第939話
スティグマと遭遇した日の夜、レイの姿は厩舎の側にあった。
夜空には雲一つ存在せず、綺麗な月がその優美な姿を見せつけ、優しい月光を地上へと降り注がせている。
そんな月明かりの下、夜にも関わらずレイはセトと共に雪遊びをしていた。
本来はスティグマに狙われているレイがそんな真似をするのは自殺行為に等しいのだが、士官学校の敷地の中ということもあるし、何よりサルダートが自分の護衛をしているというのが分かっている。
「まぁ、どこにサルダートがいるのか分からないんだけどな」
「グルルルゥ?」
どうしたの? と小首を傾げるセト。
今日一日放っておかれた――正確には違うのだが、結果的にそうなった――為に、セトは思う存分レイへと甘えている。
雪の中をレイを背に乗せて走り、共に雪に寝転がって自分達の跡をつけ、レイが投げる雪玉をクチバシで受け止め……といった風に、雪遊びを全力で楽しんでいた。
もし今が日中であれば、セトを見て悲鳴を上げる者もいたかもしれない。
だが今は夜であり、しかも冬の夜だということもあって、外に出ている者は殆どいなかった。
そんな数少ない例外がレイとセトであり、恐らくこの雪の中でレイを護衛しているだろうサルダートなのだ。
「俺達以外の誰かがいる様子はないか?」
「グルゥ……」
レイの言葉に五感や魔力を感じる能力、更には第六感までをも総動員して周囲の様子を探るセトだったが、サルダートの姿を見つけることが出来ず、申し訳なさそうに喉を鳴らす。
気にするな、とレイはセトの頭を撫でる。
それが嬉しかったのだろう。セトは再びレイへと向かって顔を擦りつけ、遊ぼう、遊ぼうと態度で示す。
「ああ、そうだな。今日は放っておいてしまったからゆっくりと遊ぼうな。……まぁ、時間的に制限はあるけど」
明日も授業がある以上、レイとしては夜更かしをし過ぎる訳にもいかない。
セトの方もそれを理解しているのだろう。少し残念そうにしながらも、レイと共に雪の中を駆け抜けるのだった。
「甘いぞ。前にも言ったと思うが、攻撃の時に思いきりが足りない。逃げ腰で攻撃をしても、それは見せかけだけだ。威力に勢いが乗らない」
模擬戦用の槍で自分目掛けて振るわれた長剣の一撃を弾き、そのまま穂先を相手の顔面へと突きつける。
既に四人の生徒が倒れており、五人目の生徒も今の一撃で死亡扱いとなった。
前日の夜中までセトと共に遊んでいた疲れや寝不足は一切見せず、今日もレイの模擬戦は厳しく行われていた。
それがどれだけ激しいのかは、三年Sクラスの生徒達の死屍累々といった姿を見れば誰もが納得出来るだろう。
「よし、お前達で最後だな。一旦休憩にするから、今の模擬戦のどこが悪かったのかをしっかりと考えろ。同じミスを繰り返すような奴は成績の方にもそれがしっかりと反映されるからな」
レイの口から出た言葉に、四十人の生徒全員が了解の声を上げる。
……もっとも、最初の方にレイと戦った生徒達はともかく、最後の方にレイと戦った者達は殆ど身動き出来ず、それこそゾンビの如き声だったが。
そんな生徒達を一瞥すると、レイは近くで様子を見ていたグリンクの方へと近寄って行く。
より正確には、生徒達から離れるという意味の方が強い。
自分が近くにいれば休むにしても緊張してしまう……という思いがあるのも事実だが、正確にはこれから話す内容を聞かれたくないという方が重要だった。
「お疲れ様でした。相変わらず厳しく、それでいて生徒達の為になる授業でしたね。見ているこっちの方も勉強になります」
「何言ってるんだよ。俺は所詮臨時の教官でしかないからな、きちんとこの士官学校で教官をしているような奴に比べれば、どうしても授業の効率は落ちるだろ」
「いえ、そんなことはありません。確かに私達は効率を考えてどんな授業にするのかを考えます。ですが、それだけではいつも似たような授業になってしまうのも事実。その点、レイさんの方は今まで私達がやってきた授業とは違いますからね。見ているだけでも勉強になります」
「勉強になるって……ただひたすら模擬戦をやってるだけなんだけどな。それこそ誰がやっても同じように出来るだろ」
誰でも出来ることを評価されても……と言いながらも、やはり褒められるのは嬉しいのだろう。
照れくさい表情を見られるのを嫌ったのか、レイは下ろしていたフードを被り直す。
そんなレイを、グリンクは微笑ましそうに少しだけ唇の端を曲げて見つめていた。
模擬戦で体力の限界までしごかれた生徒達にしてみれば、何を言ってるんだ、やってるんだ、と言いたくなるような光景なのは間違いない。
グリンクに微笑ましげに見られるのが嫌になったのか、レイは小さく咳払いをしてから話を変える。
「昨日のエーランドの件はどうなった? 襲ってきた奴等を警備兵に引き渡したんだよな?」
「はい。ですが、捕まった者達はいわゆる捨て駒の類だったらしく……重要な情報を持っている者はいなかったということです。エーランドからは、間違いなく叔父の手の者だと言われているのですが、証拠の類がなければただの言い掛かりにしか過ぎませんので」
「結局今のところは泣き寝入りをするしかない、か」
「そうですね。ですが、警備兵もこのままでは面子を潰された形です。だとすれば、少しでも手掛かりを得る為に奔走するでしょう。……多少厳しいでしょうが」
「わざわざクエント公爵の本拠地で騒ぎを起こすんだ。何かあってもすぐにどうにか出来るように手を打っていると思うべきだろうな」
レイの言葉に、グリンクは微かに表情を歪めながら頷きを返す。
自分の生徒が誰かに狙われているというのは、やはり面白い訳がない。
しかも、その襲撃現場を直接目にしたのだ。……もっとも、レイが襲撃者達を全て倒した後のことではあったが。
「それで、俺の件については?」
昨日襲撃者との戦いで乱入してきたのがスティグマと呼ばれている聖光教の精鋭部隊であるというのは、既に理解している。
それに天の涙を使った毒矢もまた、聖光教の手の者だろうというのは十分に予想出来た。
だが天の涙の方に関しては、あくまでも予想であって確定ではない。
もしかしたら……本当にもしかしたら、聖光教とは全く別口の襲撃者であった可能性も否定は出来なかった。
(自分で言うのも何だけど、人の恨みを買った覚えはこれでもかってくらいあるからな。どうしても他の襲撃者の存在も心配する必要がある)
そんな思いで尋ねられたグリンクは、黙って首を横に振る。
「一応捕らえた者達に天の涙の件の情報も尋ねてみたそうですが、それを知っている者は誰もいなかったようです」
「やっぱり駄目だったか。……この期に及んで隠し通せるとは思えないだろうから、完全にその件は知らなかったんだろうな」
「ええ、その点は間違いないかと。それにしても、まさかここで聖光教が出てくるとは思いもしませんでしたね。更にスティグマでしたか。そのような者達が姿を現すとなると、正直私では……」
申し訳なさそうに首を横に振るグリンクだったが、レイはグリンクを責めるつもりはない。
そもそもスティグマというのはランクA冒険者と同等の戦闘力を持っていると、サルダートから聞いている。
ミレアーナ王国の誇るランクS冒険者の言うことである以上、それを信じない訳にはいかない。……サルダートの性格を考えると、レイとしては多少不安もあったが。
ともあれ、そうである以上敵は最低ランクA冒険者が三人ということになり、今は士官学校の一教官でしかないグリンクが相手にするのが厳しいのは明らかだった。
(三人……相手が三人なのがせめてもの救いだよな。三人なら、俺、サルダート……そしてセトがいる。上手くいけば、マルカからコアンを借りることも出来るかもしれない。そうすれば、十分向こうの戦力とやり合うことは出来る筈だ。いや、寧ろこっちの方が戦力的には上だと言ってもいい)
自分だけでスティグマに対抗出来るかと言われれば、レイも首を横に振るしかないだろう。
一人ずつであれば対処可能だろうが、三人一緒になると、とてもではないが手が回らない。
だが、自分一人ではなく他の者達の手助けがあれば話は別だった。
(マルカ……いや、クエント公爵に会って、いざって時にコアンを借りられるように話を通しておいた方がいいか? クエント公爵の護衛はイスケルドがいるし)
レイの脳裏をクエント公爵領の騎士団長の顔が過ぎる。
騎士団長という役職云々ではなく、直に会ってみた感触で、レイはイスケルドがどの程度の力量なのかを大体理解していた。
ランクSには及ばず、自分でも勝てるだろう。だが、ランクA冒険者相当の力はあるだろうと。
「問題は、向こうがどう出てくるか……だな」
小さな呟き。
独り言のつもりで呟いたレイだったが、それを自分への言葉だと思ったのだろう。グリンクはレイへと頷きを返す。
「そうですね。ですが士官学校の中にいれば、そうそう勝手な真似は出来ないと思いますが。ランクA冒険者には届かなくても、元ランクB冒険者という経験の持ち主もいますし、いざとなれば学園長もいます。それにサマルーンも純粋な魔法使いとして考えればかなりの実力を持ちます」
「そうらしいな。それに、今は士官学校の中に冒険者の数も多い。そう考えれば、余程の自殺願望でもなければ攻めてくるような真似はしないだろう。……冒険者を巻き込むのはちょっとどうかと思うけど」
冒険者である以上、自分が依頼で来ている場所が何者かに襲撃された場合は対応する必要がある。
正確にはそこまでの義務はないのだが、それでも襲われている状況で逃げ出すような真似をした場合、それ以降肩身の狭い思いをすることになるのは間違いない。
ましてや、この士官学校には平民以外にも貴族や商人の子供達が通っている。
そんな相手を見殺しにしようものなら、グラシアールはおろか、下手をすればミレアーナ王国にすらいることが出来なくなる可能性もあった。
勿論その襲撃で生徒達に死傷者が出なければ問題はないのだろうが。
だが、まだ士官学校の生徒でしかない者達が自分達よりも経験を積んだ刺客を相手に生き残れるかどうかと言われれば、自信を持って頷くことが出来る者は余程楽天的な者以外はいないだろう。
「そうだな、一度他の冒険者に顔合わせをしておくか。いざという時に相手が俺の顔を知らないとかなったら、目も当てられないし」
「そうですね、丁度今日の午後に三年Bクラスの模擬戦があり、そこで冒険者の方が相手を務めます。そこに顔を出してみればいいのでは? 勿論私も付き添いますので」
「そうか、頼む。……さて、と」
話が一段落したところで、レイの視線はグリンクから生徒達の方へと向けられる。
そこでは、先程の模擬戦でどこが悪かったのか、どうすればレイに一撃を当てられるのかといった内容を話している生徒達の姿があった。
(慣れってのもあるんだろうけど、短時間で体力を回復させることが出来るようになってきたな。……いや、正確にはこれが本来の実力で、今までは俺という存在を相手にして緊張していたとか、そういうことだったりするのか? ……普通にありそうだな)
内心では色々思うところはあれど、それでもこうして自分が教えている生徒達が少しずつでも強くなっているというのは、レイに不思議な思いを抱かせていた。
純粋な生徒という意味であれば、バスレロにも教えたことがある。
だがバスレロの場合はあくまでも基礎の基礎の基礎。
本格的な戦闘訓練という訳ではなかったのも事実。
……もっとも、本格的な訓練という意味では、ベスティア帝国の内乱で元遊撃隊の面々を相手に行っているのだが。
「では、そろそろ……」
グリンクに視線で促され、レイは頷きを返す。
「そうだな。休憩は終わりだな」
そうして、レイはグリンクをその場に残したまま元の場所へと戻っていく。
「さて、それぞれ自分達の良かったこと、悪かったことをしっかりと検討出来たか? 出来たよな? 出来てないとは言わないよな?」
しつこいくらいに念を押すレイに、三年Sクラスの生徒達は嫌な予感を覚えながらも頷きを返す。
何となくこれから何が起きるのかを理解はしているのだろうが、それが間違っていて欲しい。
そんな思いを抱きながらレイに視線を向けたのだが……
「じゃあ、反省も済んだということだし、改めて模擬戦を開始するぞ。言っておくが、同じミスをした奴には……そうだな、今度は集団じゃなく、一人で俺かセトと模擬戦をして貰おうか」
『えーっ!』
レイの言葉を聞き、生徒達が不満の声を上げる。
今日は体育館にいないセトだが、レイが呼べばすぐにでもやって来そうだと思う者も多い。
もし本気でレイが今言ったことをやろうと思えば、すぐにでも出来ると知っているからこその不満の声なのだろう。
それを聞いたレイは、ニヤリと表現出来そうな笑みを浮かべて口を開く。
「そうか、そうか。そこまで喜んで貰って何よりだ。ならこっちも奮発して、俺かセトじゃなくて俺とセトを相手に模擬戦をして貰うか。安心しろ、ここは士官学校だから回復魔法を使える人物もきちんと用意されている。それに何かあっても俺がポーションを使ってやるからな」
そんなレイの言葉に、生徒達は絶望の声を上げ……決死の覚悟で模擬戦へと挑むのだった。
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