第669話
闘技場の控え室でレイとノイズが話していた頃、帝都の中を馬に乗って走っている集団がいた。
その先頭にいるのは、向こう側が透けるような薄衣を身に纏っている美貌の女、ヴィヘラ。
ヴィヘラの後にはティユール、テオレーム、シアンス、キューケン、その他の騎士達といった具合に続く。
そんな集団の真ん中で守られるようにしているのが、メルクリオ。
一見すると大人しい性格に見えるメルクリオだが、それでも皇族だけあって馬に乗るのは苦手ではない。
いや、外見とは裏腹に馬に乗るのや武芸の類も決して苦手ではなかった。
それは、同じ母親から生まれたヴィヘラを見れば明らかだろう。
総勢三十騎近い騎兵の集団は、真っ直ぐに正門へと向かって帝都を爆走していた。
城へと向かう時は歩きだった一行が、どうやって馬を手に入れたのか。その答えは至極単純なもので、城にある厩舎から勝手に持ち出したのだ。
その際に自分達が乗り切れなかった馬は厩舎から追い出し、少しでも追撃を遅らせるような小細工もしている。
……もっとも、城にある厩舎は一つや二つではない。ヴィヘラ達のことが知られれば、すぐに追撃部隊が他の厩舎へと馬をとりに行くだろう。
また、厩舎から解放した馬にしても別に殺した訳ではない。時間があればすぐに捕らえられ、追撃に加わる筈だ。
だからこそ、ヴィヘラを先頭にした一団は帝都の中を真っ直ぐに突き進む。
幸いだったのは、まだ闘技場から観客達が戻ってきていないことだろう。おかげで道にいる住人の数はそれ程多くなく、ヴィヘラ達が物凄い勢いで馬を走らせているのを見れば、すぐに邪魔にならないように――あるいは轢かれないように――道の端へと退避することが出来るのだから。
「やっぱりメルクリオを助け出すのを決勝の日にしておいて良かったわね。もしこれが普通の日なら、住人を跳ね飛ばしながら進むことになっていたし」
慌てて道を空ける住人達を見ながらヴィヘラが呟くが、その声が聞こえてきたメルクリオは思わず溜息を吐く。
「もしそんなことになっていたとしたら、恐らく私達はこれからのことで民の支持を受けるのは無理ですよ」
小さく呟いただけに、馬で走っている状態ではその言葉は誰に聞かれるでもなく空中へと消える。
実際、もしも何の罪もない民衆を跳ね飛ばしていたりすれば、今回の件を仕組んだと思われる第1皇子派が嬉々としてそれを喧伝し、メルクリオの評判を落とそうとするというのは容易に予想出来た。
(いや、恐らく実際に怪我人が出ていなくても、いたということにするでしょうね。向こうにしてみれば、私の評判は低ければ低い程いいのだし)
久しぶりに感じる風を切りながら走るという体験に気持ちよさそうに目を細めつつも、内心での考えは止めない。
そうしながらも、内心の考えを止めないのはメルクリオの癖のようなものだろう。
だが外から見ればそんなメルクリオの姿は物憂げに微笑んでいるようにしか見えない。
事実、キューケンはそんなメルクリオの姿に見惚れていた。
……ちなみに、何故キューケンがこの一行に加わっているのかと言えば、テオレーム達と共に行動しているのを多くの者に見られている為だ。
メルクリオを軟禁していた部屋を守っていた騎士達だけではなく、城の中でテオレーム達を案内している姿も他のメイドを含めて多くの者に見られている。
そんな状態で城に残ったままでいれば、間違いなく今回の件を企んだ第1皇子派に捕らえられ、情報を引き出されることが目に見えていた。
キューケンの他にもメイドや下働き、あるいは兵士として城に忍び込んでいるのだから、これ以上城にいても百害あって一利なしとばかりに、共に脱出することになったのだ。
帝都の中を堂々と走るそんな一団を住人達は呆気にとられて見送る。
「……なぁ、あの先頭にいたの、ヴィヘラ殿下じゃなかったか?」
「俺もそう見えたけど……けど、出奔したって噂じゃなかったっけ?」
「お前、情報遅いな。何でも今回の闘技大会に合わせて、婿を連れて戻ってきたらしいぞ? その証拠に、ちょっと前に城の方に向かって行くヴィヘラ殿下を見たって話もあるし」
「……婿? それはともかく、じゃあ何だってあんな風に街中を走ってるんだよ」
「それは……あの集団の中に婿がいたから?」
「見た感じ、貴族っぽい人とかはいたように見えたけど、ヴィヘラ殿下が貴族を婿に選ぶかしら?」
「あー……俺知ってる。あの貴族っぽい人って確かヴィヘラ殿下に心底惚れ込んでるって人だよ。俺の親戚が帝国軍の兵士なんだけど、その辺を聞いたことがある」
「……本当か? あのヴィヘラ様がなぁ……でも、何だってあんな風に街中を暴走してるんだ?」
「さぁ? それこそ趣味か何かだったりするんじゃないのか?」
そんな風に、ヴィヘラ本人が聞けば色々な意味で笑みを浮かべたまま近づいてきそうな噂話が広まっていたのだが、本人がそれを知ることはない。
……もっとも、後日この噂話を聞いてレイに誤解されたらどうしようと乙女の如く悩むヴィヘラが数人の……メルクリオ、ティユール、テオレームといった者達の間で見られることになるのだが。
ともあれ、街中を全力で走っている馬は見る間に正門へと近づいて行く。
普段であれば正門には警備兵がいて、このような場合は当然門を閉めるだろう。だが、今ヴィヘラ達が向かっている先では門が閉まる様子は一向にない。
それどころか、門の側で馬に乗っている数人の騎士が早く来いと大きく手を振っている様子すら見える。
「どうやら予定通りに門を制圧してくれたみたいね」
満足げに笑みを浮かべるヴィヘラ。
そう、今回の件で城からメルクリオを救出したとして、逃げる時には必ず帝都の防壁に存在しているどこかの門を通らなければならない。だからこそ、前もってテオレームの部下の中でも腕利きの者を集め、時間を合わせて正門を制圧するように計画していたのだ。
……もっとも、一番警備が厳重な正門を選ぶ辺りは完全にヴィヘラの独断というか、趣味に近いものがあったが。
最初テオレームはもっと警備の薄い門から逃げた方がいいのではないかと提案したのだが、普通であれば正門をこのような手段で突破する者はいない。つまりそれだけ相手の意表を突けるという言葉や、当然正門へと続く道は大きく、この集団が馬に騎乗して全速力で駆けたとしても人を跳ねる心配は小さいという意見に、テオレームは頷くしかなかった。
また、ヴィヘラの呼びかけに集まった戦力や、第3皇子派の戦力が待機している場所へと向かうにも都合がいいというのもあっただろう。
そのまま突き進み、待ち受けていた騎士達と合流し、あっさりと帝都を脱出する上で最大の難関だと思われていた正門を突破する。
「ありがとう、助かったわ」
合流してきた騎士に告げるヴィヘラに、その言葉を受けた騎士達は小さく頷き、視線を集団の真ん中、テオレームの近くにいるメルクリオへと移す。
「殿下、ご無事で何よりです」
「ああ。苦労を掛けたね」
短い言葉のやり取り。だがそれだけで言葉を掛けた騎士達は満足し、気力が充実し、身体の奥底から力が漲ってくる気がした。
メルクリオを自分達の主君と認識している第3皇子派だからこその行動だろう。
そんな騎士達の様子を、若干不満そうな視線で見ているのはティユール。
ヴィヘラに声を掛けて貰ったというのに、それに対する態度が納得いかなかった為だ。
この辺はメルクリオに仕えている第3皇子派と、ヴィヘラに心酔しているティユールの違いといったところか。
「メルクリオ殿下、このまま道を進めば私達に協力してくれる者達との合流が出来ます」
テオレームの言葉にメルクリオは頷き、口を開く。
「それで、当座の本拠地はどこにするのかな? まさかずっと野営という訳にもいかないだろう?」
「ええ。ヴィヘラ様の呼びかけに答えてくれたオブリシン伯爵の領地に向かう予定となっています」
「オブリシン伯爵か。確か彼の領地はここから……ああ、なるほど。確かにそれはいいかもしれないね」
最後まで言わず、納得するメルクリオ。
オブリシン伯爵というのは、武辺者として有名な人物だ。
自らの強さに自信があり、自分の武力に高い自負心を持っている。
それだけに、自分と交流する者にもそれを求めるという厄介さを持つ。
そんなオブリシン伯爵は、ヴィヘラが国を出奔する前から交流があった。
お互いに強さを求める者だけに、気が合ったのは当然なのだろう。
そして何よりも大きかったのは、ヴィヘラとオブリシン伯爵が立ち合いを行い、ヴィヘラが勝者となったことだ。
そのことにより、オブリシン伯爵は第2皇女派に所属していた。
……もっとも、結局ヴィヘラが帝国を出奔して第2皇女派は解散となったのだが。
ティユールが第2皇女派の文を司るのであれば、オブリシン伯爵は第2皇女派の武を司ると言ってもいい。
ただし完全に個としての武に特化しており、部隊を指揮するのは苦手な人物だった。
自分から突っ込んで行き、その武勇を持って自らが率いる兵を鼓舞する。そんな戦い方しか出来ない男。
それでも個人としての武力は高く、ヴィヘラが出奔して以降は何人もの貴族から自分の派閥に入らないかと誘われたこともあるのだが、その全てを断っている。
自分を引き入れたいのであれば相応の実力を示せ、と。
この辺、自分より強い男にしか身体を許さないとしていたヴィヘラと似たもの同士と言える。
「オブリシン伯爵は相変わらずかな?」
脳裏を過ぎった、厳めしい髭面の顔を思い出しつつ尋ねるメルクリオに、テオレームは苦笑を浮かべて頷く。
「はい。色々と癖の強い方ではありますが、それでもヴィヘラ様が要請したらすぐに駆け付けて下さいました」
「……一応最も速くヴィヘラ様に応じたのは僕だというのは忘れないようにして欲しいね」
自分を忘れるなとばかりに告げてくるティユールに、メルクリオは当然と頷く。
「勿論分かっているよ。君がいるから姉上がここまで素早く軍を集められたというのもね」
煽てるかのような言葉だが、実際にティユールの交渉能力により集められた貴族の数も多く、決してただの煽てという訳ではない。
メルクリオが偽りなくそのように思っていると理解したのだろう。ティユールもまた、それ以上は口に出さずに満足げに頷く。
「オブリシン伯爵って……あの?」
そんな一行の後ろの方で、キューケンが隣を走っている第3皇子派の同僚へと尋ねる。
伝令や諜報員的な役割をこなしているキューケンだが、オブリシン伯爵の実物を見たことはなかった。
もっとも噂に関してはそれなりに聞いているらしく、微妙に頬が引き攣っている。
「ああ。ヴィヘラ様とは親しい関係で、武人らしく戦力も十分持っている。……まぁ、本人がどちらかと言えば個としての武人であって、部隊を率いたりは出来ないから、集まっているのもそれに準じているんだけどな」
「……普通、そういう場合って兵を率いるのが得意な副官とかを用意するんじゃないの?」
キューケンが抱いたのは当然の疑問ではあったが、それはあくまでも普通の軍人、あるいは貴族ならではだ。
同僚の騎士――今は鎧の類も身につけていないが――は、そんなキューケンの言葉に苦笑を浮かべて口を開く。
「何でか分からないが、オブリシン伯爵の下にはその類の人材が集まらないらしい。まぁ、オブリシン伯爵の性格を思えば、似た者が集まるといった感じなんだろうな」
「似た者、ねぇ。色んな意味で怖いわ」
筋骨隆々の大男が集団で真っ直ぐ向かってくる光景を想像し、キューケンは思わずといった様子で眉を顰める。
しかも普通の軍隊と違い統一されている訳ではなく、あくまで個々人。
部隊の連携といったものは取れていないが、その代わりに普通なら部隊が撤退するような被害を受けても自分の戦闘に影響がなければ戦い続ける。
敵として戦った場合は本来出ない筈の被害を受けることになり、味方として戦った場合には制御下に置くのは難しい。
確かに個々人の武力は高いのかもしれないが、制御出来ないのでは味方にとっても害しかないのでは。キューケンはそんな風に考えるのだが、隣を進む騎士は違っていたらしい。
「ま、どんな戦力も使い方次第って訳だな。実際、ヴィヘラ様の有力な味方としてオブリシン伯爵の名前が挙がっているのを考えれば、その辺は大体予想出来るだろ?」
「……まぁ、確かにそうなんでしょうけど」
思わず自分がその部隊を指揮することになったらどうなるか。そんな風に考えた瞬間、キューケンの脳裏を過ぎったのは自分の命令を聞かないで敵に突っ込んで行く部隊を右往左往しながら見送っている自分の姿だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます