第938話
「……さて、と。随分と戻ってくるのが早かったな。もう少し掛かると思ってたんだけど」
そう告げるレイの視線の先にいるのは、マルカ。
レイから出して貰った果実水を飲みながら、周囲を見回す。
「ふむ、ここが士官学校の職員寮か。来るのは初めてじゃが、随分と人が少ないのう」
どこか残念そうな色が混じるその声に、レイは溜息を吐いて口を開く。
「休日の……それも日中だぞ? 人の姿が少ないのは当然だろ。今頃は他の教官も授業内容を考えてたりするんじゃないか?」
そこまで詳しいことは知らないけど……と告げるレイに、マルカは呆れた表情で口を開く。
「お主も教官なんじゃろう? であれば、授業内容を考えずともよいのか?」
「俺の場合、基本的に模擬戦やってればいいからな。それと、時々飽きないようにちょっとしたお遊びを入れるとか」
「ふむ……これは予想外に真面目にやっておると喜べばいいのか? それとももっと真面目にやれと怒ればいいのか? 微妙なところじゃのう。……あ、それとレイ。果実水をもう一杯くれぬか」
「はいはい」
マルカの言葉に、ミスティリングから再び果実水を取り出して手渡す。
渡された果実水を嬉しそうに飲むマルカを見ながら、レイは何故自分がこうしてマルカを引き取ることになったんだったか……とどこか遠い目をしてしまう。
学園長室で話をしていたレイ、エリンデ、サルダートの三人だったが、マルカの乱入でその話は半ばお開きとなった。
レイはもう少し突っ込んだ話をしておきたかったのだが、それでもエリンデに仕事があると言われれば、それを無視出来る筈もない。
もっとも、それが事実だとはレイも思っていないのだが。
(マルカの相手をするのが面倒だった? まぁ、その可能性もあるだろうけど、わざわざそんな真似をするとは思わないけどな)
クエント公爵家とエリンデ、サルダートといった者達との関係は悪くない……どころか、かなり良好だというのはレイの目から見てもはっきりと感じ取れた。
だとすれば、そのクエント公爵の子供のマルカを邪魔者にするような真似をするとは思えず、恐らく何らかの理由……可能であれば聞かせたくない話があったのだろうというのはレイでも十分に予想出来る。
(もっとも、それがどんな内容の話なのかは分からないけどな。恐らく今回の件に関わること……となると、聖光教についてか?)
自分用に取り出した瑞々しい果実を口に運びながら考えていると、それを見ていたマルカが羨ましそうな視線で自分を見ているのに気が付く。
果実水だけではなく、レイが食べている果実にも興味がある。
だが、果実水を貰っている以上……それもおかわりまでしているのだから、果実も欲しいとは言えないのだろう。
いつもの偉そうな態度ではなく、どこかおずおずと自分の方を見ているマルカに、レイは無言で持っていた果実を一つ渡す。
「うむ! 感謝するのじゃ!」
満面の笑みを浮かべてそう告げ、マルカは果物へと手を伸ばす。
その姿を眺めていたレイは、何となくエリンデ達がマルカをあの場所から外した理由に納得する。
幾ら聡明であっても、マルカはまだ子供なのだ。
そんな子供に刺客がどうこうという話は聞かせたくなかったのだろうと。
(士官学校というより、小学校とかの教師が似合ってるような感じがするけどな)
ふと思いついたその内容に、エリンデが『はーい、皆さん。元気に歌を歌いましょうねー』と言ってる光景が脳裏を過ぎり、思わず噴き出しそうになるのを我慢する。
意外と似合いそうな気もしたが、それを口にすればにこやかな笑みを浮かべたままで何か妙な仕返しをされそうな予感がした為だ。
「む? どうしたのじゃ、レイ。何だか面白そうな顔をしておるが」
「いや、何でもない。ただ、ちょっと面倒なことになったと思ってな」
レイの口から出た言葉に、マルカは申し訳なさそうな表情を浮かべる。
一瞬前までレイから貰った果物を嬉しそうに食べていたとは思えないような、そんな表情。
「正直、レイには申し訳なかったと思っておる。まさか父上の本拠地でもあるグラシアールであのような真似をするような者がおるとは思わなんだ。幾ら父上により追い詰められておるとはいえ、レイに手を出しても何も変わらぬであろうに」
「違いますよ、お嬢様。お嬢様が呼んだからこそ、こちらでも手を打てているのです。もしレイ殿がギルムにいたままであれば、国王派の中でも好き勝手に暴れている者達が何をしていたことか……それを思えば、ここがグラシアールであったことは幸いと言えるのではないかと」
マルカの後ろに控え、マルカとレイのやり取りを見守っていたコアンがそう声を掛ける。
そして、レイもコアンの言葉に同意するように頷く。
「そうだな、元々今回の件はいずれ起きていただろうことだ。マルカがそこまで気にするようなことじゃない」
そう言いつつも、今回の襲撃は貴族派云々というのは全く関係のない代物なのだということを理解している為か、レイの口調はどこか遠慮したものとなっている。
「ふむ、そのようなものか? 妾としてはお主をこの地に呼び込んだ責任を感じておるのじゃがな」
「お嬢様、あまり気にしすぎない方がよろしいかと。誰であろうと……それこそ、クエント公爵であってもこのような事態は想像出来なかったでしょう。それに、もし今回の件をお嬢様の失態であると思っているのであれば、これから取り戻せばいいではないですか」
「……そうじゃな。妾としたことが気弱になっておったようじゃ。うむ、ではレイの為に何が出来るかきちんと考えてみよう。構わぬな?」
その視線を向けられたレイは、何と答えるか迷う。
正直な話、エリンデやサルダートの様子を見る限りでは、この件にマルカを巻き込むことを嫌っているように見えた。
だというのに、この状況でマルカがより詳しく自分の事情に入ってこようとしているのを考えると、出来れば遠慮して欲しいというのがレイの正直な気持ちだ。
だが、マルカは期待を込めた視線をレイへと向けており、その後ろではコアンが無言で目礼をしている。
(マルカの護衛がマルカを危険に突っ込ませるような真似をしていいのか?)
コアンの様子を見ながらそんな風に考えるレイだったが、ここで何を言ってもマルカが動きを控えるということがないのは間違いない。
マルカを危険な目に遭わせない為には、この件を大人しく受け入れるしかなかった。
本来ならコアンという元ランクA冒険者が護衛をしているので、マルカに被害が及ぶということは考えなくてもいい。
しかし、敵にスティグマという精鋭部隊……それこそランクA冒険者相当の実力を持つ者達が集まっている以上、コアンであっても完全にマルカを守れるとは限らない。
いや、常に実戦に身を置いていたらしいスティグマと違い、コアンはマルカの護衛をしてはいても、そこまで厳しい戦いをここ最近はしていない。
元ランクA冒険者だけあって、その辺にいる刺客程度であれば楽に倒すことが出来るだろう。
だが、自分と同程度の強さを持つ者を相手にしては話が別だった。
同じような強さを持つ者同士の戦いで、片や現役で修羅場を潜り抜けてきた者であり、片や訓練は続けているだろうが死に瀕するだろう修羅場を暫く経験していない者。
その両者が戦えば、どちらが勝つのかというのは誰の目にも明らかだろう。
大丈夫か? と、コアンの身を案じるレイ。
レイにとって、コアンというのは親しみを感じている男であり、付き合いやすい男でもある。
きちんとレイの実力を測ることが出来、レイの外見で判断するような真似をしないコアンは、レイにとって貴重な存在でもある。
勿論他にも同じようにレイを外見で判断しない者もいるのだが、その人数はどうしても多くはない。
そんなレイに、コアンは大丈夫ですと安心させるような笑みを浮かべるのだった。
「くそがぁっ! 何であれだけ人数を揃えておいて襲撃に失敗する!」
そんな叫びと共に振るわれる男の拳が、目の前にいる男の頬へと吸い込まれ、そのまま吹き飛ばされる。
吹き飛ばされた男は壁にぶつかって動きが止まりながらも、殴られた場所を押さえながら口を開く。
「そっ、それが……途中までは上手くいってたんですが、途中で妙な男が乱入してきたことで予想外の方向に話が進んでしまって」
「はぁ? 妙な男? どんな男かは分からんが、男一人乱入してきた程度で襲撃が失敗したってのか? お前、今日の朝には全く問題ないっつってたじゃねえか? あぁっ!?」
言い訳を続ける男に凄むのは、エーランドを狙った者達の後ろで糸を引いていた人物。
より正確には、エーランドの叔父に仕える騎士だ。
……もっとも、この性格で騎士と言われても納得出来る者はそれ程多くはないだろう。
もっとも、このような性格だからこそ裏仕事を任される騎士という立場になったのだろうが。
今殴られた男も、このグラシアールではちょっとは名の知れた男なのだが、それでも目の前の騎士を名乗る男に逆らおうとは思えない。
エーランドに対する襲撃が始まる前には絶対の自信を持って今日で片を付けると胸を張っていたのだが、それが結局は失敗してしまい、こうして騎士の怒りに火を注ぐ羽目になっていた。
(くそっ、あの男は何なんだ!? 奴さえいなければ、全てが上手く進んだのに……奴と接触した奴は全員警備兵に捕まるか、死んでしまっているから情報は殆どない……ちくしょうっ! 何だって俺がこんな目に!)
殴られた頬を押さえながら、男は内心で苛立ちの声を発する。
この男が襲撃を失敗したという情報を手に入れられたのは、襲撃の結果を見守る役目の人物がいたからだ。
襲撃場所から距離を取って事態の成り行きを見守り、もし今回のように失敗しても仲間を助けず、ただひたすらにことの成り行きだけを見守り、その情報を持ち帰る。
そんな役目を任された男からの情報だった。
「くそっ、全く使えない野郎共だ。何だってこんな奴等を使わなきゃいけねえんだ。くそっ!」
騎士が口汚く目の前にいる男を罵りながら、近くにある椅子を蹴飛ばす。
椅子が壁にぶつかる音が響き渡るが、誰もこの部屋にやって来る様子はない。
当然だろう。この家は男の後ろにいる者が用意した場所なのだから。
……そう。本来であれば、という但し書きがつくのだが。
「ひょひょひょ。どうやら当たりだったようじゃな。この者共の後を付けてきて正解じゃったわい」
突然部屋に響いたその声に、騎士は即座に反応して腰の鞘から長剣を引き抜く。
騎士に罵られていた男も、素早く懐から短剣を取り出して構え、周囲を見回す。
「誰だっ!」
叫ぶ騎士の言葉に答えたのは、つい数秒前に聞こえたのと同じ声。
「どこを見ておる? ここじゃよ。ふむ、このままでは姿が見えんか。ほれ、これでどうじゃ?」
その声と共に、部屋の中に突然三つの人影が姿を現す。
「ば! くそっ、いつの間に入り込みやがった!」
騎士が叫びながら長剣を振るう……否、振るおうとしたが、その長剣はいつの間にか姿を現した男の一人が瞬時に前に出て腕を押さえ、動きを止める。
それを見て、騎士の男は信じられないと大きく目を見開く。
裏仕事をしている以上、男には当然自分の腕に自信があった。
勿論自分が最強だと自惚れている訳ではないが、それでもその辺の相手に対して後れを取るような実力ではないと思っている。
だが、今自分は武器を振るおうとしたその瞬間に動きを止められたのだ。
何が起きたのかは理解出来る。
長剣を持つ手に力が入ったのを見て、もしくは行動の予兆を察知して動いたのだろう。それも自分の目にも留まらぬ速度で。
自分の腕を押さえている、二十代程の男へと視線を向ける。
その姿を見た瞬間、男は自分がこの男には絶対に勝てないというのを本能的に理解した。
「あんた達……何者だ? エーランドの手の者か?」
「うん? エーランド?」
騎士の男の言葉に、その手を押さえている男がそう答えた瞬間、この場にいながらすっかり存在を忘れられていた男が口を開く。
「老人に男二人……こいつらっ! 標的の護衛をしていた奴に攻撃を仕掛けていた奴です!」
「……この三人が?」
腕を押さえられたまま、騎士は視線を三人へと順番に向ける。
その誰もが、自分よりも圧倒的に強い。
自分では到底敵わない相手だというのは、見ただけで理解出来た。
そもそも、幾ら力を入れても男に押さえられている自分の腕は動かないのだ。
それだけを見ても、信じられない身体能力を持っているのは明らかだった。
「さて、儂等の正体が分かったところで……ここは一つ、手を組んでみぬか?」
老人のその言葉に、騎士は首を縦に振るしかなかった。
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