八 カイラーナ
ゆっくり三回ノックすると、中から物音がして扉が開けられた。きっちり着込んでいるナーソリエルと違って寛いだローブ姿のカイラーナが、すまなそうに微笑む。
「待っていましたよナーソリエル。すみません、こんな時間に……明日は朝から用があったことをすっかり忘れていて」
「いえ、これも神の導きあってのことでしょう」
軽く首を振って入室する。そういえば、共同の研究も抱えながらも彼の自室に招かれるのは初めてで、そういう他人行儀なくらいの距離感がナーソリエルには丁度良いのだった。
扉を閉めてカイラーナの後に続きながら、ナーソリエルは失礼にならない程度に周囲を見回し、そして僅かに眉を上げた。部屋が妙に散らかっている。汚らしいというほどではないが、書類や書籍が無造作に積み上げられていたり、シーツや毛布が丸まったまま整えられていなかったりと、神殿の暮らしで必要とされる分には満たない様子だ。これがドノスの部屋であれば何も思わないが、人並み以上に整頓されている彼の執務室と比較すると、少々目につく。
「……お休みでしたか」
「いいえ、丁度お預かりした論文を見返していたところです。概ね結構ですが、あなたが聡明だからでしょうね、少し丁寧さに欠けている箇所がいくつかある。同じ研究をしている私には明白でも、例えばマソイならば論理が飛び飛びになっているように感じるでしょう。そう、例えばこの節──」
早速説明を始めるカイラーナの手元を覗き込み、じっと説明を聞く。指導を書き留めないナーソリエルを厳しい目で見る神官も多いが、今のところカイラーナは一度もそれを指摘したことがない。メモなぞなくとも彼が全て覚えているのを、きっとわかっているのだろう。
「──流れはきちんとしていますから、いくつか表現を改めて、また見せてください。明後日で構いませんね?」
「ええ」
返却された書類を受け取り、このままもう帰りたいと思いながら、ナーソリエルは少し口ごもりつつカイラーナに尋ねた。
「……もう少し、お時間よろしいですか」
「ええ、構いませんよ。他に質問が?」
「いえ……普段は研究の話題しかありませんから、この機会に少しカイラーナとお話しできればと」
自分で言いながら寒気がする。カイラーナは目をぱちくりとすると、今までに見たことのない心底嬉しそうな顔で微笑んだ。
「おや、それは嬉しい。あなたはそういう関わりを不得手としているように思っていましたから」
仰る通りである。
「さあ、椅子にかけてください。ああ遠慮しないで、私は寝台に座りますから。すぐにお茶を淹れましょうね」
カイラーナがさっと立ち上がってナーソリエルに椅子を勧めた。机の上のペン立てに腕が当たって羽ペンや製図道具が散らばったが、ちらりと振り返って「おや」と呟いただけで、そのまま壁際の棚に歩み寄って茶葉の缶を手に取る。ナーソリエルはその様子を目で追って、屈み込むと床に落ちたペン類を拾って元の場所へ戻した。さりげなく覗くと、机の下にも書類が何枚か落ちたままだ。
「ああ、ありがとうございます」
「神の望みに従ったまでです」
「……それでも、あなたの優しさを嬉しく思います」
聞き慣れない返しだ。目を上げると、カップを持ったカイラーナがこちらへ戻ってくるところだった。カップがコトンと優しい動作で机に置かれると、机にじわりと濡れた染みがついた。どうやら注ぐ時に少しこぼしたらしい。
「どうぞ」
「いただきます」
それぞれ小さく祈りを捧げてから、口をつける前に匂いをかぐ。おかしなものは入っていなさそうだ。
「ラベンダーと、カモミールですか」
「ええ、それから薔薇の花弁を少しだけ。どれも神殿で育てたものですよ。お口に合いますか?」
「いい香りです」
そう言ってもう一口飲む。確かに花の良い香りではあったが、少々配分が大雑把なように感じた。ラベンダーが強すぎて、薔薇の香りなど一切しない。入れる意味があるのか?
「それで……どんなお話をしましょうか」カイラーナが優しく言う。
「ダナエス神殿長猊下と親しいのですか?」
マソイの懸念通り、面倒になってきたナーソリエルは単刀直入に尋ねてみた。
「おや、猊下とですか?」
「私は直接お話ししたことがないので。こうしてお茶を飲んだりなさるのですか?」
「そうですね……そうであれば良いのですが、最近はお仕事の話しかできていませんね。神枝長になるとね、神殿全体の方針ですとか、そういうことを天の塔で会議したり……ああ、明日もそれで一日忙しくせねばならないのです」
「そうでしたか」
それにしては頻度が高いと思いながら相槌を打つと、カイラーナはどこか遠くを見るように言った。
「……けれどね」
何か話し始めたので、「はい」と頷いて促す。
「私にとっては……とても大切な方なのです。嘗て、彼は私の養父でした」
意外な内容に瞬くと、カイラーナはナーソリエルに視線を戻してくすりと笑う。
「孤児院出身なんです。当時枝神官だったダナエス猊下が私達のお父様で……中でも甘えん坊だった私は特別良くしていただいて……彼に憧れ、
けれど……と呟き、またカイラーナの目が遠くなる。感傷的な話が嫌いなナーソリエルは、話に区切りをつける機会を伺い始めた。
「神殿に入ったら、ダナエス猊下は私にもう養父とは呼ぶなと、そう言いました。神殿で育ったからこそ、そうして断ち切られるものがあると気づいていなかった。しかし、厳しいあのお方に失望されたくなくて、この歳まで還俗できずにいるのです」
そうしてこちらを見た視線が、奇妙に透き通っている。どうも様子がおかしい。
「申し訳ありません、踏み入った質問をいたしました。今夜はこれで──」
「ナシル」
不意に射抜くような目で見つめられ、腕を掴まれた。
「……何でしょう」
「あなたは……孤独について、どう考えますか」
「どうと言われても」
さりげなく腕を引っ張りながら答える。質問の内容なぞほとんど聞いていなかった。こいつは何かおかしい。早く、部屋を出ねば。
「愛を欲することがどれほどの罪だろうか」
「……人間としての罪ではなくとも、神殿の者にとって神への愛の妨げになるのでは」
更に強く腕を引きながらなおざりに答えると、カイラーナはいつもよりずっと寂しげで哀しそうな目をして微笑んだ。一見表情は穏やかで、どこがどうと言われるとわからないのだが、やはりどこか空恐ろしいような気配を纏っている。
「それでも、人間である以上それ無しには生きてゆかれぬと、そう思いませんか」
「いえ、別に」
痩せ細り骨張った指がさらりと自然な動作で己の腰に回され、ナーソリエルは無言のまま全身を強張らせてそれを凝視した。その手が突然ぐっと彼の体を引き寄せ、よろめいて一歩近づく。こちらを見上げる目の奇妙な熱に怖気が走った。
「ナシル……あなたは、美しく育ちましたね。あの祝祭の深く清らかな歌声……思い出しただけで何度でも、涙が浮かびます」
「それは良かった。カイラーナ、手を」
足を踏ん張って下がろうとする。不健康なくらい痩せているくせに、案外力が強い。
「ナシル、ナーソリエル……もう一歩こちらへ」
「もう一歩進む余地はない」
腕を掴んで引き剥がそうとするが、びくともしない。回された手が、更に引き寄せようと背を滑る。
「それでも、こちらへ。美しい子、ああ、嗚呼、なんて──!」
「『カイラーナ!』」
両腕で激しくかき抱かれそうになった瞬間、魔力を込めた声で強く言った。はたと腕が止まる。その隙に肩を掴んで、しっかり目を合わせた。
「……ナシル?」
「『手を離せ!』」
だらんと両手が下ろされ、ナーソリエルは慌てて飛び退いてカイラーナから距離を取った。
「……ああ、すみません。驚かせてしまいましたね。もうしませんから、どうか、どうか嫌わないで……」
虚ろな目を泳がせながら、弱々しくカイラーナが言った。声が泣き出しそうに掠れている。ナーソリエルは恐怖で手足を震わせていて全く冷静ではなかったが、これだけはわかった。この人、病気だ。
「──『ナーソリエルは論文を受け取った後、一杯の香草茶を振舞われ、すぐに部屋へ帰った』」
遠くを見ている視線をじっと睨むと、ふらふらしていた視線が吸い寄せられるようにこちらを見る。それを確かめて、ナーソリエルは強く暗示をかけた。魔力の量ではカイラーナの足元にも及ばなかったが、それでも相手を魔法で絡めとれるような純度の高い祝福を授かっているのが、神の愛し子なのである。
「すぐ……部屋へ、帰った」カイラーナがぼんやりと復唱する。
「『その他起こった今宵の全てを、忘却せよ!』」
目の前でパンと強く手を叩くと、カイラーナは糸の切れた操り人形のように意識を失って寝台へ崩れ落ちた。それを見届けて部屋を飛び出すと、飛ぶように階段を下りて自室へと駆け込み、部屋の扉を金属の鍵と魔術の鍵で二重に封印する。
ひゅうっと息を吸う音が聞こえた。それが自分から発されていると気づかないまま、目尻に浮かぶ涙を乱暴に袖で拭う。全身を浄化しようとしたが魔力が足りず、無理をして大きな顕現陣を描いたせいで目眩がした。両腕で己の肩を抱いて床に座り込んだが、あの男と同じ建物にいると思うだけで不安が募り、もう安全だとわかっていても震えが止まらない。
優しい人だと思っていたのに──!
いや、今も優しい人ではあるのかもしれないが、とても受け止められるような心情ではなかった。思い出すと吐き気がこみ上げてきて、慌てて思考から映像を散らす。
一人で、ひとりでいたくない──
こんなことを考えたのは生まれて初めてかもしれない。静寂が、誰もいない真っ暗な部屋が怖い。しかしナーソリエルは、こんな時に部屋へ駆け込んで助けを求められるほど、トルスやマソイに心を開いてはいなかった。弱い部分を見られたくないという気持ちが勝ってしまい、床にうずくまったまま動けない。
「……イフラ=アーヴァ」
伝令鳥を呼び出して、しかし誰にも伝言はせず、ただ小さな鳥を胸に抱えて丸くなった。羽毛の感触はないが、魔力が触れるひんやりと優しい感覚がある。こちらを見上げる丸い瞳を見つめていると、少しずつ気持ちが落ち着いた。
「……えっ」
とその時、少し首を傾げたミミズクが小さくホーと鳴いて翼を広げた。慌てて捕まえようとするが、魔力でできた鳥はそのまま腕をすり抜けて部屋を出ていってしまう。何も話していないし、誰のことも思い浮かべていない。いや、まさかカイラーナのところへ向かったのではなかろうかと、ナーソリエルは真っ青になって両腕で自分を抱きしめ、目を閉じて震えた。彼がもし部屋へ来たら……大丈夫だ、扉を開けなければいい。魔術の鍵は彼には破れない。大丈夫、大丈夫だ。
コン、コン、コン。神殿流のゆったりとしたノックが部屋に響き、ナーソリエルはこの世の終わりのような気持ちで息を殺し、扉の裏になる場所へ身を潜めた。大丈夫だ、封印は万全だ、大丈夫だ──
「ナーソリエル?」
高い声が小さく言った。カイラーナじゃない。
「……ファラ?」
「ナーソリエル、何かありましたか?」
震えながら立ち上がって、扉を開けた。素早く左右を見渡して少年を部屋へ引っ張り込み、再び魔術で扉を封印する。
「このミミズクさんがね、嘴でつっついて私を起こしたんです。それで、ただホーと鳴いて、後をついてゆくとここでした。伝令鳥って、魔術だとこんなこともできるのですね」
「……いや。私にも、なぜこうなったのか……わからない」
ファラの肩にとまっている伝令鳥が、もう一声優しく鳴くと姿を消した。伝令の術に伝言以上の機能はない。伝言を聞いた後以外で、こんな風に意思を感じる声で鳴くこともない。一体何だというのか。
「ならば、神の思し召しなのでしょう。エルフト神が私をナーソリエルの元へ導いたのです……何か、私にできることがあるのでは?」
ファラが朗らかな顔でにこっとする。ナーソリエルは首を振ってなんでもないと言おうとしたが、気づくと口は違うことを言っていた。
「……私を浄化してほしい。それから今晩……部屋へ、泊まっていってもらえぬだろうか」
「えっ、『おとまり』ですか? 勿論です。やったあ!」
気の抜けた声を聞くと、冷え切った心に少し温度が戻る。深呼吸すると、寝台の横に飾ってある白薔薇の花が目に留まった。幼少期の無垢で甘やかな記憶が蘇る、ナーソリエルの一番好きな花だ。美しいものを見ると、固まっていた何かがゆっくりと溶け出すような心地になった。
「……泣いていたのですか、ナーソリエル?」
ファラがそっと尋ねた。カイラーナと同じくらい優しい声で、彼よりもずっと──澄んでいて神聖な、静かに天から降ってくるような声だ。
「いや」
まだ少し震えている手をじっと見て、顔を上げる。ファーリアスは微笑んで、一言「怪我はありませんか?」と尋ねた。首を振ると、彼はそれ以上は何も尋ねずに大きな浄化の陣を床へ描き始めた。暗い部屋に水色の光が満ちて、ナーソリエルは言葉もなくそれを見つめた。
一度にバンと全ての線を描いてしまうナーソリエルに対して、彼は優しく指でなぞりながらゆっくりと、ひとつひとつ丁寧に陣を描いた。蔓草が伸び、葉を茂らせ、ところどころに小さな花が咲く。
「この青葉の一枚一枚が、あなたの心の傷を癒しますように。神の祝福が、あなたの心の曇りを払いますように……」
高い声が祈り、陣が輝きを増す。神の力が顕現するように、少しずつ光を増して。
ネ・アテス=スル・ハツァ
神の祝福があなたの上に降り注ぐ、雨のように
そして海の如く汝を受け入れ
水の
イルト・ルヴァ=フュム・ナ=スクラゼナ
神の声が天から降った。
そう思った。光が大きく立ち昇り、ナーソリエルの全身を覆って、全ての穢れを清め洗い流す。
「……オーヴァスよ、感謝いたします」
思わず跪いて祈った。涙がこぼれた。これが顕現術──本物の顕現術だ。実は魔術と同じものだなんて、そんなのは甚だ見当違いな考えだった。紋様の配置がどうこうではない。祈りはきちんと力になって、神に届いて、そして神はそれにお応えになるのだ。願いの力が魔法を強くするように、こうして描く陣も、ひとつの願いであり、祈りなのだ。陣自体が祈りの言葉になっているから、それをなぞることで奇跡の力が発現するのだ──
「……そなたにも、感謝する」
「私は神の導きに従っただけ、全ては神のなされたことです」
礼に対するこの返答に、こんなに心を込められる人間が他にいるだろうか。少なくともナーソリエルは、形骸化したものとして何も考えずに口にしていたばかりだった。
「ファーリアス……疲れていないか。茶を淹れよう」
呼びかけると、とても十歳とは思えぬ大きな術を使った葉神官は不思議そうに首を傾げた。
「ファラですよ、シャルでもいいですけど」
指摘に首を振る。
「いや。ファーリアスと、今はそう呼ぼう。名を略さず呼ぶのは、敬意の表れであるからして」
ファーリアスはきょとんとしていたが、しかし少年はナーソリエルが戸棚から角砂糖のポットを取り出すやいなや目を輝かせてそれに夢中になった。視線を釘付けにして、小さく「お砂糖……」と呟く。
「……好きなだけ食べなさい」
疲労回復に茶へ落とすつもりだったが、どう見ても齧りたそうな顔をしているので蓋を開けてやる。ファーリアスは信じられないという顔をして、そして囁くように「ひとつだけ……」と言うと、角砂糖を口に含んでとろけるような笑顔になった。
「お砂糖の味がします……」
「そなたの部屋には無いのか? 糖分の摂取は明晰な思考に必要なため、茶葉と共に申請すれば一定量支給される」
「ほ、本当ですか……? でも、カリカリ食べたいから申請するのは、良くないことだと思います……」
「贅沢になるほど与えられぬため、その心配はいらぬ。茶に入れようが直接食そうが、胃に入れば同じことだ」
「そ、そんな……うわあ、そんな」
少年が両手を頬に当てて幸福そうにするのを見ると、ふっと笑みが浮かんだ。水の祝福に癒された今は、先程のことなど全く大したことはないように思える。ただ、病んだ人間が正気を失った場面に居合わせただけだ。それも、上手く逃げ切った。相手の記憶も消した。
ほうと大きなため息をついて肩の力を抜き、その夜はふたりで茶を飲むと眠りについた──となれば良かったのだが、寝相の最悪なファーリアスが寝台の上をごろごろと転がりまわってナーソリエルを何度も蹴ったので、彼は結局小さな木の椅子に腰掛けて、図書塔から借りてきた本を朝まで読み進めたのだった。
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