第936話
時は少し戻る。
エリンデがいつものように学園長室で仕事をしていると、不意に覚えのある魔力が感じられた。
その魔力が、学園長室の校舎に入ってきた……というのであれば、特に問題はなかっただろう。
だが、学園長室の執務机で書類を整理している自分のすぐ真横にその魔力が突然現れたとなれば、話は違う。
それでもエリンデが慌てた様子を見せなかったのは、その魔力の持ち主のことを詳しく知っていた為だろうか。
そのまま書類に書かれている内容を読み、何もおかしなところがないというのを確認してからサインをする。
そうして机の上に置かれていた紅茶のカップへと手を伸ばし、大分冷えた紅茶を飲んでから口を開く。
「それで、君は一体何をしているのかな?」
視線が向けられた先にいたのは、自分と同じエルフで、背には弓を……その辺で買おうと思っても、とてもではないが買えそうにないような、素晴らしい弓と、こちらもまた見ただけでマジックアイテムだと理解出来る矢筒を背負っていた。
エルフらしいほっそりとした身体つきではあるが、エリンデはその人物の身体がしっかりと鍛えられているのを知っている。
そして、こちらもまたエルフらしいと表現出来る優美な顔立ち。
元々エルフは顔立ちが整っている者が多い傾向にあるが、その中でも特に際立った美貌の持ち主だ。
それでいてきちんと男だと理解出来るのは、やはり性格が関係しているのだろう。
その人物は、エリンデの横で興味深そうな視線を浮かべてエリンデの顔を見ていたが、ようやく相手をして貰えるのかと笑みを浮かべて口を開く。
「君も酷いな。私がいるのにはさっきから気が付いていただろう? なのに、それを無視して仕事を優先するなんて」
「君の相手をするのもいいけど、私の仕事はこの士官学校の学園長なんだ。そうである以上、友人が尋ねてきても仕事の方を優先せざるを得ないのは分かるだろう?」
「仕事、ねぇ。書類仕事とか、私は絶対にやりたくないけどね。もしやれと言われたら断固拒否するし、それを強制するような相手にはこれを使ってでも抗議したいね」
そう告げ、エルフの男は自分が背負っている弓へ愛おしそうに触れる。
白と青の線が入り交じった金属で出来ているその弓は、男の異名であると同時に強力無比なマジックアイテムでもあった。
即ち……
「天弓もそんな下らないことに自分を使われるとなれば、不満だろうね」
そう、その弓こそが天弓と呼ばれる武器であり、同時にその天弓を持っているエルフは、武器と同じ天弓の異名を持つランクS冒険者のサルダート。
「そうかい? 元々護衛を依頼してきたのはエリンデなんだから、寧ろしっかりと仕事をしていると褒められてもいいと思うんだけど」
「その割りには、レイ殿の戦いに介入しただけなんだろう? 襲ってきた相手を捕らえるくらい、君なら出来たんじゃないのかな?」
「何を馬鹿なことを言ってるのさ!?」
心外だ、とでも言いたげに両手を大きく広げるサルダート。
その仕草は一々大袈裟であり、それを見ている者にとってはまるで劇でも見ているかのようだった。
(そう言えば国王派に入って来た情報によると、内乱で勝者となってベスティア帝国の次期皇帝になった第三皇子の部下にも似たような性格の人物がいるという話だったけど……サルダートと会っているところを見てみたいような、見てみたくないような)
エリンデが内心でそんなことを考えているというのは思いも寄らないのか、サルダートは両手を広げたまま悲しそうに首を横に振って口を開く。
「私はエルフだよ? 弓や精霊魔法こそ得意だけど、接近しての戦いは得意じゃないのさ。そういうのは、得意な者に任せておけばいい。……あ、ただし男に限る。女の子は綺麗な肌に傷が付いてしまうから、出来れば止めて欲しいな」
「……君は、本当に相変わらずの性格をしているね。全く、こんなのがミレアーナ王国のランクS冒険者なんだから、この国の未来はとても明るいとは言えない」
「心外だな。幼女、少女、女の子、女性。……それは世界の宝だよ」
この世の真理! とでも言いたげに告げるサルダートに、エリンデは溜息を吐く。
「はいはい。それはいいとして、結局レイ殿を襲ったのは誰なのか見当が付くかい?」
「ああ。以前何度かやりあったことがある。あれはスティグマだね」
「……スティグマ?」
聞き覚えがなかったのか、エリンデは首を傾げる。
それを見たサルダートもまた、首を傾げる。
エルフ二人がお互いに首を傾げ合って沈黙するという不思議な光景ではあったが、最初に沈黙を破ったのはサルダートだった。
「あれ? 本当に知らない? 裏の世界ではそれなりに有名だと思うんだけど」
「あのね……私は別に冒険者でも、裏の世界の住人でもない、普通の士官学校の学園長だよ? 何でそんな私が裏の世界で有名な人物のことを知ってると思うのかな?」
「……君が普通、ね。それだと私の普通の定義が変わってしまうんだけど……まぁ、いいよ。その件に関して深く突っ込んで話せば藪蛇になるだろうし。それでスティグマについてだったね。簡単に言えば、聖光教の最高戦力といったところかな」
「聖光教? 聖光教というと確か去年エグジルで騒動を引き起こした……」
迷宮都市故に自治都市という扱いになっているエグジルだったが、それでもミレアーナ王国の一部であることに変わりはない。
そうである以上、当然去年の聖光教の件も情報として入って来ていた。
「そうそう。その聖光教だね。結局その件でミレアーナ王国でも弾圧……とまではいかないけど、厳しい目を向けられるようになったのは知ってるだろう? その聖光教が擁する最高戦力がスティグマなんだよ」
「具体的に、どのくらいの能力の持ち主なのかは知ってるかな?」
「そう、だね。平均してランクA冒険者相当といったところか。勿論中にはもっと弱いのもいれば、それより強いのもいる。……ああ、当然だけど私よりも強い相手は今のところ見たことがないから、ランクS相当ってことはないと思う」
その言葉にエリンデは安堵の息を吐く。
だが、すぐにその秀麗な表情は苦々しげなものへと変わる。
当然だろう。平均してランクA冒険者相当となれば、かなりの戦力だ。
自分の友人が負けるとは思わないが、それでもサルダートは一人しかいない。
複数の場所で一気に騒ぎを起こされれば、サルダート一人では手が回らないのは確実だった。
(せめてもの救いは、サルダートが天弓の異名を持つ冒険者だということか。遠くからでも矢を命中させることが出来るその能力は、切り札になり得る。それに……)
次にエリンデの脳裏に浮かんだのは、レイの姿。
当然ながらその実力についてはある程度の情報が入っている。国王派の中でも大物が治めているこのグラシアールだ。レイがベスティア帝国の内乱でどのような行動をしたのかという情報は入ってきているし、ベスティア帝国が誇るランクS冒険者に限定的ではあるが勝ったという話も聞いている。
そして何より、レイが炎帝の紅鎧を使った時に感じた膨大な魔力。
それを見れば、それこそどれだけの力を持っているのかというのは理解出来た。
(ただ……集めた情報によると、レイ殿が得意とするのは広範囲殲滅魔法。つまり、広い場所での戦い。勿論個人としての力も十分あるのは分かってるけど……そもそも、レイ殿を一時的に避難させるという意味で教官をやって貰っているのだから、レイ殿に戦わせている時点で失格か)
溜息を吐くエリンデを、サルダートは面白そうに見つめている。
丁度、そんな時だ。学園長室の扉がノックされたのは。
扉に近づいてくる気配を感知した瞬間から、サルダートの口元は更に笑みが浮かんでいた。
そんなサルダートを見て、誰が来たのかを悟ったのだろう。半ば諦めた表情を浮かべつつ、エリンデは中に入るように促す。
そうして中に入ってきたのは、当然レイ。
「……」
「うん?」
学園長室の中に入ってきたレイに対してサルダートが何か反応すると思っていたエリンデだったが、予想外に何の反応もないことを不審に思う。
どうした? エリンデはそんな思いでサルダートへと視線を向けた。いや、向けたつもりだったのだが……
どこをどう動いたのかは分からないが、気が付いた時には既にサルダートの姿は部屋の中に入ってきたレイの方へと向かっていた。
「やあ、君がレイかい? 噂では男だと聞いてたんだけど、どうやら嘘だったようだね」
歯を光らせ――エリンデからは見えなかったが――ながらそう告げるサルダートに驚いたのは、エリンデだけではない。
当然自分に向かって近づいてくるのを見ていたレイもそれは同様だった。……いや、寧ろ純粋な驚きという意味ではレイの方が上だろう。
現在のレイは、エリンデに会うということでドラゴンローブのフードを下ろしている。
その結果、女顔と言ってもいいレイの顔は容易に確認出来、それを見たサルダートがこうしてレイを口説き始めたのだ。
「いや、さっきはスティグマの方に集中してたから、こんなに美人だとは思わなかったよ。それにしても、君みたいな子がスティグマに襲われるなんて、何をしたんだい?」
「……待て。待ってくれ。頼むから、ちょっと待ってくれ」
レイにしては珍しく混乱したように手を前に突きだし、サルダートとの距離を取るようにしながら頭を傾げる。
今、会話に紛れて妙な言葉が混じっていたような気がした為だ。
「ああ、勿論君が待てと言うのであれば、いつまででも待たせて貰うよ。それにしても、君のそのローブはかなり強力なマジックアイテムのように見えるけど、それでも君の持つ華を十分に活かせてはいない。どうかな? この後で私が君に合うドレスをプレゼントしたいのだけれど」
ファサリ、とサルダートは鮮やかな緑の髪を掻き上げながらレイを買い物へと誘う。
もしここにいるのがレイではなく普通の女であれば、恐らくは一発で恋に落ちただろう決め顔。
自分の美しさを知っているからこそ、それをより効果的に見せるにはどうすればいいのかを自分自身で知り尽くしている、そんな見せ方……否、魅せ方。
だが、不幸なことに……レイはその外見はともかくとして、性別は歴とした男だった。
「あー……サルダート。口説いているところを悪いけど、レイ殿は立派な男だよ」
「……え?」
髪を掻き上げた姿のまま、ピシリという擬音が聞こえてきそうな感じで動きを止めるサルダートに、レイはジト目を向ける。
自分がいわゆる女顔であり、体格もエルジィンにいる男の平均よりも小柄なのは知っている。
だがドラゴンローブで腹が出ているのを見れば、そこにある程度筋肉が付いているというのは見れば分かるだろう。
(いや、女でも筋肉がついてるのは珍しくないのか)
何人かの戦士……それもヴィヘラのようにあくまでも女としての美しさを保ったままの人物ではなく、男に負けないような筋肉を持っている女の姿がレイの脳裏を過ぎる。
その手の人物と話したことは殆どないが、敢えて挙げるとすればランクCパーティ、砕きし戦士のメンバーでもあるフロンか。
(そう考えれば、俺を女と間違ったのも無理はない……のか? それが嬉しい訳じゃないけど)
レイは自身を歴とした男として認識しているし、それだけに幾ら顔立ちが整っている美形であっても男に言い寄られるというのは気持ちいいものではない。
「えっと、その……本当に君は男なのかい?」
「ああ。それ以外の何に見える?」
「それは……やっぱり……」
女、と言いそうになったサルダートだったが、レイから向けられている不機嫌そうなジト目や、エリンデから向けられている呆れの混じった視線に口を噤む。
今迂闊なことを言えば、色々な意味で酷い目に遭いそうな気がした為だ。
実際、その判断は正しかったのだろう。
もしここでレイに対して女だと言おうものなら、レイとしては相手が誰であろうと……それこそ天弓の異名を持つ、ミレアーナ王国唯一のランクS冒険者であろうとも、断固とした態度を取っただろうから。
(ランクS冒険者、天弓……実は違うってことはないよな? いや、さっきはスティグマ? とかいう連中に襲われたとか何とか言ってたのを考えると、やっぱりこいつが天弓で間違いないんだろうけど……ノイズと余りにも違いすぎないか?)
困った表情を浮かべているサルダートの様子を確認し、レイは首を横に振る。
ノイズが向かい合っているだけで手に汗を握る程に緊張したのに対し、サルダートは如何にも軽い雰囲気で、とてもではないがノイズと同格の相手には思えなかった為だ。
だが、この場の主であるエリンデが何も話に突っ込まないところを考えれば、目の前にいる人物がランクS冒険者、天弓であるというのは間違いのない事実なのだろう。
その事実にどこか納得のいかないものを感じながらも、レイはサルダートへと視線を向けるのだった。
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