第820話

 今、何が起こった?

 それが、レイが今の光景を見て感じたことだった。

 いや、何が起きたのかは分かっている。

 カバジードが、この内乱の責任を自らの命で取ったのだと。

 だが……


(今、カバジードは何て言った?)


 地面に倒れ込んだカバジードの姿を……より正確にはその口から漏れた言葉を聞き、レイは内心で呆然と呟く。

 カバジードの下へと駆け寄る周囲の者達を見ながら、レイは動く事が出来なかった。

 見るからに毒々しい紫色をした短剣の切っ先を自分の腹へと突き刺した時にカバジードが口にした、高遠城址公園という言葉。

 その言葉を、レイは知っていた。

 ただし、この世界で知った言葉ではなく、レイがまだ日本にいた時にTVで見たものだ。

 日本でも有数の桜を有する場所として。

 あまりにも……あまりにも綺麗な桜だっただけに、その桜と長野県にある高遠城址公園という場所の名前はレイの中に強く印象づけられていた。

 そして、この世界に桜は存在しない。

 いや、あるのかもしれないが、少なくてもレイは二年近くをこのエルジィンで暮らしてきたが、桜を見たことはない。

 つまり……


「カバジード殿下! 何故こんな真似を! ええいっ、回復魔法を使える者はいないのか!」

「違う! 確かに怪我も酷いが、この症状は怪我ではなく、毒だ! この短剣は強力な毒が仕込まれているんだ!」

「毒だと!? なら待ってくれ、俺は解毒用のポーションを持っている! これを」

「助かる! ……駄目だ、効果がない! 解毒のポーションでもどうにも出来ないレベルの強力な毒だ!」

「くそっ、回復魔法の使い手は!」

「すぐに……来ました!」

「来たか! カバジード殿下の治療を頼む!」


 急いでカバジードのいる方へと走ってきた三十代程の男は、普段は温和な人物として有名だった。

 だが、今はその温和な顔を厳しく引き締め、地面に倒れ込んでいるカバジードへと向かって手を触れ、呪文を唱える。


『光よ、この者の傷を癒やし、大いなる慈悲を与えたまえ』


 その男の杖から生み出された、白い光がカバジードの傷口へと触れる。


『光の癒やし』


 呪文の完成と共に発動する魔法。

 だが……


「そんな……こんなことが……」


 既に意識を失っているカバジードの腹部の傷は、確かに回復魔法で回復した。

 だが、次の瞬間には再び全く同じ傷が生み出される。

 まるで、怪我をした時に時間を巻き戻すかのように。


「これは、一体どうなっている!?」


 その様子を見ていた貴族が、回復魔法を使った男へと掴み掛かる。

 一瞬ではあっても回復したのが、それがなかったかのように元の状態に戻るのを見ただけに、余計混乱したのだろう。

 だが回復魔法を使った男の方も、何故こんな状況になっているのかは全く理解出来ない。

 討伐軍の本陣に詰めているだけあって、この魔法使いの技量は一流と言ってもいい。

 それこそ、手足が切断されたくらいなら、切断されてすぐという条件はあれども元通りに繋げることは可能だし、稀少な素材を使用してもいいのであれば、失われた手足を新たに生やすことすら可能とする。

 間違いなくこのベスティア帝国の中でも五本の指に入る回復魔法の使い手でもあった。

 そんな自分が、腹部を刺した傷程度を治せないというのは有り得ない。

 そう考え、ではこの現状の理由は……と視線を向けるのは、地面に落ちている紫色の刀身を持つ短剣。

 自分の技量に問題がない以上、これしか考えられなかった。


「この短剣は毒以外にも何らかの効果……恐らく、治療を阻害するような効果があると思われます」


 そう呟いた瞬間、周囲がざわめく。

 傷を癒やすのを阻害する効果が事実だとすれば、今の状況ではどうしようもない。

 きちんとした設備や回復用の稀少なマジックアイテムの類があればどうにか出来たかもしれないのだろうが、ここは戦場であり、研究所でも治療所でもない。

 そうである以上、どうすることも出来なかった。

 更に、カバジードの身体を侵してる毒は強力極まりない毒であり……


「駄目です」


 回復魔法を使って何とか延命しようとしていた男が、黙って首を横に振る。

 その仕草が何を意味するのかは、この場にいる者であれば誰にでも分かった。

 即ち……帝国の第1皇子、カバジードの命の炎が消えたのだと。


「そんな……カバジード兄上、何だってこんな真似を!」


 叫び、拳を地面に叩きつけるシュルス。

 シュルスは、カバジードという存在に得体の知れなさを感じていた。

 だがそれでも血を分けた兄弟だったのは事実であり、曲がりなりにも討伐軍として共にここまでやって来たのだ。

 そんな人物があっさりと自分の命を投げ出したことに強い衝撃を受け、シュルス自身でも意外だったことに、その目からは涙が零れ落ちる。


「カバジード兄上……」


 それはシュルスだけではなく、ヴィヘラもまた同様だ。

 ただ、これだけの内乱を引き起こし、しかもそれに負けてしまった以上はカバジードの命はなくなっていた可能性が高いという認識の為か、それともカバジードから感じていた得体の知れなさがシュルスよりも強かった為か、ヴィヘラはそこまで深い悲しみを覚えてはいなかった。

 それでも血が繋がっている人物なのは事実であり、小さく首を振る。


「ヴィヘラ様、とにかくこの戦闘でカバジード殿下が自らの命で敗北の責任を取ったと……内乱は私達の勝利だということを宣言しなければ、戦いは終わりません」

「……そうね。残念だけど、これが戦いである以上はしょうがないわ。シュルス兄上」


 ヴィヘラの呼びかけに、地面に踞っていたシュルスが立ち上がる。

 その視線は、最後にカバジードの遺体を一瞥した後は近くにいる貴族達へと向けられる。


「戦いは終わりだ。こちらの敗北を各戦線に知らせ、まだ戦っている者達は戦闘を止めるように命じろ。それと、メルクリオに降伏を申し出るから、その準備を」

『はっ!』


 シュルスの言葉に、数人の貴族が素早く返事をして行動へと移す。

 第1皇子派の貴族は、まだ自分達の主君であるカバジードが死んだのを信じられずに呆然としている者もいるが、殆どの貴族は既にシュルスの命に従い行動を起こしている。

 元々第1皇子派は優秀な貴族が集まっている。それだけに、一度行動を起こすとその動きは素早い。

 討伐軍側でそんなやり取りが行われているのと同時に、メルクリオ軍側でも動き出す。

 ヴィヘラがティユールに命じ、討伐軍が降伏したのを知らせて戦闘を収めるようにと各戦線へと伝令を送る。

 そして……


「レイ、ちょっといいかしら?」


 未だ呆然としていたレイは、ヴィヘラの声で我に返って頷く。


「ああ、何だ?」

「本陣に、私達の勝利だと伝令をお願い出来る? 一応私も戦闘を止めるように伝令を送っているけど、本陣からも正式な停戦命令を出して貰う必要があるわ。それに、ここからだと私が本陣側の方に伝令を出すよりも本陣の方から伝令を出して貰った方が早い場所もあるし」

「……なるほど、分かった。ならすぐに向こうに行ってくる」

「ええ、お願い。……レイ、何かあった?」


 短い言葉のやり取りをしている間にも、レイの様子が微妙におかしいのを理解したのだろう。ヴィヘラが心配そうに尋ねるが、レイは首を横に振って何でもないと態度で示す。


「停戦の伝令を出すのなら、なるべく早い方がいいだろ。じゃあ、悪いけど先に行くぞ」


 それだけを告げ、レイはヴィヘラの返事を聞かずにセトの背へと跨がって、空へと飛び立つ。

 今は、とにかく色々と考えたい。そんな思いがあったレイは、ヴィヘラには悪いと思いつつも空を飛ぶ。


「グルルルゥ?」


 心配そうに後ろに顔を向けてくるセトに、レイは首筋を撫でてやる。


「何でもないから、気にするな。今はそれより、本陣に向かってくれ」

「グルルルルルゥッ!」


 レイの言葉に周囲に聞こえるように高く鳴きながら、セトは空中を進む。

 それを見た、まだ地上で戦っていた者達は一瞬動きを止め、一時的にしろ戦闘が止まったのは余談だろう。


(カバジードが言っていたのは、明らかに日本の桜の名所だ。つまり、カバジードは元日本人? 少なくても、何らかの関係があるのは事実。ゼパイル一門の数術士だったタクム・スズノセと同じく、何らかの理由でこのエルジィンに転移してきた? ……いや、違うな)


 まず最初に浮かんだ考えを、問答無用で却下するレイ。

 カバジードの容姿は、皇族というのに相応しいほどに顔立ちが整っていた。

 少なくても、とても日本人らしい容姿ではない。

 何より、カバジードはベスティア帝国の皇子。つまり、皇帝トラジストの息子なのだ。

 そうである以上、タクム・スズノセと同じ形ではないのは明らかだった。


(なら、俺と同じく? けど、誰に? 俺の場合はゼパイルが魔獣術の為に死にそうになった……いや、死んだ俺の魂を捕まえた)


 そこまで考え、ふと最近魔石をセトに食べさせていないことを思い出す。

 より正確には、新しいスキルを習得出来る未知のモンスターの魔石をだ。


(いや、そうじゃない。今はそれじゃなくてカバジードのことだ。日本から魂だけでこのエルジィンに渡ってきて、カバジードの身体に憑依した。俺がこの肉体に憑依したのと同じ過程を経たとなれば、それで間違いないんだろうが……けど、じゃあ何だって死を望む? 俺と同じくこの世界にやって来たのなら、最低限向こうの世界で一度は死んでる筈。それで、生きたいと望むならともかく……)


 レイが悩んでいる間にもセトは翼を羽ばたかせて空を飛ぶ。

 元々グリフォンであるセトの移動速度はワイバーンをも上回る。討伐軍の本陣がある場所からメルクリオ軍の本陣がある場所までは、そう時間を掛けることなく到着した。


「グルゥ?」


 セトの鳴き声に我に返ったレイは、慌てて地上へと目を向ける。

 そこでは、メルクリオ軍の本陣から何人もの兵士達が上空を見ているのが確認出来た。


「下りてくれ、セト」

「グルルルルゥッ!」


 レイの言葉にセトは短く鳴き、翼を羽ばたかせて地上へと向かって下りて行く。

 そんなセトの姿に地上の兵士達は一瞬緊張するが、すぐに気を抜く。

 空を飛んでいるのがセトだと知ってはいても、どうしてもグリフォンを見れば緊張するのだ。

 ……それがきちんとセトだと確認出来れば、可愛がる者も当然多いのだが。


「レイ隊長、お疲れ様です」

「ああ、至急報告があるから、テオレームやメルクリオ達に話を通してくれ」

「はっ!」


 兵士の一人が去って行くのを見て、レイはセトの背を軽く叩く。

 それだけで、レイが何を言いたいのかが分かったのだろう。セトは周囲の邪魔にならない場所に移動して、寝転がる。

 喉を鳴らしながら目を瞑るセトに、周囲にいる兵士の数人が目尻を下げて見入っていた。

 そんないつもの光景を眺め、レイは先程まで考えていた事を思い出す。


(カバジードが死を望んだ理由。考えつくのは……日本での生活とは比べものにならない程不便なこの世界に適応出来なかった? いや、確かに一般人に生まれたならそれも分からないではないけど、カバジードはベスティア帝国の皇族だ。マジックアイテムとかを使えば、日本と大して変わらないだけの生活が……場合によっては、それ以上の生活が出来ていた筈)


 レイのように後ろ盾がない状態でエルジィンに生まれ落ちたのではないのだから、生活上の不便というものは殆どなかったのは間違いない。


(もっとも、日本出身ってことは皇族としての窮屈な生活に……もしかして、これか?)


 レイにしても、日本では普通の一般人として暮らしていた以上、生活の全てを管理された状態で暮らしたいかと言われれば、遠慮したいと答えるだろう。

 好きな時に食べ、好きな時に依頼をこなし、好きな時に眠る。

 そんな冒険者としての生活が、既にレイの中には染みついているのだから。


(ただ、それでも自分から死を望む程にまでなるか? 少し弱い気がするな)


 地面をみながら、納得しつつも微妙に納得出来ないという奇妙な思いに囚われていたレイだったが、不意に視線を上げる。

 そこでは、先程の兵士が近づいてくる様子が見えた。


「レイ殿、メルクリオ殿下がお会いになるそうです。どうぞ」

「分かった」


 短く言葉を交わし、レイはテントへと向かう。

 そこには、このメルクリオ軍の象徴でもあるメルクリオ、実質的にメルクリオ軍を動かしているテオレーム、その副官でもあるシアンスといったお馴染みの面々の他に、何人かの貴族の姿もあった。

 メルクリオ軍に所属している貴族の姿が少ないのは、実際に戦場に出ている者も多い為だろう。


「それで、レイ。話は何だ? 重要な戦力であるお前がわざわざ来たのだから、何らかの理由があるんだろう?」


 テオレームの言葉に頷き、レイは口を開く。


「討伐軍側が全面降伏をしてきた。また、第1皇子のカバジードは自らの命を以てこの責任を取るとして、自害。治療しようとしたけど……」


 黙って首を横に振るレイの姿を見れば、それが無駄だったことを意味していた。

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