第857話
「ふああぁ……うーん……」
欠伸をしながらベッドの上で起き上がるレイ。
周囲を見回すと、ここが夕暮れの小麦亭であるというのを思い出し、まだ少し寝ぼけた視線を窓の外へと向ける。
そこに広がっているのは、秋とは思えない程の好天だった。
空には雲一つ存在せず、まるで夏の空のような秋晴れ。
それは、まるでレイがギルムに帰ってきたのを祝福してくれているかのようにも思えた。
「……ま、結局俺の気のせいだろうけど」
小さく呟き、そこでようやく身体が目覚めたのか頭が冴えてくる。
夕暮れの小麦亭は、レイがギルムで定宿にしている宿だ。
ベスティア帝国に向かう時は、内乱でどのくらい留守にするか分からなかったので一旦部屋を引き払ったのだが、またこうしてギルムに戻ってきた為に再び部屋を借りることになった。
ギルムに戻ってきた前日は結局ミレイヌをセトから引き離すのに時間が掛かり、レイが夕暮れの小麦亭にやってきたのはそろそろ夕食の時間も終わるだろう頃。
それでも宿の女将のラナは上客であり、色々な意味で印象の強いレイのことを忘れておらず、また暫く泊まりたいと告げたレイの言葉を快諾する。
幸いだったのは、秋も深まったこの時期でも部屋がある程度空いていたことだろう。
夕暮れの小麦亭は、ギルムに幾つもある宿の中でも最高級の宿の一つだ。
当然大きな商隊や歴戦の傭兵団といった者達が泊まることも多く、特に少し前まではもうすぐ冬だということで多くの客が集まっていた。
だが今はそれも一段落しており、閑古鳥が鳴くといったところまで暇な訳ではないが、それでもある程度の部屋は空いていた。
だからこそ、飛び込みでレイがやってきてもあっさりと部屋を取ることが出来たのだ。
勿論、それはレイが以前長期間夕暮れの小麦亭に泊まっていたというのも関係しているのだろうが。
「今日は……まずはギルドだな。ガメリオンの依頼もそうだけど、レノラやケニーにも挨拶をしておきたい。それにダンジョンについても情報があればいいんだけど。……いや、ダンジョンの方が優先だな」
身支度を調えながら今日の予定を決めるレイは、そのままミスティリングからドラゴンローブを始めとした服を取り出す。
現在レイが泊まっているのは、以前レイが使っていたのと同じ部屋だ。
まだ泊まって一日というのもあるが、部屋の中に生活感のある物は存在していない。
もっとも必要な荷物は全てミスティリングに収納しているので、数日、十数日、数十日、数ヶ月と経っても多少の荷物は増えるかもしれないが、基本的には殺風景なままだろう。
身支度を済ませ、まずは朝食をと夕暮れの小麦亭の一階へと向かったのだが……
「うん?」
目にした光景に首を傾げるレイ。
食堂に入った時に見えた光景に、どこか違和感があった為だ。
そのまま暫く食堂を眺め……ようやくその違和感の正体を察する。
「人が、少ない?」
いつもであれば、料理自慢の宿だけに宿泊客以外に朝食を食べに来ている者がいる筈だった。
朝食の時間だけに溢れる程とまではいかないが、それでも座る場所を探す程度には混雑している筈。
だというのに、今レイの視線の先にあるのは七割程も席が空いている食堂の姿。
何となく嫌な予感を覚え、ミスティリングの中から懐中時計を取り出して時間を確認すると、そこに表示されている時間は、午前十時近く。
「……え?」
自分の寝過ごし具合に間抜けな声が出たのを自覚しながらも、レイは再び視線を懐中時計へと向ける。
だが、無情にもそこに表示されているのは午前十時近くという事実のみ。
「レイさん? もう朝食の時間は終わったんですけど……少し早めの昼食ですか?」
背後から聞こえてきたのは、聞き覚えのある声。
そちらに視線を向けると、そこには洗濯物を手にした宿の女将でもあるラナの姿があった。
「あ、いや……うん。そうだな、ちょっと軽いものを適当に頼む」
数枚の銅貨を渡して席へ着くと、レイは改めて食堂の中を見回す。
現在食堂に残っているのは、先程ラナが口にしたように少し早めの昼食を食べている者か、レイのように寝坊をしたものか……それでも食堂の席が三割近くも埋まっているのは、既に冬を越す準備を終えた者達が骨休めとばかりに食堂に集まっているからだろう。
「まさか、数時間単位で寝坊をするとは思わなかった」
数十分……もしくは一時間程度の寝坊なら、レイとしてもまだ理解出来る。
だが現在が十時近いとなれば、三時間から四時間近い寝坊になってしまう。
これだけの寝坊というのは、レイにとってちょっと珍しい。
(何だかんだで、ベスティア帝国に行ってる間は気を張っていたってことなんだろうな。で、ギルムに帰ってきて夕暮れの小麦亭で寝ることになって安心してぐっすりと眠ったと)
レイとしては、そんなに気を張っているつもりはなかった。別に身体に無理をさせているという自覚もなかったし、普通に過ごしているつもりだった。
……もっとも、レイがベスティア帝国で見せた暴れっぷりを普通だと言われれば、それに頷ける者はそれ程多くはないだろうが。
そのような理由で自分の故郷ともいえるギルムに戻ってきたことにより気が抜けたのだろう。
(ま、どのみち少しは身体を休めるつもりだったし、色々と他にもやるべきことがあるから、少しくらい寝坊してもいいけどな)
小さく伸びをしながら考えていると、サンドイッチの乗った皿とスープの入った皿を持ったラナがテーブルへとやってくる。
「どうぞごゆっくり」
それだけを告げ、さっさと去って行くラナ。
別にレイを嫌っている訳ではなく、宿の仕事が詰まっているのだろう。
「まずやるべきは……やっぱりギルドだろうな。それから灼熱の風との約束もあるし、ノイズから入手した魔剣も修理出来るかどうか試してみたい」
呟きながら、サンドイッチを口へと運ぶ。
料理の美味さを売りにしているだけあって、この短時間で作られたとは思えない程にサンドイッチは美味い。
特にレイが気に入ったのは、ガメリオンの肉を使ったものだった。
(やっぱりもうガメリオンの肉は出回ってるのか。……休みを今日だけにして、明日にでも向かった方がいいか?)
ガメリオンの肉をタレに付け込んで焼き上げたサンドイッチを食べながら考えているレイだったが、食堂にいる他の者達も何人かが、そんなレイの姿に気が付く。
「おい、あれ……もしかして深紅じゃないか?」
「え? いや、だってあいつは今ギルムにいない筈だろ? なら別の似た奴じゃないか? 大体、深紅の着ているローブって物凄い地味なローブだし」
「え? でも、そんな地味なローブを着ている人がこの宿屋に泊まれると思う? 相応の実力がないとこの宿に泊まるお金は出せないわよ?」
「いや、別に宿に泊まっているとは限らないだろ。ここは食事も美味いんだから、それを食いに来ているとか」
周囲から聞こえてくる声を聞きながら、このままだと色々と面倒なことになると判断したレイは、サンドイッチを味わいつつも素早く食べ終え、野菜のスープを飲み干すと食堂を出て厩舎へと向かう。
「……いや、いるとは思ったけど、予想通りだったな」
レイが厩舎に入った瞬間に目に入ってきたのは、セトへとサンドイッチを与えているミレイヌの姿だった。
それも、ミレイヌが持っているサンドイッチはどこか見覚えがある。
……当然だろう。先程までレイが食堂で食べていたのと同じものなのだから。
つまりミレイヌは、わざわざ夕暮れの小麦亭の食堂でサンドイッチを購入し、セトに与えていたのだ。
「あ、レイ。……随分と早かったわね。もう少しゆっくりと寝ていても良かったんだけど」
「もう十時過ぎなんだけどな」
不満そうに話し掛けてくるミレイヌに言葉を返しながら、レイは厩舎の中へと視線を向ける。
そこでは当然のように多くの馬が存在しているが、その半分程がどこか怖がっているように見えた。
残りの怖がっていない半分は、厳しい訓練を受けた馬だったり、ベスティア帝国へと行く前にレイが夕暮れの小麦亭を利用していた時、厩舎にいた馬だろう。
(もしかして怖がっている馬って……セトじゃなくてミレイヌに怖がっていないか?)
厩舎の中を見回しながら、ふとそんな風に考えるレイだったが、まさかそんなことはないだろうと判断し、口を開く。
「それより、スルニンから話は聞いてるか?」
「え? ああ、何かレイが私達に用事があるとか? 戒めの種を解除するとか何とか。私としては、セトちゃんと一緒にいられればそれで満足なんだけど」
「……お前も大概だな。まぁ、分かってるならいい。なら、どうする? 丁度ここで会ったことだし、今のうちに解除をしてしまうか?」
もっとも、厩舎の中で戒めの種を解除するのもどこか芸がないと思うけど、と告げるレイに、ミレイヌはじっと視線を向ける。
それはセトに向けている柔らかく慈愛に満ちている視線とは違う、鋭い視線。
「ねぇ、レイ。戒めの種を解除してくれるのは嬉しい。嬉しいんだけど、何で急に? 元々あの魔法は私達がセトちゃんの、普通のグリフォンとは違う力を見たからでしょ? なのに、何で?」
ミレイヌとしては、自分を縛っている魔法を解除して貰えるというのは嬉しい。……その副産物として炎に対する強い抵抗力がなくなってしまうのは惜しいが、それでも何かあった時に自分が死ななくてもいいというのは嬉しかった。
だが、レイがセトをどれだけ大事に思っているのかを知っており、同時にセトがどれだけレイに懐いているのかも知っている。
悔しいが……本当に心の底から悔しいが、セトの中で最も上に位置するのはレイなのだ。
そんな一人と一匹の絆を知っているだけに、何故急に戒めの種を解除するのかと疑問に思ったのだが。
「不思議か?」
「当然でしょ」
「まぁ、簡単に言えばだ。……ベスティア帝国で起きた内乱に参加してたんだけど、その時に大勢の前で思い切りセトのスキルを使ってしまってな。誤魔化しようがない程に知られてしまったんだよ」
「……あんた、一体何をやってるの? というか、何を考えてるのよ? ただでさえセトちゃんはグリフォンってことで人目を引きやすいのに。大体、何だって内乱なんかに関わってるの?」
「色々とあったんだよ、色々と」
まさかここで自分が内乱に関係することになった理由を口にする訳にもいかず、そう誤魔化す。
今回の内乱はミレアーナ王国の中立派と貴族派が協力して企んだものだ。
それだけに、外で好き勝手に喋る訳にもいかない。
「それでも、レイの力ならセトちゃんの秘密をわざわざ公表する必要はなかったでしょ?」
「……かもしれないが、もしそうなっていたら、俺は死んでたな」
レイの口から出た言葉に、ミレイヌは目を大きく見開く。
それこそ、手で持っていたサンドイッチを潰してしまいそうになる程の驚き。
「レイが死にそうになるって……何がどうなったらそんなことになるの?」
ミレイヌの知っているレイという人物は、それこそ個人で軍隊ですら圧倒出来る程の力を持っている。
そんな人物が苦戦……どころか、死にそうになるような光景は、とてもではないが想像出来なかった。
「ま、かなり強い相手と戦うことになってしまってな」
「……それこそ、レイがそこまで言う相手ってどんな相手よ?」
レイの言葉を聞き、寧ろ興味が湧いたとばかりに先を促してくるミレイヌ。
一瞬教えてもいいものかどうか迷ったレイだったが、この件に関しては別に秘密にする必要もないだろうと判断して、あっさりと口を開く。
「ベスティア帝国のランクS冒険者、不動のノイズだ」
「っ!?」
その名前は、ミレイヌにしても完全に予想外だったのだろう。大きく目を見開き、言葉の真偽を計るかのようにレイへと視線を向け、数秒が経ち、恐る恐る尋ねる。
「本当?」
「ああ。ま、結果としては……どうだろうな、セトと一緒に戦って、一応向こうが退いたという形を取ったけど、戦闘内容で考えればこっちの負けというか、見逃して貰ったって形だろうな。さすがにランクS、俺も戦いには結構自信があったんだけど、まさか……といったところだ」
「そりゃそうでしょ。ランクS? レイのランクは……確か、Bだったわよね? 寧ろ、そのランク差である程度戦えたことが驚きよ」
「ともあれ、そういう理由で内乱の最後にして最大の戦いの中でセトのスキルを大盤振る舞いしたんだよ。その後は大勢の前でスキルを使った以上はもう誤魔化せないと判断して、敵に向かって使いたい放題にスキルを使ったからな。……今のベスティア帝国ではセトがグリフォンの希少種だというのは大勢に知られてるんだよ。だから、今更お前達を戒めの種で縛っておく必要はなくなった訳だ」
「グルルゥ」
レイの説明にセトが喉を鳴らし、一瞬迷ったミレイヌだったが、やがて口を開く。
「けど、炎の耐性は惜しいんだけど。セトちゃんについて言わないのなら、寧ろ戒めの種は恩恵しかないんじゃない?」
「他の奴がセトについて話している時、お前が言えない状況になるのは色々と不自然だろ。……安心しろ、炎に対する恩恵はそのままにしてやるから」
「そんなことも出来るの?」
「ああ。ただし、戒めの種が体内にある状態で、ある程度の期間魔力と接し続けていて、親和性がなければ出来ないけどな」
レイの言葉に、ミレイヌは少し考えた後で小さく頷く。
「……分かったわ、じゃあ、お願い」
ミレイヌの言葉を聞き、レイはミスティリングから魔法発動体のデスサイズを取り出して呪文を唱える。
『炎よ、この者に埋め込まれし戒めの種を糧としてこの者の力となれ』
デスサイズの石突きに小さな炎が生み出され……レイはその炎をミレイヌへと向ける。
『静かなる炎』
魔法の発動と同時に、その小さな炎はミレイヌの身体へと吸い込まれていき……ミレイヌは自分の身体の中で何かが燃える感触をしっかりと感じ取るのだった。
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