二 トーラ



「ふむ……まあ簡単に言うと、心の病だね。少し嫌なことを我慢しすぎているようだ。療養の許可を出すので、日々の務めのことは忘れ、美しい景色を見てゆっくり休みなさい」


 しかし、その日の夕暮れに訪れた水の神殿で、ナーソリエルはそんな診断を下された。

「いえ、そういうわけには」

 首を振ると「院長先生」が困ったように微笑む。普通ならばこんなちょっとしたことで水の神殿長でもある彼の診察は受けられないのだが、たまたま手が空いていたとかで「ファラが懐いているのは君だね?」とにこにこしながら現れたのだ。


「真面目なのは良いことだけど、そうやって義務感に突き動かされて限界を超えてしまうから、こういう風に調子が悪くなってしまうんだよ。心を癒し清めることも、水の神がお喜びになる立派な務めだ」

「けれど、どんな病の最中でも全てを学び続けると、ユーシウス神殿長と約束し、エルフト神に誓ったのです」

「ユスはねえ……彼女は、まあ」

 院長が眉間の皺をよくよく揉んで、片方の眉を上げると「……入院するかい?」と訊いた。


「いいえ」

「ファラが喜ぶよ?」

 悪戯っぽい笑顔になった神殿長に、心持ち微笑んで首を振った。儀式の時の様子から絵に描いたような好々爺こうこうやだろうと思っていたが、案外内面は人懐っこく若々しい人のようだ。


「ならば、入浴は水の塔の地下泉をひとつ、君専用に空けておこう。泉といっても実際は小さな浴室なのだけれどね、水の神官は小さな儀式ひとつにも体を清めるから、常時浄化されている浴槽がいくつもあるんだ。毎日朝夕、それ以外にも頭がぼうっとすると感じたり、胸の痛みや息苦しさを感じたりした場合はいつでも浸かりに来なさい。入浴の時間が苦痛のひとつになっているのはいけない。ひとりでゆっくり浸かって、水の恵みを余すところなくその身に受け、心の憂いを晴らすように。場所は後で案内させる」

「……感謝いたします」


 礼を言う声が思わず少し弾んでしまい、ナーソリエルは顔を赤らめた。院長が嬉しそうに微笑んで「やっと少し気持ちがほぐれたね。そういう顔をさせたかったんだよ」と言う。懐の深そうなその顔を見て、ナーソリエルは少し考えると、その浴室を時間を分けてトルスと使っても良いか尋ねてみた。彼も自分と同じくらい入浴の時間が苦痛であるようだし、ナーソリエルも浄化されている浴槽ならば交代で使用することに不快感はない。


「ああ、もちろん構わないよ。自分の部屋と思って、好きに使いなさい」

「ありがとうございます」


 丁寧に礼を言って退出すると、神官のひとりに浴室の場所を教えてもらい、早速トルスに知らせてやろうと思いながら足取り軽く水の神殿を後にする。この神殿で浴室をひとりで使用できる日がくるなんて思いもよらなかった。苦痛の種がひとつ減ったことに頬が緩み、周囲から凝視されながら夕食をとって、トルスの部屋を訪れる。


 しかし一通りの話を聞いたトルスが礼を言いながら両手で顔を覆って泣き始めてしまったので、ナーソリエルは一転してうんざりしながらその場に立ち尽くした。嬉しいのはよくわかるが、そういうのは私が立ち去った後にしてくれ。


「おい、入浴時間だが」

「……うん」

「そなたが先で良い。上がったら伝令を出せ」

「ナシル、ありがとう……」

「聞いているのか?」


 呆れて言うと、トルスは袖で何度も涙を拭いながら頷いて、そして顔を上げた。


「本当にありがとう、ナシル」

「しつこいぞ」

「私ね、実は女の子なんだ」


 そして何か突拍子もないことを言いだしたが、興味もなかったので「そうか」といいかげんに頷いて部屋を出ようと背を向ける。が、話は終わっていなかったらしく続きを語り始めたので、ぐったりしながら振り返ると腕を組んで壁に寄りかかった。


「……変だと思った?」

「別に」

「あのね、女といっても……体は男で、だけど」

 途中で言葉を切り、心を落ち着けるように深呼吸する。両手がひどく震えていた。喜んだり怯えたり、目まぐるしい奴だ。


「──体は、ということは精神が女性であると。女性神官として正式に認められるための口添えをしてくれ、という話か?」


 それなら自分よりもアミラの方が向いているだろうと思いながら口を挟む。しかしトルスは悲しげに首を振った。そろそろ風呂へ向かっていただきたいのだが、この話はまだ続くのだろうか?


「思い切って、葉の時に相談してみたんだ。でも、とても受け入れてもらえそうもなかった。変声も終えた私が女子塔へ住まおうものなら、女性神官を怖がらせることになる。神に頂いた体が己の正しい性であると受け入れよと……ナシルもそう思う?」

「誰に相談した」

「ルタエ。女子塔の纏め役だから」

「彼女の前に、カイラーナを挟め。相談は複数人で、自室ではなく研究室か執務室を訪ねろ」


 実際はかなり病んでいるカイラーナだが、部屋にさえ入らなければおそらく大丈夫だろう。相変わらず仕事ぶりはきちんとしているし、穏やかで公平な視点を持っているので、思い込みの激しい火のルタエよりはずっとまともに話を聞くはずだ。


「そうだね……けれど、話したかったのはそんなことではないんだ」

「そうなのか?」

 ならばさっさと結論を言え、と口から出かかったが呑み込んだ。また泣きそうな顔をしている。面倒極まりない。


「別に、声が低くても、髭が生えてきてもいい。とっくに慣れたし、ううん、鏡を見れば少しがっかりはするけれど、その程度は我慢できる。こんな私が女子塔に入れば怖がる人もいるというのも……受け入れられないけれど、理解はできる。あのね、これはそういう単純な区分ではないんだ。私が欲しているのは形あるものではなく、他者との関係性で……つまり私は、たったひとりだけでもいいの、女の子の女友達になりたいのよ、いや──」


 くだらん、お友達が欲しいなどと。


 そう思ったが、それを口に出すとまずいことになるのは流石にわかったので、肩を竦めるだけにとどめる。

「……ならば私ではなく、女性神官に話すべきでは?」

「それは、だって、ナシルになら打ち明けてみてもいいかなって思ったのだもの。ところでナシル……この口調って、気持ち悪いかしら……」

 低いが透明感のある声で静かに話されるそれは、言語としてはむしろ美しい。しかし口調よりもその縋るような視線が面倒くさい。私にそれ以上馴れ馴れしくするな。


「下品でも乱暴でもない。それを不快に思うならばその者の心が歪んでいるのだろう。そこまでを他者の価値観に合わせてやる必要などない」

「……そう、なのだろうけれど。そこまで割り切れないな」

「楽に生きることを第一とするならば、初めから女言葉で話そうなどという発想に至らぬはずだ」

「……女に生まれていればなんて考えるのは、甘えすぎだろうか。初めから持っている人を見ると、羨ましくてならない」


 知ったことか、と言いそうになったが危ういところで我慢する。そもそもナーソリエルは男だとか女だとか、その程度のことの何がそんなに大切なのかさっぱりわからなかった。どちらであろうが本は読めるし、楽器も弾ける。そんなものどうだって良くはないか? いや、もしや──


「高音域を歌いたいのか?」

「はい?」

 違うのか。これで完全にわからなくなった。まあ、ここは適当に流しておこう。


「人としてはどうあれ、神官としては今ひとつだろうな。持たぬものがあるからこそ、それを埋める豊かな祝福を与えられたのやもしれぬ。或いはその苦痛を乗り越えた先に見える景色があるのやもしれぬ。持たぬことを決して嘆かず、持っている僅かなものすらも分け与えるのが、今の神殿の教えではないのか」


 青い目が丸くなる。ロウソクの明かりに柔らかな金の髪がきらりとした。随分中性的な方向に成長したと思っていたが、彼、否、彼女にとっては幸いだったのだろう。


「持たぬ変わりに、与えられたもの……私にもあるかな」

「私に褒め言葉を期待するな」

「……確かに」

 吹き出すようにトルスが笑ったので、それはそれでむっとしながら着替えを準備するよう指示する。少し遅くなってしまったが、場所を知らない彼女を水の神殿の浴室へ案内せねばならなかった。


「……トーラで良いか」

 部屋を出て階段を下りながらぽつりと尋ねると、不思議そうな声が返ってきた。

「え?」

「愛称だ。トルーシウスの名は変えようがないが、女性名で呼ぶことは可能だろう」

「トーラ……」

 震える声が、噛み締めるように復唱する。

「……トーラか。ナシル、感謝します」

 トーラが足を止め、胸に手を当てて丁寧に頭を下げる。ぽたりぽたりと、地面に水滴が落ちた。


 また泣いた……。


「……言っておくが、秘密を話したからといって依存はしてくれるな。親密な友人付き合いならば他を当たれ」

 いい加減限界なので、ぴしゃりと撥ねつけた。が、傷ついた顔をするかと思ったトーラはなぜかすこぶる楽しそうに笑い声を上げる。


「知っているよ、ナシルは私のこともみんなのことも、誰のことも結構嫌っているでしょう。でもそういう君だからこそ、私を気持ち悪がったりしないと思ったんだ。男も女も、どちらにも仲間意識なんて抱かさなさそうな君だから」


 だからこれからもほどほどの距離でやっていこう、と言うトーラに心底ほっとしながらも、どことなく馬鹿にされたような気持ちになってナーソリエルは深くため息をついた。





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