第821話

 時は少し戻り、カバジードが自らの腹部を短剣で突き刺し、地面へと倒れ込んだ時。

 自分が死ぬと分かっているのに、不思議とカバジードは恐怖を感じていなかった。

 いや、寧ろ安堵感に包まれていたと言ってもいい。


(ああ……これで、ようやく楽になれる……本当の私は……)


 自分の身体から力が失われていくのを感じながら、カバジードはこれまでの自分の生を振り返る。

 記憶は既に朧気だが、それでもまだ微かに残っている日本の光景。

 ……そう、記憶ではなく光景。

 日本で生きたという記憶はないが、それでも毎日のように脳裏を過ぎるその光景は、カバジードに妙な郷愁を抱かせた。

 特に一番印象強く記憶に残っているのは、長野県にある高遠城址公園の桜。

 他の記憶に出てくる場所は、これが日本だという知識はあるものの、それが何という場所なのかは全く分からない。

 そんな中で、唯一強く、深い印象に残っているのが高遠城址公園の桜だった。

 もっとも、長野県というのが何なのか。そういう国の名前なのかどうかも分からなかったのだが。

 それでも高遠城址公園という場所と、そこに存在する目を奪われるような桜の花は強く、強く、どこまでも強くカバジードの中に存在していた。

 また、そんな記憶があるからこそだろう。カバジードは自分の生というものを実感出来なくなっていた。

 自分が生きているというのは理解出来るのだが、それでも何故か自分が生きているというのは理解が出来ないという状態。

 それこそ、まるで自分という存在を操り人形で操っているかのような、そんな状態。

 自分自身をまるで物語に出てくる人物のように感じていたからこそ、生を実感出来ず、死を迎え入れるのにも恐怖はない。

 いや、寧ろ今の状態を終わらせるという意味では、死を望んでいると言ってもいい。

 そんな思いがあったからこそ、自分は討伐軍を率いて前線へと出て来たのだろうというのは、カバジードも理解していた。

 帝国軍からの支持が厚く、本人もそれなり以上の力を持っているシュルスと違い、カバジードはあくまでも普通の皇族だ。

 勿論自衛のためにある程度鍛えているし、身を守る為のマジックアイテムの類も装備している。

 それでも武勇に優れた訳でもないカバジードが戦場へと出て来たのは、やはり心のどこかで死を望んでいた為なのだろう。


(死ぬなら死ぬで構わない。生きるなら生きるで構わない。そんな風に思っていたのだけど……こうして考えてみると、やっぱり死を望んでいたのかな?)


 頬に触れる、地面の冷たい感触。

 そんな冷たい感触を味わいつつも、カバジードの気持ちは不思議な程に澄んでいた。

 今まで感じていたのが何なのかと思いたくなるくらいに心は澄み、軽い。

 まるで、天に浮き上がるかのような……そんな思いを抱きつつ、カバジードの意識は次第に消えていく。


(眠い……そう、まるで意識がそのまま消えていく程の眠気。これ程までに眠気を感じたのは、この世界に生まれてから初めてじゃないかな?)


 既に半ば閉じられている視線の先では、魔法使いが必死になって自分に回復魔法を使っているのが分かる。

 だが、それも無駄だろう。

 自分の腹に刺さったのは、錬金術師の中でもマジックアイテムを作ることに優れた才能を持つ者へ、特別に作らせた品。

 カバジードが第1皇子としての手を尽くして入手した、非常に稀少なモンスターの素材を使って作った代物だ。

 大抵の毒消しの効果を無効化する程に強力な毒と、回復魔法を阻害する効果を込めた短剣。

 自分が死ぬ、いざという時の為に数年前に作らせたマジックアイテムだったのだが……


(ああ、これは……思ったよりも怖くないね。寧ろ、安らぎすら感じられる。彼は……やっぱり腕が良かったのかな。長年マジックアイテムを作ってきたというだけあって……その腕は……あの世に行ったら、褒めてあげよう。そうすれば、老衰で死ぬのではなかった、と怒る? 悲しむ? まぁ、それを見て酒の一杯でも……)


 死がそこまで近づいてきているのだろう。次第に思考が鈍り、考えが纏まらなくなっていく。

 いよいよ自分は死ぬのだ。そんな風に思っているカバジードの視線の先では、シュルスが何か叫んでいるように思えた。

 そして、第1皇子派と呼ばれた他の貴族や、少し前まで敵対していたヴィヘラも同様に悲しげな視線を自分に向けているのが分かる。


(何だ……結構私は……幸せだったんだ……ね……)


 殆ど動かせない身体だったが、カバジードの唇の端が微かに弧を描き……そうして、意識が闇へと消え去るのだった。






 暗闇の中、部屋の中には幾つもの明かりが存在して、周囲を照らす。

 だが、その暗闇を照らしているのは蝋燭ではない。ただ、純粋にそこには光があった。

 光の数は、十には満たない程度。

 そして、不意にその中の光の一つが消える。


「……おや、また一人逝ったか。三十年に満たないというのは、こちらとしても完全に予想外だな」


 暗闇の中で、微かに存在する明かりで本を読んでいた誰かが呟く。

 その視線が向けられているのは、つい数秒前までは明かりが灯っていた場所。

 自分の研究の成果を試す存在ではあったが、予想外に早くその光は消えてしまった。


「残っていた光の中でも、最上級の質だったんだけどね。質を上げると、それに比例して終わりまでの時間も短くなる? ……それはそれで興味深いけど、さて、どうなんだろう」


 少し考え、何かを思いついたのか近くの紙に暗号のような文字を書き記す。


「うん、この計算式の頭の部分の変数を、こちらの定数を用いて魔法構成式を分散させれば……なるほど、これは中々に使えそうだ」


 微かな明かりが周囲を照らす中……その人物は、ただひたすらに紙へと今思いついた内容を書き記していく。

 周囲には誰もおらず、自分だけがいるそんな時間。その人物は自らの知識欲と好奇心を満足させるべく、自らの世界へと没頭するのだった。






 ベスティア帝国で行われた内乱。その勝者となったメルクリオ軍の本陣で、レイは討伐軍側の本陣で起きた出来事を話していた。


「そう、か。カバジード兄上が自分の命で……」


 話を聞き終わり、メルクリオが呟く。

 その言葉には普段の軽さはなく、悲しみが満ちていた。

 自分の命を狙われ、つい先程まで敵対していた相手だが、それでもカバジードが死んだと聞かされれば悲しみを覚える。

 数回ではあるが小さい頃に遊んで貰った記憶を思い出し、冥福の意味を込めて目を閉じる。

 メルクリオの周囲でも皆が悲しげな表情を浮かべていたが、その中でも最も悲しみを露わにしていたのは、フリツィオーネだった。

 元々フリツィオーネがメルクリオ軍に合流したのは、血縁同士で争うのを止めたかったから。

 それが無理でも、被害を少しでも小さく収める為。

 だというのに、カバジードが……自分のたった一人の兄が死ぬという、予想していた中でも出来れば避けたかった結末を迎えたのだ。


「そんな……カバジード兄上……何も、死ななくても。何で、そんな……」


 それ以上は言葉にならず、フリツィオーネの表情は悲しみに染まる。

 それでも涙を流さないのは、ベスティア帝国の皇女として、人前で涙を見せる訳にはいかないと思っているからなのだろう。

 泣くのは、一人になってから……全てが終わってから、と。


「メルクリオ、もう討伐軍は降伏を認めたわ。戦闘の中止を」

「……そうだね。これ以上の戦闘は意味がない。文字通りの意味で無駄死にになってしまう。テオレーム」

「はっ! すぐに伝令を出して戦闘を止めるように指示を出します」


 呼びかけだけでメルクリオの言いたいことを理解したテオレームは、すぐに部下へと指示を出して各戦線へと伝令を走らせる。

 もっとも、中央戦線は既にヴィヘラによってほぼ壊滅状態に近くなっているし、右翼はセトの攻撃によってシュルス直属の騎兵隊は大きな被害を受け、一旦後退して態勢を立て直そうとしている。

 左翼にいたっては、最高指揮官であるペルフィールがレイの手で捕らえられ、指揮系統が破壊され、魔獣兵が相手ということもあって討伐軍側は何とか守りを固めている状況だ。

 既にどの戦線もまともな戦いは起こっていない。

 討伐軍の後陣部隊は本陣から近いという関係で、真っ先に戦闘停止命令が届けられ、ようやく混乱から収まりつつあった。


「……それで、レイはこれからどうするのかな?」

「どうする? いや、特に何かやることはないけど」


 正確に言えば、カバジードのことをもう少しゆっくり考えたいというのが、レイの正直な気持ちだった。

 もっとも、カバジードについて知る手掛かりの類もない以上、あくまで推論に推論を重ねたものなのだが。


「そうか。では、一度護衛をお願い出来ないかな? シュルス兄上達が降伏したとしても、しっかりと今後のことを話し合う必要がある。あちらに姉上がいるとしても、この手の作業は苦手だし……それに」


 メルクリオは、チラリと悲しみに満ちた表情のフリツィオーネへと視線を向ける。

 ヴィヘラ程に慕っている訳ではないが、それでも血を分けた姉だ。

 自分を嵌めたことで色々と思うところはあるが、それでも兄との別れはさせてやるべきだろうという判断。

 それを分かっていながらも、レイは首を傾げる。


「別に、わざわざ戦場を通ってこっちから行く必要はないじゃないか? こっちが勝ったんだし、向こうを呼び寄せればいいと思うんだけど?」

「そうだね。最初はそれでもいいかと思ったんだけど、向こうは地位の高い貴族が多い。こっちに来るには、どうしても時間が掛かるんだよ。それならこっちから行った方が早いし、何より戦場の中を進むだけの勇気と力があると、他の人達に見せつける必要があるんだ」


 そう告げるメルクリオに、近くで部下に指示を出しながら話を聞いていたテオレームは何かを言おうとして、やがて諦める。

 危険なのは事実だが、レイとセトという存在がいれば、それこそノイズが襲ってくるのでもない限りはどうとでもなると判断した為だ。


「そう、だな……」


 少し考え、既に実質的に内乱が終わった以上は特に急いでやるべきこともないだろうと判断したレイは、頷く。

 もっとも、その中にはここでメルクリオが死んでしまえば、内乱終了後の報酬を貰えないか、貰えたとしてもランクが低くなるかもしれないという思いもあるが。


(ここまで活躍したんだし、当然期待してもいいんだよな)


 そんな風に思いながら、メルクリオに向かって頷く。


「分かった、すぐに行くのか?」

「さすがにそれは出来ないよ。色々と指示を出さなきゃいけないこともあるし。……そうだね、三十分くらいしたら、また来てくれるかな?」

「分かった、三十分だな」


 こうして話が決まり、レイがその場から立ち去ろうとしたところで……


「レイ」


 不意に後ろから声を掛けられる。

 声のしてきた方へと視線を向けると、そこにいたのはテオレームだった。

 それこそ、この忙しい時に何を? そう思いながらも、レイは口を開く。


「どうしたんだ?」

「……お前が来る少し前に、ロドスが運ばれてきた」

「そう、か」


 レイの脳裏に、以前フリツィオーネ率いる部隊の護衛をしている時に戦ったロドスの姿が過ぎる。

 感情を表に出すことなく、己の意思すら存在しないかのようなロドスの姿。

 そんなロドスが誰に倒されたのか。それが気になり、口を開く。


「それで、ロドスは誰に倒されたんだ? 強さ自体もそうだけど、あの再生……いや、復元能力ともいえる力は厄介極まりなかった筈だけど。無難に考えると、ヴィヘラか?」


 浸魔掌という攻撃手段は、外部からではなく内部に対して衝撃を与える。

 そうであれば、普通に攻撃するよりもロドスに対してダメージを与えやすいのではないか。

 そんな思いで尋ねたレイの言葉に、テオレームは微妙な表情を浮かべて首を横に振る。


「確かにロドスを連れて来たのはヴィヘラ様の指示だが、特に戦った訳ではないらしい。なんでも、フラフラと姿を現して、ヴィヘラ様の姿を見た瞬間に意識を失ったとか。こちらに対して、特に被害らしい被害はなかったのは僥倖だった」

「……なるほど」


 呟いたレイの脳裏を過ぎったのは、以前の戦いで見た、異常な程のロドスの回復能力。

 あれだけのマジックアイテムを使っているのだから、確かに何らかの異常が起きてもおかしくないと。

 自らの意思が表れず、半ば洗脳状態に近かったが、それ以外にも副作用があったのだろうと。


「分かった、ちょっと様子を見てくる。教えてくれて助かったよ」

「ああ」


 短く言葉を交わし、テオレームは再び戦いに勝ったことにより味方へと指示を出す作業に戻っていく。

 他の貴族やメルクリオ達と話し合っているのを横目に、レイはその場を去るのだった。

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