三 竪琴の音色
そして、気の神殿長ユーシウスの研究室に通う日々が始まった。カイラーナとの研究をそのまま続ける代わりに、ナーソリエルは図書塔の司書業務や神殿学校の教科書の編纂、写本を始めとした手仕事などの雑務を免除されることになった。ひたすら研究に打ち込めるのがありがたくはあったが、図書塔の隅で誰にも邪魔されずに書物の補修をしたり、新しく入った本を分類したりする仕事は気に入っていたので残念に思う。しかしそれを言い渡した時の神殿長は「カイラーナとの研究の方をやめたい」とはとても言えない顔をしていたので、諦めるしかない。
「では
「はい」
頷いて一覧の書かれた薄い石盤を受け取り、一礼して神殿長の研究机のそばを離れると、ナーソリエルは壁の書棚に向き直って指定の本を取り出し始めた。今日は五冊、冊数としては少し少なめだが、その分内容は難解になっている。異端審問の歴史書が一冊、古代アルレア語の詠唱集が一冊、神典解釈学の本が二冊。それからこれはなかなか過激な本だ、『神に愛された妖精達、神に見放された人間達』。一冊当たり一時間弱しかない上に、試験はここまでかというくらい細かな部分も出題される。叡智の祝福に記憶力を補助されていなければとてもやっていられない内容だった。
しかしナーソリエルは部屋の端に置かせてもらった小さな机に勉強道具を広げると、ひとり満足の微笑みを浮かべた。こうして、彼が頭を振り絞っても届かないような課題を与えられることはナーソリエルにとって新鮮で、小さな好奇心を自分で満たしてゆくのとは違う、「もっと賢くなりたい」という野心のようなものが湧き上がってくるのだ。
本を開くと、まずは軽く全体に目を通して概要を確かめる。五冊の内容と構成をおおよそ把握した上で、一番自分の知識が薄そうな項目から順に読み込んでゆくのだ。そうやって焦りながら知識を叩き込むのもまた、読書中の感情としては不釣り合いな好戦的な気分になって、なかなか爽快である。
集中していると、あっという間に青の刻の鐘が鳴った。窓の外に目を遣ると、確かに空は昼間に近い明るい青色になっている。
「切りはいいかね」
「はい」
立ち上がって神殿長の机のわきまで戻る。彼女はいつも青の鐘までと厳密に制限時間を設けるが、鐘の時間に中途半端な部分を読んでいる時は、章の切れ目の部分までは読ませてくれるのだ。それが気遣いではなく、より効率の良い学習方法だと断言するユーシウスの感性が好きだった。
「さて、始めよう。異端審問という言葉が初めて正式に使われたのは」
「レヴィガヴル歴百世紀、シルファラフィル期。ヴェルトルート統一の直前」
「そのように言われているが、では『最初の審問官ラシェン』が生涯に渡って追い続けた異端者の、異端とは具体的に何か」
「……統一戦争の、先導者や兵器の開発者を追っていたと」
「より詳細に」
「森を焼き、神の庭たる世界を破壊せんとする危険な思想を、排除した?」
「ふむ……まあ及第点といったところか」
その質問は乗り切ったが、その後はいくつか答えられないものもあり、ナーソリエルは神殿長に「記憶力はともかく、読むのが遅すぎる」と叱られてシュンとなった。ここ数日の間で何度も同じことを言われているが、そう簡単にどうにかなる問題ではない。
「明日までに読み込んでくるように」
「はい、教示に感謝いたします」
「退出を許す」
「はい、日差しに豊かな実りを」
「汝にも」
借りた五冊の本を抱えて研究室を辞去し、扉を閉めてため息と共に肩を落とした。これを夜のうちに読み込んで、そして明日は今日の内容に関する問答を二時間だ。五冊の本の内容は一見バラバラなようで、その実ひとつの大きな主題に基づいて選ばれている。その意図を探り、自分の解釈と意見の準備をするのだ。楽しいは楽しいのだが、とにかく頭も体も疲れるのは、少しずつ寝不足が積み重なっていっているせいであるようだ。自分の研究も抱えながら別分野の知識も取り入れ続け、ナーソリエルの面倒も見ている神殿長は、一体いつ眠っているのだろうか。
のろのろと階段を降り、昼食までに少しでも読み進めておこうと図書塔に入る。植物学の書架の近くの「いつもの場所」に席を確保し、机に突っ伏してため息をついた。やはり、読書の続きは少し休憩してからにしよう。
気を抜くと眠気が襲ってきたが、こんなところで居眠りをして誰かに見られるのも嫌なので、体を起こしてぼうっと本棚が立ち並ぶ方を見る。この辺りはあまり人が来ないのだが、どうやら今日はひとりきりにはなれないらしい。やれやれと軽く目をこすってから立ち上がった。
「……ハイロ」
本棚の前で手を伸ばしてぴょんぴょん飛び跳ねていたハイロが、びくっとして振り返った。少し青褪めて、小さな小さな声で「ナーソリエル……」と呟く。
「どれかね?」
「……あの、きれいな赤い本」
取り出して手渡してやると、ハイロは途端にナーソリエルへの恐怖を忘れたように表紙の花の絵を熱心に見つめて「かんしゃします」と少し舌足らずに言った。
「手が届かぬ場合は梯子を使いなさい」
呆れて言うと、ハイロは表紙を開いて美しい扉絵を眺めていた手を止めて「重くって、うごかなかったのです」と悲しげに言った。確かに言われてみれば、ある程度抵抗なく滑るようになっているとはいえ、三歳児に動かせるようなものではない。
「そうか、ならば仕方ない。飛び跳ねるのではなく、周囲の者に声をかけるように」
「はい」
ハイロは素直に頷いて、慣れない様子で胸に手を当てて頭を下げ、閲覧席の椅子によじ登ると早速パラパラと楽しそうに本を捲り始めた。と、すぐにパタンと閉じて椅子を降り、本棚のところへ戻って困った顔をする。
「どうしたのかね」
「これ……読み終わったので、もどしてください」
「ふむ」
身近な野の花について書かれた本だ。子供向けだが明らかに幼児が読める範疇を超えている。受け取って元の場所に戻し、見下ろすと、縮こまって震え出す。
「……次はどれだ」意識して少しだけ高い声を出す。
「……となりの」と恐怖で掠れた小さな声。
「その次はその隣かね」
「はい」
棚の端から順に読んでゆくところに少し親近感が湧いた。一段分を全て取り出して机に積み上げていると、子犬か何かのように後ろをついてくる。
「読み終えたら、或いはここを出る際は声をかけなさい」
「はい」
ハイロが頷いて、小さな手で上の一冊を手に取った。先程と同じようにパラパラと捲り、挿絵が出てきたら手を止めてじっくり眺める。絵の部分だけを選んで見ているようにも思えるが──
「速読かね」
「わっ!」
声をかけると、ナーソリエルが後ろに立っていたことに気づいていなかったらしく、ハイロは椅子に座ったまま驚いて飛び上がった。
「……ごめんなさい、きちんと読みます」
そして慌てた様子で本の初めまでページを戻すと、ゆっくりと読み始める。
「そのままで構わぬ、好きに読みなさい」
誰かに何か言われたのだろうか、と眉を寄せて考えながら言うと、ハイロは震えながら頷いた。
「はい。ナーソリエルも……いっしょに読みますか?」
首を振る。
「そなたほどの速読はできぬ」
「どうして? おぎょうぎが悪いからですか?」
両手の指をもじもじとさせながら、ハイロが不安そうに言う。まだ自他の区別がそれほどついておらず、能力の差というものを意識していないらしい。
「動体視力が足りぬのだ」
「どうたいしりょくとは何ですか?」
「動いているものの形を見分ける能力」
「つまり……ナーソリエルは、ぱらぱらってすると速すぎて見えないのですか?」
「左様」
「さよー」
「そうだ、という意味だ」
とはいえ幼児が恐るべき速さで書物を読み解いてゆく様は面白かったので、そのまま少し内容や挿絵について解説してやりながら、隣に座って彼女が読書をする様子を眺めてみた。見れば見るほど、真似などできそうもない。神殿長が「読む速さを」と言っていたのは、最終的にこの域まで達せよという気持ちがあるのだろうか。
腕を組んで彼女の目の動きを観察しながら考え込んでいると、おそるおそるというような動作で振り返ったハイロが目を丸くして震え始めた。しまったと思って前のめりになっていた姿勢を真っ直ぐに戻したが、もう遅いかもしれない。
また泣くのか──?
どうしようと思って視線を彷徨わせていると、その時瞳を潤ませていたハイロが突然涙を引っ込めて、伸び上がるように背筋を伸ばし、ナーソリエルの後ろを見つめた。振り返ると、赤い衣の少年がぽつんと佇んでいる。
「にいさ、フラノ」
明るい声を聞いたフラノが、ゆっくりした動作で頷く。見落としそうなくらい微かに「ハイロ」と唇だけで言った。彼は思わず「てくてく」とか「とことこ」とか表現したくなるのんびりした歩き方でナーソリエルの横を通り過ぎ、妹の頭にそっと手を乗せる。
「フラノ。これ、このじゅんばんの通りに、いちばん上の棚へ戻してください」
遠慮のないハイロの願いに少年が無言で頷き、三十冊ほどある本を軽々片手で抱える。ナーソリエルですら三往復はしたのに。しかも、そんなに積み上げたまま梯子を登っているのに本の山はぐらりともしない。
手早く棚に本を並べ直したフラノが、ハイロが抱えている一冊の本を無言のままちらりと見る。
「これは借りてゆきます」
あの中のどれを気に入ったのだろうと表紙を見ると、なんと昆虫図鑑だった。背筋が冷える。頷いたフラノが少し首を傾げて本棚を振り返ると、ハイロは慣れた様子で兄の感情を汲み取った。
「あのね、ナーソリエルが取ってくれました」
それを聞いたフラノが何の表情も浮かんでいない顔でナーソリエルと目を合わせ、小さく頷いてひらりと梯子を飛び降りた。少々行儀が悪いが、流石は火の神官だと思わせるしなやかな身のこなしだ。が、戻ってくる歩き方は相変わらず呑気な様子で、歩きながら服のポケットを探り、ゴツゴツした白い石をひとつ取り出すとナーソリエルに向かって差し出した。何だろうと思いながら受け取る。
「庭で……拾った。あげる」
初めて声を聞いた。静かな図書塔でなければ聞こえなかっただろう、ほとんど息だけの小声だ。
「フラノ……また砂利をひろったの? それ、ナーソリエルはよろこばないと思います」
ハイロが困った声で言うと少年は目を丸くして、少し傷ついたような顔になる。
「いや……感謝する。純白の、美しい石英だ」
どこか精霊めいた大人しい子供の好意を少し嬉しく思ったのは本当なので、ナーソリエルは慣れない自分の態度を少し恥ずかしく思いつつそう口に出す。少年は目を細めるとひとつ頷いて、無言のまま妹の手を引くと階段の方へ向かって歩き出す。
「じゃあ……また、あとで」
ハイロが振り返って小さく手を振った。どうやら兄と手を繋いでいればナーソリエルのこともそれほど怖くないらしい。軽く礼をしてそれに応える。午後からはハイロに、祝祭に向けた音楽の指導を行う予定が入っていた。震えてどうしようもなくなるのではと危惧していたが、この分なら比較的落ち着いていられるだろう。そう思って、ナーソリエルは軽く安堵のため息をついた。
◇
時計を見ると良い頃合いだったので、小さな兄妹に追いつかないくらいの時間を空けてナーソリエルも図書塔を出た。食堂へ向かい、トーラが思い悩んだ様子で「マソイ達にもいつか打ち明けようかと思っているのだけど、どう思う?」と面倒な相談を持ちかけてくるのに「知ったことか」と答えながら昼食をとって、軽く歯を磨いてから研究棟へ向かう。
楽譜の準備やリュートの調弦をしながら待っていると、小さなノックの音がしてハイロが入室してきた。後ろにフラノの姿がちらりと見えたので、長い階段は抱えてもらったのだろう。この数週間の集団教育で楽譜はある程度読めるようになっているはずなので、早速手渡して音階と歌詞を確認させる。
「本番は主旋律をそなたが歌い、私が副旋律と伴奏を重ねる。この歌は知っているか?」
「ふくせんりつ、と……重ねる」
「一緒に歌う」
不本意だがやわらかい表現に言い換えると、ハイロはその内容に少し強張った表情を浮かべながら「はい、知っています」と答えた。知っている曲ならば話は早いと軽く前奏を爪弾くと、ぱちぱちと長いまつ毛を瞬かせてじっと聞き入り、恥ずかしがる様子もなく歌い出した。
風の神よ、教えて
どうしてお空には、星が光るの──
易しい歌詞の讃歌だが、旋律が凝っていて美しく、子供の歌だと決して馬鹿にできない曲だ。音程は正確で声音も澄んでおり、声が小さいのを除けばほとんど完璧と言って良かった。試しに副旋律を低く重ねれば、一瞬声が止まったものの釣られることなくすぐに元の調子を取り戻す。
発声練習で声量を強化しても良いが、ふむ──
少し思うところがあって伴奏を止めると、ハイロが残念そうに肩を落とした。余程楽しかったらしいと思わず少し息を漏らすと、不思議そうにじっと見つめてくる。
「伴奏を竪琴に変える。少し待ちなさい」
「たてごと!」
ハイロが小鳥のような高い声を出してぴょんと弾んだ。棚から竪琴を取り出して腰掛けると、ナーソリエルの膝の上に手をついて、乗り上げんばかりに覗き込んでくる。
「……歌の練習を終えたら弾いてみるか」
「弾く!」
弾み回る幼児に困惑しながら調弦し、同じ曲を小さく竪琴で奏でる。ハイロの小さな声は声楽的見地からいえば物足りないが、どことなく妖精が好みそうな繊細で優しい響きが感じられた。それを生かして伴奏もよりやわらかく、音楽自体を繊細に作り変える方が良いだろう。
そう思って歌わせた叡智の讃歌は大変満足ゆく出来で、少し触らせてみた竪琴も才能の片鱗が見え、ナーソリエルは嬉しくなって彼らしくもなくハイロの音楽の才能を絶賛した。が、ハイロは小さく「目の色が……片方うすくなってる」と呟いて震え出したので、結局楽しい気分が一気に地に落ちて、その日の練習を終えることになったのだった。
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