第5話

 建物の周囲には巨大な樹木が連なっているにも関わらず、何故か朝の清々しい光が差し込んでいる。周囲の空気も朝ということもあって非常に澄んでいた。もし森林浴をしたいという者がいたのなら、ここは絶好の場所だろう。……ここまで来れれば、だが。

 そんな建物からセトと共に1歩を踏み出したレイは周囲の様子を確認する。


「ゼパイルの知識によれば、この建物を中心にして半径100m程度に結界が張ってある……筈だ」

「グルルゥ」


 レイの言葉にセトが頷く。


「そしてその結界を1歩でも出たらそこは既に魔物達の楽園な訳だ。……覚悟はいいか?」


 肩に乗せていたデスサイズを、いつでも使えるように右手に持ち替える。


「グルルゥッ!」


 戦意の籠もった唸り声を上げるセト。それを頼もしく思いながらも1人と1匹は進んでいく。そして3分程歩くと、研究所に張られている薄い膜のような物が見えてきた。


「あれが結界か。さすがに出るのは緊張するが……何しろここで出ないと餓死決定だからな」


 そう、10日分残されていた筈の食料は今朝の朝食で既に底を突いてしまったのだ。10日分の食料をたった2食で食い尽くしてしまったのは当然レイの隣で周囲を警戒しており、いつでもレイを庇えるように行動しているセトだった。

 本来なら森の中で自分が食べる分のパンを数個くらいは残しておきたかったレイだったのだが、空腹の為に悲しそうな瞳でパンが欲しいと甘えてくるセトに負けてしまった為に既に最後のパンはセトの胃袋の中だ。


「……まぁ、いいけどな。これからの食費を考えるとなるべく早く金を稼げる仕事に就かないと。そうなるとここはやっぱり冒険者とかそういうのか?」


 ゼパイルの知識によると、冒険者ギルドというのは存在しているらしいが余程大きな街でもなければギルドの支部が無いらしい。つまり、セトと自分の食費を稼ぐ為には一刻も早くこの森を抜けて大きい街へと行かなければならないのだ。


「セトの食事だけを考えるのなら、魔物でもなんでも倒してその肉を食えばいいんだろうけどな。幸い魔法生物であるセトは食うのは人並み以上だけど全て魔力に変換して体内に吸収するからトイレの心配とかはいらないし」


 ただ、その場合はレイの生活費をどうするかの問題も出て来る。無難に考えればセトの食べないような部分で尚且つ何らかの素材に使える角やら爪やら皮やらを売るという方法もあるが、それなら結局はこの森から出て冒険者ギルドのある街に行って冒険者として活動するのが一番いい方法なのだろう。別途に報酬を貰える可能性もあるのだし。

 改めて決意を固めたレイは、セトと共に結界の外へと1歩を踏み出す。


「うわ、マジか」


 結界を一歩外に出た途端に感じたのは、圧倒的な生き物達の濃密な気配。レイになる前の玲二が住んでいたのは東北の田舎町。当然近くには山があり、川があった。ウサギやリス、鹿、猿、狐、狸、猪といった動物たちを見るのもそう珍しいことではない。山の奥へと行けば、遠くからではあるが時には熊ですら見つけることもある。だが、今レイが感じている気配の数々はそれ等と比べても圧倒的なものだった。


「それに、さすが異世界と言うべきか」


 結界の周囲を取り巻くように覆っている木や草といった植物。それらはすぐ近くに山のある生活をしていたレイにとっても初めて見るものの方が多かった。

 朝の新鮮な空気を吸い込みながら、セトと共に森の中を歩き始める。

 さすがに数百年も放っておかれただけあって、道らしい道は無い。見上げる程の大木が多数生えているので適当な間隔が開いており歩くのにはそれ程の苦労はないのだが、それでも2mを越すセトにしてみれば多少の狭さは感じているらしく時々苛立たしげに喉の奥で唸っていた。


「グルルゥ」


 翼を軽く動かしながら顔をこちらへと擦りつけてくるセト。煩わしい地上ではなく遮る物の無い空を飛んで移動したいらしい。

 その頭をコリコリと掻いてやりながら言い聞かせるように呟く。


「落ち着け。昨日も言ったと思うが、この森には竜種も住んでるんだ。空を飛んでいったらあっさりと朝食にされてしまうぞ」

「グルゥ」


 レイの言葉にしょんぼりと肩を落とすセト。図体は大きいが、何しろまだ生後2日目なので忍耐というのがまだまだ足りない。

 結界を出てから30分程。時間にすればそんなものだが速度を上げるスレイプニルの靴を履いているレイと、グリフォンであるセトはかなりの速度で森の中を進んでいた。そんな中、レイは少し先に赤い果実らしきものがなっている木に目を止めた。その木の前まで移動し、手を伸ばして木から生えている果実をその手に取る。


「なぁ、セト。これって食べられると思うか?」


 一見リンゴのようにも見える拳大の赤い果実を手に、セトへと尋ねる。


「グルゥ?」


 だが、当然セトにその判別が付く訳もなく首を傾げるだけだった。

 そんなセトと一緒に赤い果実を見つめるレイ。だが、すぐに何かを思いついたのか笑みを浮かべる。


「こんな時こそゼパイルの知識を使う時だな」


 ゼパイルの知識から手に持っているリンゴのような果実の情報を引き出す。

『クララの実』

 森になっている果実の一種。その果肉は甘酸っぱく美味。ただし、美味故にその果実を好む魔獣や獣も多いのでクララの実を見つけた場合は周辺に注意が必要。


 その説明を読んだレイの顔が引きつる。


「やばい。セト、取りあえずここを離れよう。この果実は……」

「グルルルルルルルゥ!」


 すぐにこの場を離れようとしたレイだったが、一足遅かったらしく森の右側を見てセトが警戒するような唸り声を上げていた。


「……遅かったか。けどまぁ、しょうがないと言えばしょうがない。大人しく俺とセトの食料になってもらうか」


 意識を一瞬で切り替えたかのように冷静になったレイは、持っていたクララの実をミスティリングへと収納してからデスサイズを構える。

 その時の本人は全く気が付いていなかったが、レイの心に戦闘に対する過剰な恐怖心や躊躇いといったものは存在していなかった。


「さて、何が出る? せめて魔物じゃなくて猪とかの野生動物だと嬉しいんだが」


 そんな希望とも呼べないような希望だったが、それを裏切ってのっそりと姿を現したのは一見したところ体長2m程度の熊のように見えた。しかし、毛皮の上に水を纏っているような熊はどう考えても野生動物というよりは魔物だろう。


「……」

「……」

「……」


 数秒、レイとセトは無言で目の前にいる熊と見つめ合う。

 大きさは2m弱だが、縦に大きい分セトよりも大きく感じる。見るからにがっしりした身体付きをしており、同時にその毛皮には水を纏っていた。また、両方の手から30cm程の鋭く長い爪が伸びており、禍々しさを感じさせる。頭の中では何で毛皮の上から水が落ちないんだろうか? と考えていたレイだったが、沈黙を破ったのは当然の如く目の前にいる水熊(仮称)だった。


「ガアアアアァァァァァァッッ!」


 周囲一帯へと響き渡るような雄叫びを上げながら、四つん這いになってレイとセトへと襲いかかってきたのだ。


「ちぃっ、やるしかないか。セト、やるぞ!」

「グルゥッ!」


 了解、とばかりに鋭い声を上げたセトは水熊を迎え撃つべく前へと出る。レイもまたデスサイズを構えてその後に続く。


「ガアアアッ!」


 獲物が逃げずに自分の方へと向かって来たと認識した水熊は、10cmはあろうかという牙を剥き出しにしながら移動した速度も合わせてその鋭い爪をセトへと振り下ろす。


「グルゥッ!」


 セトはその一撃を横に跳んで回避。跳んだ先に生えていた木を蹴り、三角跳びの要領で攻撃を外した水熊の胴体へと鷲の鋭い前足を叩き付ける。

 セトが足場にした為にメキメキと音を立てて折れた木をチラリと確認したレイは、セトの膂力に苦笑を浮かべながらもデスサイズを構える。……ただし、刃の方ではなく柄の方を先に出すような形で。何しろこの森の中では2mの長さを誇る大鎌を自由に振れるような場所は殆ど無いのだ。故に柄の部分を槍のようにして使うことにしたらしい。


「ガァッ!」


 セトの鉤爪により切り裂かれるような一撃を受けた水熊は、苦悶の声を上げつつもセトへと目掛けて再度その爪を振り下ろす。

 その攻撃を後方へと跳躍して回避。攻撃を外した水熊はバランスを崩しよろめき……その隙を突くかのようにレイがデスサイズの柄を水熊の脇腹を狙い突き出す!

 ドスッという鈍い音を立てながら、水熊の纏っている水や毛皮をまるで無視するかのように脇腹を貫通するデスサイズの柄。


「ガアアァァッッ!」


 グニュリとした肉を貫く感触に軽く眉を顰めながらも、水熊がその右の爪を振り上げているのを見たレイはデスサイズの柄を力任せに抜いて豪腕の一撃が振り落ろされる前に距離を取る。柄を抜いた瞬間、僅かに水熊の血がこぼれ落ちて周囲に生えている草へと散るが、水熊はそんなのは気にしないとばかりに凶悪な爪を振り下ろす。


「ガアアアァァッ!」


 目の前の小さな生物如きに傷を付けられた驚きと苛立ちに吠えた水熊だったが、その傷は決して小さいものでは無かった。ただし、魔物の生命力を考えた場合は致命傷という訳でも無い傷だ。

 そんな水熊を観察しつつ、レイは自分の身体能力に内心驚きを隠せなかった。何しろ、突いたのはあくまでも大鎌の柄の部分なのだ。当然そこには刃物がある訳でもないので自分の放った一撃が水熊の肉体を貫く程の威力があるとは思ってなかったのだ。


(予想以上にこの肉体の身体能力は高いらしい)


 内心で呟きつつ、水熊の様子を確認する。


「……何?」


 だが、今度はレイが驚く番だった。何と柄で貫通されたはずの水熊の脇腹が、纏っていた水で覆われたかと思うと目で見て分かる程の速度で再生していっているのだ。レイが驚きで固まっている10秒程度で水熊の脇腹の傷から流れていた血は止まり、傷そのものも消え去ってしまった。


「さすが魔物と言うか……つまりは回復させる暇も与えずに一撃で大きなダメージを与えるしかないってことだな」


 チラリとデスサイズの刃の部分へと視線をむけるが、そこでふと気が付く。


(しまった。魔力を流せばデスサイズの威力が上がる能力があったのを忘れてたな。さすがに初戦闘で緊張……緊張?)


 そこまで考え、ようやく自分の緊張度合いに気が付いた。緊張はしているが、小説とかで新兵や素人が良くやるように緊張のあまり身体が動かないといったことがなかったのだ。


(これも融合の成果か)


 そんな風に思いつつ、レイとセトのどちらへと攻撃を仕掛けようか迷っている水熊との様子を窺う。


(現状の手持ちの札で一番攻撃力が高いのはデスサイズだが、この森の中で自由に振り回せる程の空間的余裕が無いから難しい。かと言って炎の魔術を森の中で使うというのはどう考えても拙い)


 レイが頭の中で考えている間にも、セト、水熊、レイの1人と2匹は迂闊に動けずに膠着状態となっていた。

 水熊にしてみればセトに攻撃すればレイにその隙を突かれ、逆にレイに攻撃してもセトにその隙を突かれる。

 セトとレイにしてみれば、脇腹を貫通する程の一撃を10秒程度で完全回復されてしまうのだから無駄に攻撃しても意味は無いように感じている。

 実は水熊が身に纏っている水にしても先程のように回復に使った場合は魔力を消耗するのだが、これが初陣のレイは気が付いていなかった。そこに気が付いていればまだ取れる手段は多かったのだが。


「ガアアアッ」

「グルルゥ」


 水熊とセトがお互いに相手を威圧するような唸り声を上げている。その様子を見ながら、レイは必死で頭を働かせていた。


(どうする、一か八かデスサイズに魔力を通して大鎌の部分で振り切ってみるか? 恐らくだがこの肉体の能力なら周囲の木も一緒に熊を切り倒せる筈だ。……いや、そんな博打のような真似は最後の手段にするべきか。かと言って他に手段は……火事になるのを覚悟して火の魔術を使う? それこそ駄目だろう。知識から引き出したこの森の広さを考えた場合は洒落にならない火災になる可能性がある。……いや、待て。火事? 火の魔術? デスサイズの柄……っ!? そうか!)


 その考えが浮かび、一瞬で纏めたレイは水熊と睨み合っているセトへと声を掛ける。


「セト、悪いがもう一度さっきのようにあの水熊の体勢を崩してくれ! そうなったら後は俺が何とかしてみせる!」

「グルゥッ!」


 任せろ、とばかりに高く鳴いたセトは自分に水熊の意識を集中させる為にその周囲を歩き回る。


「ガアアァァ」


 水熊もさすがにその様子を捨て置けなかったのか、次第にレイから意識を逸らしてセトへと集中していく。

 そんな時間がどれ程続いただろうか。レイにしてみればジリジリと長く続くその対峙だったが、実際には数分といった所だったのだろう。膠着した状態に我慢出来なくなった水熊が高く吠える。


「ガアアアアアアアアッッッッ!」


 その雄叫びと同時に水熊の毛皮を襲っていた水が浮かび上がり、目の前で3個の小さな水球へと変化する。そして次の瞬間にはその水球がセトへと向かって撃ち出される。


(ここだ!)


 水熊とセトの様子に、ここが勝負の分かれ目と判断したレイは意識を集中していつでも呪文を唱えられるように準備をしながらデスサイズの柄を握りしめて勝負の行方を見守る。

 空を裂くかのように水熊から放たれた水球、その数3つ。それを確認したセトは木々の間を縫うようにして水熊との距離を縮めていく。


「グルゥッ!」


 セトが盾とした木に水球の1つが命中して木の幹を抉る。


「グルルゥッ!」


 セトの頭を抉らんとした水球を一瞬で地に伏せて回避。頭上を通り過ぎていった水球は背後にある木へとぶつかって木の幹と共に水を周囲へと散らす。


「グルルルルルルゥッ!」


 地に伏せた状態から、全身のバネを活かして前に突進。水熊目掛けて急速に距離を詰める。

 その様子は最後の水球が自分に命中するよりも前に水熊へ一撃を加えようとしている。


「ガアァァッ!」


 ……ように、水熊には見えていた。その為に勝利の雄叫びを上げる水熊。しかし。


「グルルルゥッ!」


 空中で進路を変更し、セトの胴体目掛けて直上から襲い掛かってきた水球。その一撃はセトの身体に命中する直前、まるで何かに遮られたかのように唐突に砕け散った。


「ガァッ!?」


 何が起きたか分からない水熊。それも当然だろう。魔物である水熊にはセトの付けている腕輪の1つ、『風操りの腕輪』が10時間に1度だけという限定ではあるがあらゆる飛び道具と攻撃魔法を無効化してくれるということを知らない。よって。


「グルルルルルゥッ!」


 水熊の懐に潜りこんだセトは雄叫びを上げながら右前足で目の前にある水熊の足を掬い上げるようにして一撃を加える!


「ガアアァッ!?」


 文字通りに足下を掬われ、その場に転倒する水熊。それはセトが付けているもう一つの腕輪である『剛力の腕輪』によって増した膂力によるものだった。

 セトを信じ、成り行きを見守っていたレイは水熊が倒れた瞬間に魔力を練り上げて呪文を唱えながら転んだ水熊へと向かって走り出す。


『炎よ、汝は蛇なり。故に我が思いのままに敵を焼き尽くせ』


 魔力の籠もった呪文により、世界が書き換えられる。その結果魔術発動体であるデスサイズに炎が集まり……


「はぁっ!」

「ガァッ!?」


 倒れ込んだ水熊の背へと再びデスサイズの柄を突き刺して最後の呪文を完成させる。


『舞い踊る炎蛇!』


 呪文が完成した瞬間、デスサイズの柄から放たれた炎で出来た蛇は水熊の背から頭部へと肉体内部を焼きながら昇っていき……


「ガアアアアアァァァァッッッッ!」


 己の脳みそを焼かれる恐怖と苦痛に満ちた悲鳴を上げて、水熊はそのままその場に崩れ落ちるのだった。

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