を要求しているのかというのを理解し、即座に行動へと移す。


「グルゥ!」


 短く鳴き、その瞬間セトの姿は周囲から見えなくなる。

 セトの持つスキル、光学迷彩の効果だ。

 二十秒程透明になることが出来るという、セトを相手にする者にしてみれば悪夢の如き効果を持つスキルだが、一度使用すると再使用までに三十分掛かるというデメリットもある。

 透明になったセトは、そのまま一直線に標的へと向かって急降下していく。

 目標としているのは、レイに強烈な殺気を放っている男の方。

 その男、ビセンテへと向かい、セトは急降下の速度を活かしながら前足を叩きつけようと準備を整える。

 体長二mを超えるセトが、百mの高度を利用して放つ前足の一撃。

 更に、セトは剛力の腕輪というマジックアイテムを身につけており、グリフォンとしての凶悪な腕力が更に高まっている。

 そんな致死性の一撃が姿を消した状態のセトから放たれるのだから、普通であれば何かを考えるまでもなくその一撃で命が失われるだろう。……そう、普通であれば、だ。


「グルゥッ!?」


 地上へと向かって降下していたセトだったが、一定の高度になると突然身体から力が抜けていくという不思議な現象を感じ取った。

 一瞬何が起きたのか理解出来ず、戸惑いの鳴き声を口にする。

 当然ビセンテや老人という二人のスティグマがその声を聞き逃すようなことはなかった。

 そもそも、レイという人物について少しでも情報を集めた者であれば、そこに必ずグリフォンのセトの存在を知る。

 そうである以上、こうしてレイと戦っている間もいつグリフォンが乱入してきても対応出来るような心構えでいるのは当然だった。

 だが……そんなビセンテ達にも想像出来なかったのは、まさかセトが透明になっているとは思わなかったことだろう。

 セトの鳴き声を耳にした瞬間、ビセンテは反射的にその場から飛び退き、老人はそのまま姿を消す。

 すると一瞬前までビセンテのいた場所に何かが落ちてきたのを感じ取ることが出来た。

 ただし、落下してきた場所にグリフォンがいるだろうと思って迎撃の体勢を取ったビセンテが見たのは、グリフォンではなく得体の知れない何かだ。

 レイの使った炎帝の紅鎧の効果により雪は溶けており、その影響で泥が身体についてはいるものの、基本的には透明の何か。

 セトの方も身体の動きが鈍い感覚に戸惑い……お互いが一瞬理解出来ない状況に動きを止めるも、一瞬早く我に返ったのは透明なままのセトだった。


「グルルルルゥッ!」


 悩むより、まずはレイを助ける。そんな思いで繰り出された透明のままの前足の一撃がビセンテへと繰り出されるのだった。

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