第890話
応接室の中に数秒だけ広がった沈黙を破ったのは、レイだった。
「そうだな。バスレロの腕を見るというのはいいけど、一応これは指名依頼ということになってたんじゃ?」
「ああ、勿論だ。去年のように連日じゃなくて今日だけだということだから、それ程報酬は高くは出来ないが……」
少し言いにくそうにするムエット。
この家に金銭的な余裕がないというのは、レイにも理解出来た。
その上で今日だけの依頼となれば、その金額は更に少なくなるだろう。
だが、そんなムエットに、レイは首を横に振る。
「報酬として金はいらない。その代わり、このドライフルーツを貰えるか? ここまでハーブティーに合うドライフルーツというのは、初めて食べるし」
レイの口から出た言葉が余程に意外だったのだろう。ムエットだけではなく、その後ろで控えているメイドのアシエも驚愕の表情を浮かべる。
「その、いいのかね? こう言ってはなんだけど、そのドライフルーツは別に売ってる物を買ってきたという訳じゃなく、アシエの手作りなんだけど……」
自分の後ろにいるアシエへと視線を向けて尋ねるムエットに、レイは笑みを浮かべて口を開く。
「ああ。正直、このドライフルーツを食べて驚いた。普通、ドライフルーツというのはどうしても見た目が悪くなったりするんだけど、これは色も鮮やかなままだし。普通に作っただけだとこういう風にはならないんじゃ?」
「確かに。そのドライフルーツはアシエの家に伝わる製法を使って作られてるんだ。我が家の名物と言ってもいいかもしれないね」
「そんな、旦那様。私は別に特別なことは……」
手放しといった様子で褒めるムエットに、アシエは頬を赤く染めて照れくさそうに呟く。
「正直、このドライフルーツは売ろうと思えば売れると思うんだけど。多分、セトも喜んで食べるでしょうし」
セト御用達という評判が広がれば、間違いなく売れるだろう。
だが、そんなレイの言葉にアシエは残念そうに首を横に振る。
「このドライフルーツは、そんなに多く作れるものではないんです。あ、勿論それは売れる程って意味で、この家で食べる分や、レイさんにお渡しする分くらいはありますけど」
アシエの言葉に満足そうに頷いたレイは、改めて視線をムエットの方へと向ける。
「どうでしょう?」
「いや、僕としてはそれは助かるんだけど……本当にいいのかい?」
確認するように告げてくる相手を見て、ムエットの人の良さにレイはこの家の未来を心配してしまう。
もっともそのような性格だからこそ、貴族同士の争いが殆どないギルムへとやって来たのだろうが。
「ああ、任せて欲しい。……じゃあバスレロ、早速やるか?」
「はい! レイさんにこの一年の成果を示して見せます! 場所は……中庭でお願いします。いつもそこで訓練をしているので」
レイの言葉にバスレロが嬉しそうに叫び、それを見たムエットも嬉しそうに目を細める。
いつもは礼儀正しい自分の息子が、レイに対しては強い憧れのようなものを持っているのに気が付いていた為だ。
年頃の年齢らしい態度は、出来過ぎの息子を持つ父親にとって見ていて嬉しいものがあった。
「ではレイさん、中庭に案内させて貰います。坊ちゃまは準備を」
「すぐに用意してきます!」
バスレロが急いで部屋を出て行き、アシエがレイを庭へと案内するする。
「さて、バスレロはレイ君を相手にどこまでやれるかな? 正直寒いのはあまり好きじゃないんだけどね」
応接室の窓から外へと視線を向けると、そこでは少しではあるが未だに雪が降り続けていた。
言葉通り寒いのはあまり好きではないムエットだったが、それでも息子がどれだけ成長したのかをその目で見る為に応接室を後にし、中庭へと向かう。
「グルゥ?」
中庭へとやって来たレイやアシエ、ムエットを出迎えたのは、どうしたの? と首を傾げて喉を鳴らすセトだった。
今降っている雪はそんなに勢いはないが、それでも前日から降り続けているおかげで十cm程積もっている。
そんな積もっている雪の上を、セトは転がったり、雪を踏みしめる感触を楽しんだり、雪に顔を突っ込んでみたりといった遊びをしていた。
そんなところに顔を出したのだから、セトも不思議に思って当然だろう。
「セト、少しここを使わせて貰うよ。うちのバスレロがレイ君と模擬戦をするんだ」
「グルルルゥ!」
自分も見る! とムエットの言葉に鳴き、少し離れた場所で横になる。
雪の上で堂々と寝転がっているセトだったが、グリフォンである為だろう。全く寒そうには見えない。
少し心配そうにセトへと視線を向けるムエットとアシエの二人だったが、セトが全く気にした様子がないのを見てようやく安堵したのだろう。そのまま会話をしながらバスレロが来るのを待つ。
そうして数分が経ち……やがて廊下を走ってくる足音と共に、バスレロが中庭へと姿を現す。
身につけているのは、やはりバスレロの体力のなさを考えたのだろう。金属の鎧ではなく、モンスターの革を使ったレザーアーマーだ。
重量も軽く、ある程度の防御力も備えているのがレイの目から見ても理解出来た。
「お願いします!」
長剣――ただしバスレロの身体に合わせた作りになっている――を手に、頭を下げる。
そんなバスレロに対し、レイはミスティリングから茨の槍を取り出す。
本来のレイの武器はデスサイズだが、魔力を通さなくても重量が百kgオーバーのデスサイズは、バスレロとの模擬戦では危険過ぎると判断した為だ。
勿論槍と大鎌では使い勝手は当然違う。
それでも長柄の武器ということもあり、長剣を使うよりは槍の方が慣れていた。
小雪が降る庭の中、レイとバスレロは向かい合う。
そんな二人の様子を、ムエットとアシエが、そしてセトが黙って見つめる。
『……』
お互いがお互いを待っている中で、沈黙が中庭の中に満ちた。
レイは、バスレロが攻めてくるのを待っている為。
バスレロは、レイの構えにどう攻めればいいのか分からず、迷っている為。
そんな沈黙が数分続き、やがてレイが口を開く。
「どうした? 掛かってこないのか? お前がこの一年で身につけた強さを俺に見せるんじゃないのか?」
先端の穂先から、柄の部分まで全てが深緑一色の槍を構えながら告げ、挑発する意味も込めて穂先を軽く揺らす。
レイの言葉を聞き、揺れる槍の穂先を見たバスレロは、地を蹴ってレイとの距離を詰める。
ただ、幾らセトが中庭で遊んでいて踏み固められているとしても、雪は雪。
普通に地面を蹴った時と比べると、どうしてもその速度は落ちる。
「やああああぁぁっ!」
気合いの声と共に袈裟切りに振り下ろされる長剣。
当然長剣には刃が付いており、当たれば大怪我を負うだろう。
だが、バスレロは自分の攻撃がレイに当たるとは思えなかったし、実際その通りでもあった。
……もっとも、レイが着ているドラゴンローブは、バスレロが放つ一撃がもし当たったとしてもどうにかなることはなかったが。
自分に向かって振り下ろされる長剣の軌跡を読み、そっと茨の槍を突き出す。
穂先にぶつかった長剣の刃は、最小限の力のみでその軌跡を逸らされ、レイに掠ることもせず雪の降り積もった地面へと振り下ろされる。
「え?」
「惜しかったな」
何が起きたのか分からない様子で呟くバスレロの眼前には、深緑の穂先が突きつけられていた。
長剣の切っ先を逸らした後、そのままバスレロの放った一撃の勢いを利用して槍を動かし、穂先を眼前へと突きつけたのだ。
だがその動きはあまりに滑らかな動きであり、外から見ていたムエットとアシエにも何が起きたのか理解出来ないでいた。
「……なぁ、アシエ。今何が起こったのか分かったかい?」
「いえ。レイさんの持っている槍が動いたと思ったら、いつの間にか坊ちゃんが攻撃を外していたとしか見えませんでした」
「やっぱり? この辺が異名持ちのランクB冒険者の強さってところなんだろうけど」
そんな風に会話をしているムエットとアシエの視線の先では、バスレロが再び長剣をレイへと向けて放つ。
横薙ぎに大きく振るわれた長剣は、真っ直ぐにレイの胴体をその刃で斬り裂かんとし……
「甘い」
再び振るわれた茨の槍の一撃が、長剣を弾く。
今度の一撃は、先程のように勢いを殺して攻撃をいなすのではなく、レイの力によって弾かれる。
周囲に響く甲高い金属音が、レイの振るった一撃がどれだけの威力を持っていたのかを証明していた。
バスレロの力では今の一撃を持ち堪えることが出来ず、握られていた長剣は空へと舞う。
回転しながら落ちてきた長剣は、そのまま雪へと刀身が突き刺さって動きを止める。
「甘い……とは言ったけど、今の一撃はなかなかのものだった。ただ、腕の力だけで長剣を振るっているのはちょっとした反省点だな。特に横薙ぎの一撃を繰り出す時は、腕の力の他に腰の回転を使った方がいい。そうすれば一撃の威力をより高めることが出来る」
「はい!」
「どうする? 終わるか? 手が痺れてるだろ?」
元気よく返事をしてきたバスレロに、試すように問い掛けるレイ。
だがバスレロは、そんなレイの言葉にすぐさま首を横に振る。
「いえ、まだやります!」
「そうか。ならもう少し付き合おう。武器を拾え」
「はい!」
雪に突き刺さった長剣を引き抜き、再びレイの方へと武器を構えるバスレロ。
そのまま少しずつ間合いを詰めて行き、十分に間合いが詰まったと思った瞬間、一気に残りの距離を殺す。
レイが持っているのは茨の槍。……その間合いは当然長剣以上に広く、バスレロの間合いの外から攻撃することは容易だった。
だがそれでも、レイはバスレロの攻撃を待つ。
そもそも、これはレイが勝たなければいけない戦いではなく、バスレロがこの一年でどれだけ強くなったのかを確認する為のものだ。
自分に向かって振るわれる、我武者羅な連続攻撃。
勿論レイの目から見れば荒く、次の攻撃に移るまでが辿々しく、幾らでも隙を突くことが出来る。
それでも初めて戦闘訓練をして一年でここまでの連続攻撃を出来ると考えれば、バスレロの中にある戦闘の才能は決して小さなものではない。だが……
繰り出される連続攻撃を回避しながら、不意に茨の槍の石突きで掬い上げるような一撃を放つ。
踏み出した足を石突きで掬われ、バスレロはその場で転ぶ。
雪に塗れたバスレロを見ながら、レイは茨の槍を肩に担ぎながら首を横に振る。
「確か去年も言ったよな? お前の場合は足下が疎かになりがちだって。長所を伸ばすのもいいけど、短所を直すってのも必要だぞ?」
レイの言葉に、バスレロは勢いよく立ち上がりながら口を開く。
「はい! すいません。もう一度お願いします!」
「分かった、来い」
その一言から、再び戦いが始まる。
ひたすらレイへと向かって長剣を振るうバスレロだが、その刃がレイの身体に届くことは一度もない。
全ての攻撃が回避され、茨の槍により弾かれ、逸らされる。
そのまま二十分程が経ち……やがてバスレロの息が荒くなり、それ以上動くのはもう無理だろうという程に身体の動きが鈍くなった。
「よし、この辺で終わりにするか」
「はぁ、はぁ、はぁ……はい、ありがとうございました」
息を切らせながらの挨拶に、レイもまた頷き、口を開く。
「色々と駄目な場所もあったが、いいところも十分にあった。バスレロに才能があるのは間違いない。ただ、才能があるからといって、日々の訓練を怠ればあっという間に他の奴に抜かれていく。そうなりたくなかったら、日々の訓練を欠かさずにな」
「はい! 分かりました!」
その一言で戦いが終わったと判断したのだろう。ムエットが口を開く。
「さて、そろそろ屋敷の中に入ろうか。雪が降っている中にいつまでもいると、風邪を引いてしまうからね。アシエ、温かいお茶の用意を。それと、レイ君に支払う報酬のドライフルーツも包んでくれるかな?」
「はい、すぐに」
「グルルルゥ」
「ふふっ、そうだね。セトにもドライフルーツは上げよう」
ドライフルーツという言葉に、美味しいものだと感じ取ったのだろう。自分にもちょうだい、というセトの円らな視線に、ムエットは笑みを浮かべてそう告げる。
その言葉に、嬉しそうに喉を鳴らすセト。
そんなやり取りをしながら、レイ達は屋敷の中に入っていく。
屋敷の中でお互いの近況を語り合っている間に一時間程が経ち、ムエットはそろそろ仕事に戻らなければならなくなり、バスレロも激しく動いた疲れで眠ってしまった。
その為、レイが帰ることになり、アシエに見送られながら玄関へとやって来る。
「レイさん、これをどうぞ。お約束のドライフルーツです。私が作ったもので恐縮ですが」
「いや、美味かったから、俺としては嬉しいよ」
そう告げ、受け取ったドライフルーツの入った籠を受け取り、ミスティリングへと収納する。
「じゃあ、俺はセトを呼びに……」
行くよ。そう言おうとした、丁度その時。
「ほう、女。お前なかなかいい女だな。今夜の俺の相手をさせてやるから喜べ」
そんな声が背後から……門の外に止まっている馬車から響くのだった。
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