第563話
セトが倒した巨大猪の肉を村人全員で食べる夕食会。小麦の刈り入れも順調であり、夕暮れの中で村人全員が猪料理に舌鼓を打っている時にその声は村の広場へと響いた。
初めて聞く声に、村人達が思わず声のした方へと視線を向け……全員がその動きを止める。
そこにいたのが、生まれて初めて見る程に美しい女だったからだ。
ローブを被っているが、その赤紫色の波打った髪が零れ落ちる様子や気の強さを現すような鋭い視線。だが、同時に口元には柔らかい笑みが浮かんでいる。
手足に身につけているのは手甲と足甲。どちらも目の前にいるような美女が身につけているのはどこか違和感がある。違和感はあるが、それでも不思議な程の一体感を持っていた。
そんな女の隣には、こちらもまたローブを被った男が1人。
肩口で切り揃えられた黒髪と、意志の強さを現すような視線。
存在感は人一倍あるというのに、女と共にいると何故かそれ程目立つ様子はない。
外見だけで見れば旅人が一夜の宿を求めて村に寄ったといったところだが、2人から発せられる存在感はただ者ではないことを如実に示している。
一瞬、賑やかな宴の喧噪が静まりかえって沈黙が周囲を満たす。
そんな静寂の中で最初に口を開いたのは、猪の肉を挟んだサンドイッチを夏野菜たっぷりの野菜スープで飲み込んだレイだった。
「ヴィヘラ、テオレームも。予想していたよりも早かったな」
その言葉を聞き、村の広場に集まっていた者は理解する。
レイが言っていた待ち合わせをしていた人物はこの2人だと。
「あー、良かった。やっぱりこの2人はレイの待ち合わせの相手だったか。村の門の前でそう言われたけど、完全に信じる訳にはいかなくてな」
安堵の息を吐くのは、哀れにも今日この時に門番の役目を任されていた村人の1人だ。
そのままさりげなく宴会場と化していた場所へと近づき、串焼きへと手を伸ばす。
見知らぬ人物2人が夕方になっていきなり尋ねてきたのだ。最初は盗賊の罠かと疑いつつも、レイという人物と待ち合わせをしていると言われれば案内しない訳にはいかなかった。
何しろレイは自分達の村に向かっていた巨大猪を倒してくれた相手だ。
これが、あるいはレイが村に来た当初であれば何だかんだと理屈を付けて村に入れるようなこともしなかったのだろうが……
自分では手も足も出ないような巨大な猪……それこそ動物であるにも関わらず、ゴブリンのような低ランクモンスターならあっさりと殺せるような猪を一撃で仕留めるグリフォンを従えているレイを敵に回すようなつもりは全くなかった。
村全体の末っ子でもあるエーピカを巨大猪から救って貰った恩も感じていたのも事実ではあったのだから。
「ああ、俺が待ち合わせをしていた相手だ。案内してくれて助かった。……礼代わりって訳でもないけど、これでも食べてくれ」
立ち上がったレイが、近くにあった料理の幾つかを皿に盛りつけ、ここまでヴィヘラとテオレームの2人を案内してきた男へと渡した。
それを受け取った男は嬉しそうな笑みを浮かべ、早速とばかりに皿の中にあった料理の中でも簡単に食える串焼きへと手を伸ばす。
焼き上がってからそれ程時間が経っていないのだろう。一口サイズに切り分けられた肉からは猪の脂が滴り、それがまた焼く時にレイがミスティリングから出して提供したタレと合わさって、非常に食欲を掻き立てるような、一種暴力的と言ってもいい匂いを周囲に漂わせている。
最初に強火で焼き上げている為に外側はしっかりとした歯ごたえとタレの味が肉から溢れて肉汁が口一杯に広がり、その肉を噛み締めると内部のミディアムレアくらいの火の通りによって舌に吸い付くような柔らかさを楽しむことが出来た。
「……美味いな……」
しみじみと呟く男は、それ以上は何を口に出来るでもなく、皿を持ったまま村の入り口へと戻っていく。
自分以外にも数人いる仲間に食べさせてやりたいと思ったのだろう。
その後ろ姿を見送ったレイは、早速とばかりにヴィヘラとテオレームに向かって声を掛ける。
「取りあえず疲れただろうし、まずはお前達も腹ごしらえでもどうだ?」
「ええ、そうさせて貰おうかしら」
レイの言葉に即座に頷き、そのまま何の躊躇もなくヴィヘラはレイの隣へと腰を下ろす。
テオレームはといえば、そんなヴィヘラの様子に小さく笑みを浮かべてから視線を巡らせ、目当ての人物であるルチャードの姿を見つける。
ルチャードの方でもそれに気が付いたのだろう。自分の周囲で未だにヴィヘラに見惚れている友人達をそのままに、テオレームの方へと近づいていく。
「お久しぶりです。予想していたよりは随分と早いお戻りでしたね」
「ああ、馬が頑張ってくれてな。もっとも、頑張りすぎて今は村の入り口近くで休んでいるが。厩舎があったら、用意を頼む」
「ええ、それで泊まる場所に関しては僕の家で構いませんか?」
「レイはどこに?」
「彼も僕の家です」
「そうか、なら一緒で頼む」
「分かりました。その……それで、彼女は」
誰ですか。ルチャードがそう尋ねようとした、その時。
『うおおおおおっ!』
突然そんな歓声とも喚声とも思えるような声が聞こえてくる。
慌てて声のした方へと視線を向けるルチャードだったが、その時に見えたのは目の前にいるテオレームと共にやってきた美女がローブを脱いでいるところだった。
いや、それだけであれば別におかしなところはない。
旅をする時には色々と必須のローブだが、こうして寛ぐ時には邪魔になるのは確かなのだから。
だが、そのローブの下に着ているのが向こう側が透けて見える程の薄衣を何枚も重ねた、扇情的な……いや、扇情的過ぎるとしか言えない衣服。それこそ、踊り子や娼婦が着ていてもおかしくはないものであれば話は別だった。
夕日の光にその薄衣が煌めき、幻想的な雰囲気を周囲へと醸し出す。
男も女も含め、村人達の目をこれ以上ない程に惹き付けていた。
それはルチャードも同様であり、一目見た瞬間に目を離せなくなる。
「……あのお方は、自分がどれだけ人目を惹き付けるのか分かっておられるのかどうか」
後ろで溜息と共に吐き出されたそんな言葉に、ルチャードは我に返る。
あのお方……と言ったのだ。閃光という異名を持つテオレームが。
それだけで、これ以上ない程に村人の注目を集めているあの人物がただ者ではないのは明らかだった。
一方村人達の視線を一身に受けているヴィヘラはと言えば、暫くぶりに会えたレイの隣で上機嫌で笑みを浮かべつつ愛しい人の隣で美味い料理を食べる。
女としては最高の幸せに包まれていた。
(もっとも……戦い甲斐のある人はいないのが残念だけどね)
焼きたてのパンを、猪の肉がたっぷりと入ったシチューを付けて口に運びながら内心で呟く。
人間の三大欲求として、食欲、睡眠欲、性欲の3つがあるが、ヴィヘラの場合はそれに加えて第4の欲求とも言うべき戦闘欲がある。
それを満たしてくれるような人物がレイとテオレーム、セトくらいしかいないのを残念に思いながらも、それを表情に出さないようにして宴会を楽しむ。
最初こそヴィヘラの美貌に言葉を失った村人達だったが、時間が進むうちに次第にその空気にも慣れてきたのだろう。やがて徐々にではあるが、ヴィヘラへと言葉を掛ける者が現れ始めた。
「あんた、そんなに薄着で危なくないかい? 男なんて皆野獣なんだよ? それこそ、あんたみたいな美人ならあっという間に食べられちゃうんだから」
「ふふっ、大丈夫よ。私はこれでも強いんだから。私の身体を自由に出来るとしたら、それは私に勝った人だけ。……ねぇ?」
チラリ、と視線を向けられたのはセトと共に猪のステーキを味わっているレイ。
それを見て、ヴィヘラに話し掛けた者も理解したのだろう。目の前にいる人物のレイに対して抱いている想いを。
同時に、ヴィヘラを一目見ただけで魂を奪われるかのように見惚れていた何人かの男達は、その言葉を聞いて絶望の表情を浮かべる。
自分達がどうあがいたとしても、深紅と異名を持つレイに勝てる訳がないのだと。
特にセトが猪の頭部を粉砕するという行為を見ていた男達は、その絶望が酷い。
確かにあれをやったのはセトだが、レイはそのセトを従えている。つまり、目の前の女を手に入れるとしたら、あのセト以上の力を持つだろうレイに勝たねばならないのだと理解したからだ。
「さて、どうだろうな」
小さく肩を竦めたレイは、そのままステーキを味わう作業へと戻っていく。
そんなレイに対して少し何かを言いかけたヴィヘラだったが、それでもこの場では相応しくないと判断したのか、レイの隣で同じように料理へと手を伸ばす。
「んー……久しぶりにお酒を飲んだわね」
ルチャードの家の居間に、どこか艶っぽいヴィヘラの声が響く。
現在、この家の中にいるのはレイ、ヴィヘラ、テオレームの3人のみ。
本来のこの家の主であるルチャードは、まだ村の広場で宴会に参加している。
そして家のすぐ側には寝転がって、誰かが家に近づいてこないかを警戒しているセトの姿。
これまでは村の中に入るのを禁止されていたセトだったが、今回エーピカを守った功績もあって村の中で休んでもいいと、ルチャードの口添えもあって村長から正式に許可されたのだ。
元々数日前からセトを村の中に入れないのは可哀相だという意見もあったらしく、今回の件が切っ掛けとなった。
「お酒はいいですが、あまり羽目を外さないようにして下さい。大切なお身体なのですから」
「分かってるわよ。それよりこれからの話でしょ。レイ、無事にここに来たってことは、色々と上手くいったのよね?」
視線を向けられたレイは、ミスティリングから取り出した冷たく冷えた果実水を飲みながら頷く。
「大体はな。……ただ、当初の予定と比べて変わったところもある」
その言葉に、テオレームの眉がピクリと動く。
「ほう。変わったところとは具体的に何かを聞いても?」
「ダスカー様が直接闘技大会の観戦に向かうことになった」
「……ラルクス辺境伯がわざわざ、か。それは当然レイの協力と考えても?」
「だろうな。そっちにしてもそれ程悪くはない話だと思うが?」
レイの問い掛けに、テオレームは深い溜息を吐きながらも同意する。
「確かに戦力的にはかなり魅力的であるのは間違いない。だが、その代償が問題なのだ。特にラルクス辺境伯程の大物を動かしたとなると……さて、どのような条件を出されることやら」
切れる手札が増えるのは嬉しいが、その代わりに失うだろうものも多い。
そんなテオレームの言葉に、ヴィヘラもまた同意する。
「敵対国の3大派閥の1つを率いる中心人物が自らのお出ましな訳ね。確かに色々と面倒なことになりそうね」
「ヴィヘラ様、あまり他人事のように言われては……」
「あら、私としてはもうベスティア帝国の皇籍から抜けているつもりだから、殆ど他人事に近いわよ? それでも肉親の情はあるから、こうして手伝っているんだけど」
レイから受け取った冷たい果実水で喉を潤しつつ告げる言葉に、テオレームは息を吐く。
だが次の瞬間、レイの口から更に面倒な件が報告される。
「そのダスカー様だがな、当然敵国でもあるベスティア帝国まで出向く以上、護衛は必要だろ? 俺が護衛してもいいんだが、闘技大会があるし」
奥歯に物が挟まったかのような言い分だったが、三大派閥と言われている中立派――その勢力は国王派や貴族派に比べると格段に低いが――の中心人物が数ヶ月前に戦争状態にあった敵国へと出向くのだ。
その状態で護衛の1人も連れていかないというのは有り得ないだろう。
表向きとしてはレイが護衛となるのだろうが、そのレイ自身は闘技大会に出場する以上、実質的に護衛は出来ないのだから。
「つまり、こちらで護衛を用意しろということか?」
レイに言葉を返しながらも、テオレームにとってその辺は非常に難しい判断を迫られる。
そもそも、第3皇子派と言われているテオレーム達自身の派閥自体、そんなに大きい勢力ではない。更に現状では旗頭である第3皇子も軟禁されており、実質的にはテオレームが第3皇子派を動かしている状態だ。
当然派閥内にもそれを面白く思っていない者もおり、今は圧倒的に手数が足りない状態であると言える。
そんな中、隣国の有力貴族に自分達の手勢を……それもラルクス辺境伯という大物の護衛ともなれば、相応の戦力を提供しなければならないというのは明らかに痛手だった。
しかも表だってダスカーと第3皇子派は協力関係でも何でもないのだから、他の勢力に顔の知られていない人物を出さなければならないという難題もある。
(いっそ、冒険者ギルド辺りに……)
そうも考えるテオレームだったが、腕の立つ冒険者の多くは闘技大会に出場するだろうというのを考えると、それもまた難しい。
だが、そんなテオレームへとレイは告げる。
「いや、護衛に関してはギルムで用意した」
「なるほど、それは助かる」
言葉だけではなく、本当に安堵したといった様子で呟くテオレームだったが……
「ただし、その護衛はランクAパーティの雷神の斧だ」
その一言で思わず動きを止めるのだった。
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