第891話

 不意に聞こえてきた声だったが、レイとアシエは最初その言葉の意味を理解出来なかった。

 それは当然だろう。レイはともかく、アシエは見るからにメイドであり、シスネ男爵家の屋敷にいる。

 つまりシスネ男爵家に仕える人物だというのは、余程のことがない限り見ただけで分かるだろう。

 だが今聞こえてきたその声は、間違いなくレイではなくアシエに対して今夜自分に付き合えと言っていた。


(いや、もしかして俺を女だと思ってるのか?)


 もしかして……と思うレイ。

 レイの身体は平均よりも小さく、今はドラゴンローブを着ているので、身体つきは男とも女とも見て取れる。

 ……もっとも、元々レイの身体つきは見て分かる程に筋肉がついている訳でもないので、ローブを脱いでも女と勘違いしてしまう者がいないとも限らないが。

 そして何より、フードの下にあるレイの顔は女顔と表現してもいい程に整っている。

 それらのことを考えれば、レイを女の冒険者だと思ってしまう可能性も――レイ自身は認めたくないが――あった。

 だが……声を掛けてきた男の視線は、間違いなくレイではなくアシエの方に向いている。

 その視線を見る限り、今の言葉はレイではなくアシエに向けられたのは確実だった。


「申し訳ありません、貴族様。それは私に言っているのでしょうか?」


 アシエが馬車に乗っている貴族へと尋ねると、その貴族は開いた窓から当然だと言わんばかりに傲慢に頷く。


「当然だ。見たところ、お前はこの家のメイドなのであろう? なら、俺の言葉にも従って貰うぞ」


 堂々と告げるその男の言葉がレイには分からなかった。

 何故シスネ男爵家のメイドであれば、あの貴族の言葉に従わなければならないのか。

 アシエならその意味が分かるのか? と視線をアシエへと向けるレイだったが、視線を向けられたアシエも意味が分からないといった風に首を傾げている。


(シスネ男爵家の関係者……って訳でもなさそうだし。何だってこんなに自信満々なんだ?)


 話の成り行きが理解出来ないレイ。

 アシエもまた同様に、どう返事をすればいいのか……より正確には、どう断ればいいのかを迷っていた。

 そんなアシエの様子を見ていた、馬車の護衛と思しき騎士が口を開く。


「男爵家のメイド如きが、エリエル伯爵家次期当主のキープ様の命令に従えないと言うのか! いいから、さっさとこっちに来い!」


 雪が降っている中で金属の鎧を身につけているので、その寒さはかなりのものなのだろう。

 騎士は苛立ちも露わに、アシエの方へと近寄って行く。

 ……そう。つまり、アシエの側にいるレイの方へと。

 そうして強引な理由とすら言えない理由を付け、アシエへと騎士は手を伸ばそうとして……当然の如く、その手はレイによって止められる。


「おい、正気かお前」

「貴様、見たところ冒険者か? キープ様に逆らってただで済むと思っているのか? さっさとその汚い手を離せ。そうすれば今回だけは見逃してやる」


 アシエに近づいた騎士の言葉に、馬車の近くにいた別の騎士も頷き、口を開く。


「男爵家如きが伯爵家に逆らってもいいと思っているのか? お前が素直にキープ様の命令に従わなければ、この……シスネ男爵家だったか? この家の当主に迷惑が掛かると思うぞ? こんな男爵家如きがどう騒いでも意味はない。最終的には国王派のエリエル伯爵家の命に従うことになる」

「それは……ですが、その。申し訳ありませんが、私のような女ではキープ様のような方のお相手には、とてもではないが相応しくありません。ご容赦願えませんでしょうか?」


 何とかことを収めようと告げるアシエだったが、その言葉は寧ろ馬車の中にいるキープという男を激昂させる結果となる。


「ふざけるな! 男爵家のメイド風情が俺の命令を聞けないとでも言うつもりか!?」


 アシエの言葉のどこがそこまで気に障ったのかレイには分からなかったが、キープは馬車の扉を蹴り飛ばすようにして開け、そのまま地面へと降りる。

 この時になって、ようやくレイはキープという人物がどのような姿をしているのかをしっかりと確認することが出来た。

 馬車の窓から見えるのは、顔くらいだったのだから当然だろう。

 中肉中背……と表現するのが正しいのだろうが、身体全体が弛んでいるような印象の、二十代半ば程の男。

 決して太っているわけではないのに、太っているという印象を相手に与える、そんな感じの体格をしている。

 全く身体を鍛えた様子もなく、足運びも洗練されているとは言えないのが、そういう印象を受ける理由なのだろう。

 そして顔は馬車の窓から見た時点で分かっていたが、基本的には美形と言ってもいい。

 だが相手を見下すその雰囲気が、整っている顔立ちを完全に台無しとしていた。


「お前達、いいからこいつを連れてこい!」

「ちょっ、ちょっと待って下さいキープ様! 爵位が下の相手ではあっても、歴とした貴族です。そのメイドを強引に連れ去るような真似をしては、後々問題になります!」


 馬車の中から慌てたように一人の男が飛び出してくる。

 見るからに太っている男。

 太っているせいでキープよりも年齢が随分と上のように思えるが、よく見ればキープとそう変わらないようにレイの目には映った。


「ええいっ、黙れフルトス! お前は俺の命令が聞けないというのか!」

「ですから、そうは言ってません! もしあのメイドを手に入れるのだとしても、きちんと向こうに話を通す必要があるといっているのです!」


 雪が降っているというのに、汗を拭きながら叫ぶフルトス。

 キープの行動を思えば、何としてもここで押し留まって貰う必要があると、必死に懇願する。

 そんなフルトスの言葉に心を動かされた訳でもないだろうが、キープは不愉快そうに鼻を鳴らしてからアシエへと向かって口を開く。


「この家の責任者を連れてこい。俺が直々にお前は俺の物だと宣言してやる」


 人ではなく物扱いされたアシエだったが、本人はそれを気にした様子はない。

 寧ろ今のキープの言い分を聞く限りでは、もしここにムエットを連れてくれば余計に騒ぎが大きくなってしまう、と。

 どうにかキープに大人しく帰って貰う必要があるのだが、その方法を思いつかない。

 そして……最悪のタイミングで、ムエットは表へと顔を出す。


「アシエ、レイ君は……」


 そこまで言い掛けたところで、家の前に馬車が止まっており、貴族と思しき人物を始めとした者達に気が付く。

 更に見過ごせなかったのは、騎士とおぼしき者達がシスネ男爵の屋敷の敷地内に入ってきていることだ。


「すまないけど、君達は誰かな? 少なくても僕は君達のことを知らない。そんな君達がこの家の敷地内に入るのは、とても褒められたことではないと思うんだけどね?」


 堂々と告げるムエットの姿に、普段の気弱な様子はない。

 そんなムエットの態度がキープの癪に障ったのだろう。苛立たしげに叫ぶ。


「黙れ、俺はエリエル伯爵家次期当主だぞ! 貴様如きが俺に命令をするつもりか!」

「これは、エリエル伯爵家の方でしたか。私はシスネ男爵家の当主でムエットと言います」


 明らかに罵倒されているにも関わらず、ムエットは笑みを浮かべたままだ。

 勿論罵倒されて悔しくない訳がないのだが、エリエル伯爵というのは国王派の貴族で、自分よりも明らかに格上の存在だ。

 目の前にいるのが当主本人ではなく次期当主であったとしても、ここで問題を起こせば後々面倒なことになるのは確実だった。


「ふん、貴様がこの屋敷の貧乏男爵か。お前のメイドが俺に対して色々と無礼な真似をしたんだよ。ただまぁ、俺もお前のような貧乏男爵を相手に面倒な真似はしたくない。そのメイドを俺に寄越せ。そうすれば今回の件はなかったことにしてやる」


 自分の家の権勢と、目の前にいる気弱そうに見える中年の男。

 その力関係を考えると、目の前の貧乏男爵は確実に自分の命令に従わなければいけない筈だった。

 例え相手が男爵家の当主で、自分が次期当主であったとしてもだ。

 だからこそ、キープはムエットが悔しげな表情を浮かべながらも、メイドを自分に差し出すと思い込んでいた。


(なかなかいい身体をしている。今夜の相手としては十分だろう。終わったら下の者に与えればいいしな)


 そんな思いすら抱き、視線をアシエの方へと向けていたのだが……


「お断りします」


 予想外に断固とした言葉でムエットが告げる。


「そうか、じゃあ早速お前達、その女を……何?」


 連れてこい。

 そう言おうとしたキープの言葉が途中で止まる。

 そのまま数秒、今自分が何と言われたのかを考え、やがて現実に理解が追いつくと、苛立ちで顔を真っ赤にしながらムエットを睨み付け、叫ぶ。


「貴様、何のつもりだ! エリエル伯爵家に逆らうつもりか!?」

「逆らうも何も、何の理由もなくうちのメイドを強引に連れ去ろうとしているのはそちらでしょう? なら、僕としてもここで退く訳にはいきません」

「……いいのか? このことが父上に知られれば、必ず問題になるぞ?」


 脅すように告げるキープだったが、アシエを背後に庇ったムエットは毅然と言い放つ。


「彼女は僕の家に仕えている者だ。自分から望んで君の下に行きたいと言うのであればまだしも、強引に連れ去るような真似をする相手に任せる訳にはいかない」


 まさか、爵位が上の相手――次期当主であっても――に逆らうとは思っていなかったのか、キープの顔は怒りで赤くなっていく。

 キープのお付きのフルトスは、それを見てこのままでは危険だと判断する。

 確かに自分達はこの地で揉めごとを起こし、それを理由にして国王派がここに手を出す理由にする為に派遣されてきた。

 だが、それでもこのままでは、想定していたよりも問題が大きくなり過ぎる可能性がある。

 頭に血が上ったキープであれば、相手が男爵の地位にある者であっても殺すよう騎士に命じかねない。

 更にその騎士も、基本的には伯爵家に仕えているとして特権意識を持っている者だ。

 相手が男爵であろうとも、キープの命令があれば容易く手に掛けるだろう。

 そうなれば、この地を治めるラルクス辺境伯も即座に乗り出してくるのは間違いない。

 そんなことになれば、自分達をここに派遣するように命じた国王派の貴族はあっさりと自分達を切り捨てる筈だ。


(不味い、不味い、不味い。何とかこの場を収めなければ。それも、血を流さずに……どうする? どうすればいい?)


 今にも騎士へと命令を下そうとするキープの姿を見て、フルトスの頭は急速に回る。


(何か……何かないか? せめて、相手を殺してもいいような……うん? 殺してもいい? 相手は屋敷を見る限り、キープ様が口にしたように、明らかな貧乏男爵。当主からしてとても身体を鍛えているようには思えない。ならば!)


 現状を打破する方法を考えついたフルトスは、キープが怒りに任せて口を開こうとした瞬間、その耳に囁く。

 それを眺めるムエットは、嫌な予感を覚えながらも相手の出方を待つしかない。

 尚、もし何かあれば自分が前に出ようと考えていたレイは、ただ黙って成り行きを見守っている。

 そうしてフルトスの話が終わると、キープはつい先程まで怒りで顔を真っ赤にしていたのが嘘のように上機嫌に笑みを浮かべていた。


「いいだろう、ではこうしようか。俺とお前で決闘だ。勿論代理の者を雇っても構わない。もっとも、お前のような貧乏男爵がそれだけの金があればの話だがな。それで俺が勝ったら、その女を貰う」


 その言葉に、ムエットの表情には苦々しげな色が浮かぶ。

 だがその時、視界の隅にいたレイが頷くのを見る。

 受けろ、と。その決闘は俺に任せろと告げてくる視線に、ムエットの心に絶対的な安堵が浮かぶ。

 この時、キープやフルトスにとって最大の不幸だったのは、ここにいるのがレイだと気が付かなかったことだろう。

 もっとも、隠蔽の効果が掛けられているドラゴンローブを身につけており、レイの象徴でもあるデスサイズを握っているでもなく、ましてやグリフォンのセトもいないのだから、それは無理もなかったのだろうが。


「一応聞かせて貰いますが、僕が勝ったらどうするのですか?」


 ムエットの言葉に、キープは嘲笑を口に浮かべる。


「は? 何だと? お前のような貧乏貴族が俺に勝てると思っているのか? はっはっは。これは面白い。なら、そうだな……お前が勝ったら、エリエル伯爵家の所有する財産の半分をやってもいいぞ」

「……本気ですか? キープ殿は次期当主であって、現当主ではない筈。そのようなことを決められるとは思いませんが」

「問題ない、俺が負けるなんてことは一切ないからな。……だが、そうだな。お前がそこまで心配するのなら、ここの領主に言ってきちんと法的に処理してから決闘をするとしよう。問題はないな?」

「キ、キープ様!? それは幾ら何でも……」


 横で話の成り行きを見守っていたフルトスが、キープの口から出た言葉に慌てたように叫ぶ。

 当然だろう。領主に法的に処理させた上での決闘ともなれば、もし万が一、億が一にでも負けてしまった場合、誤魔化しようがないのだ。

 だが、フルトスのその慌てようは、キープの怒りを誘う。


「何だフルトス。もしかして俺が負けると思っているのか? 安心しろ、俺はエリエル伯爵家の次期当主だぞ? こんな貧乏男爵に負ける訳がないだろう。……そうだな、後々話を誤魔化されても困る。今のうちに領主に話を持っていくとするか。お前達も来い。これから領主に話を通しに行くぞ。……女、今日は駄目になったが、この決闘が終わったらたっぷりと可愛がってやる。楽しみに待っていろ」


 自分の血筋故に、爵位が下の相手には決して負ける筈がないという思い込みで告げるキープ。

 もしここにギルムでの事情を詳しく知っている者がいれば、確実に止めておけと言っただろう。

 だが、レイをレイとして認識出来ていない以上、キープやフルトス、そして騎士達も自分達が致命的なミスを犯したとは認識することが出来なかった。

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